私と物語ちまみぃ への感想

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評価平均

発想3
構成3.3
表現3.5
総合3.4


読み手の多数が書き手という、こういうイベントにこその作品だと思いました。自分一人のための創作が読み手を意識する方向へ転換するとき、どういう世界が広がるのでしょうか。

小説を書く理由が現実逃避という点に共感し、のめり込むようにして読みました。
過去の境遇など自分と似た部分もあり複雑な気分になりましたが、自分の心にぶち当たってきたのは間違いないです。

 どうにもぴんと来ないです。他人が書いているのですから、他人事であるというのは当たり前のことではあるのですが、この話はその他人事よりも更に遠くにあるものに感じられてしまいました。比較的抑えられた筆致で描かれる『ところでというのもおかしいけれど~』以降の淡々としつつもところどころで耐え切れず感情が浮上してはまた元の調子に戻るような文章を目で追いつつ、最後に再び冒頭と同じ言葉の連なりで閉じられるのを見届けたあと、言うことはなにもない、と思いました。

そうなぁ。何故って言われると書きたいからとしか言えない。
考えていることやものを見えるかたちにしてみたい。
かたちになったものを見てみたい。
そういう意味では好奇心に近いかもしれない。
他の人のことを考えるのはそれからで良いかなぁ。
と思いながら読んだ。

ふと幼い頃、本気で怒った母親に竹刀で殴りかかられた際
しゃがんで避けて「やりおる」みたいなことを言われたのを思い出した。
それから大人の理屈で見たいもの、やりたいことを制限された時
相手の言質を利用して矛盾点を突き、なるほどと妙に納得されたのを思い出した。
自分の屁理屈なところはそのあたりから始まっているような気がして
少し感傷的な気分になった。

 父親が書かれない、というところが印象に残りました。もっとも身近であるからこそ、もっとも幸せと遠かった父には理想すら描けない。でも、物語ではなくエッセイならば父について言及することができる。そのあたりに、物語へ「現実逃避」をしていたという作者の決心のようなものを感じました。

 小説は僕にとっても夢の世界であって、現実から目を背けたいというより、もっと夢を見ていたいという理由で書いている気がします。そのせいか、書く小説にはいつも不思議な出来事や夢のような出来事ばかり起きるような気がします。怖いのもとっきどき。悪夢って言うのも、たまには見て安心したいものですので。

大きな命題を与えてくるお話でした。
「何故書くのか」に対する答えはおそらくそれぞれにあると思うのですが、考え出すと止まらなくなりますね。
幸福に対する考え方もやはりそれぞれにあると思います。
色々と割愛して、端的な感想になってしまいましたが、悪しからず。

〉親とも仲良しで、割りと明るくて、趣味があって、資格も持ってて、結婚もして何が? と思うかもしれない。
 いやそういうもんでしょう。

 💨 💨 💨

 噴飯商事庶務課のOLアケミは電車に乗っているとき、オナラがしたくなった。椅子は半分も埋まっていないし、立っているのが数人、乗客は多くない。満員電車なら我慢するしかないが、この密度ならやれる。そう、すかしっ屁を。
 しかし、そのもくろみはうまくいかなかった。というのはちょっとしたファンファーレを、車内に響かせてしまったのだ。恥ずかしい。とても恥ずかしいが、恥ずかしがったりしてはいけない。かといって開き直っててへぺろというわけにもいかない。爽快に笑いとばしてくれる人なんていないだろうし、それどころか向かいに座っていたイケメンが目をそらすのが気配でわかった。
 アケミはおもむろに靴の裏を床にこすりつけた。それから軽くとがらせた唇を震わせたりして、あたかもそれらの音が屁に聞こえただけだったかのようにふるまう。ふるまうがしかし、アケミとてこんなことで乗客たちを騙すことができると信じられるほどお目出度い女ではない。実際誰も騙されなかっただろう。それでも降車駅までずっと、何もしないよりはマシだとばかり、屁に近い音を探し、そして鳴らし続けた。

 💨 💨 💨

 すかしっ屁をしくじったアケミは、きっとつらかったろうと思います。でもアケミがそのことについて本格的に考えるのは、電車を降りて、家で一息ついてからです。こんなことなら家まで我慢しとくんだったとか、せんなきことをグルグル考えてしまうわけです。

 でもそれも昔のこと。今ではアケミはケツの開き方から臭いの散らし方まですっかりマスターし、全国をまわってすかしっ屁講演を行っています。
 だからあなたも、理由を変えて書いたっていいのです。

FIN.

実話なのか事実に盛った話なのか創作なのか分からないけれど、現実逃避のために架空の世界で理想を追求する気持ちはあるだろうなぁ。
物語を書く人の集まる場でこのテーマの話を持ち込むと、文章の仕上がり云々よりも、「えっと、自分の場合は…」とよそ事に思考が回りそうです。

失礼を承知で言うと内容にあまり興味を持てなかったです。個人的にはなぜ書かれたかは評論家のような掘り下げたい方が勝手に掘り下げればいいし、なぜ書くのかというのと読者が面白いと思うのは関連性があまりないと思っています。中原昌也みたいに生活のためにとか金のためにとか言う方が個人的には腑に落ちるとこがあります。

 僕は、これが事実なのかフィクションなのかを判断する材料を持っていない。事実ならば、この告白に賛辞をしたい。フィクションであるならば、想像と構成に拍手を送りたい。どちらにしろ、心を揺さぶるには十分な作品であったと思う。

作中に「その人生を振り返った時に良かったなーなんて微塵も思えない」という一文があるが、30歳くらいで諸手を挙げて「我が生涯に一片の悔いなし」なんていえちゃうのは、ラオウくらいのものではないだろうか、という思いはある。一般論でいってしまえば、程度の差こそあれ、誰しも家族のことに煩わされ、コンプレックスを抱え、思春期の葛藤を経験する。そしてそれは、今まさに思春期に足を踏み入れんとしている我が娘の姿とも重なる。でも、だからこそ、こういった作品はチクリと心に突き刺さる。
自分は作者氏を存じ上げないし、これが私小説でも創作だったとしてもそんなことはどっちでもよくって、もっといえば、別に相談されているわけでもカウンセリングをしているわけでもないから無責任な感想を言っちゃうんだけど(それが読者としての真摯な対応であるはずだから)、1つでも心の拠り所を見つけられた「私」は、きっと幸せなんだと思います。
そして、首題である「みんなはなぜ小説を書いているのですか?」という問いかけは、読者に向けられているようでいてその実、自分への問いかけなんじゃないかなと感じました。それはラストの「いいね!」に集約されている。
それでいいんじゃないですかね!

途中から「これは小町か? 増田か?」と思ったけれども、文体から作品と認識しました。
「私」が特上のハッピーエンドを求めて書いたと言うわりに、「私」が書いたであろうこの作品がそれほどハッピーエンドでないのも気になりました。おそらくこの物語はまだ途上なのだと思います。
書く目的である「現実逃避」の現実の描写より、書いた物語の描写の割合が多く、また色濃く描けたなら、ハッピーエンドも近いのではと思いました。

まっすぐな文章でした。
すごく意地悪に言えば「不幸自慢」の文章だと思うのですが、「不幸自慢」特有のウザさや面倒くささは感じませんでした。
何でだろうと数日考えたのですが、

・「不幸自慢」そのものが目的なのではなく、読者に問いかけるための手段として語っていて、必然性があるから。

・物書きによくある「不幸」なので、割と理解できてしまうから。

概ねこの二点に集約されそうです。
今後の『かきあげ!』で同系統の作品が出てくるケースを想定して述べておくと、一歩間違うと「面倒くさいだけの文章」になってしまうので、書き手の方々には自戒をお願いしたいです。

話を本題に戻すと、現実逃避でいいじゃないですか。
むしろ私にとっては「幸せな人が小説を書いている」ほうが不思議です。幸せな人は、小説を書くなんていう孤独で面倒な作業よりも、楽しくて有意義なことをたくさん知ってるはずですから。
不幸せな人がたどり着く楽しみのひとつが「物語」なのだろうと思っています。

なので、問いに対してお答えすると、「楽しいから」です。
何がどう楽しいかを述べようとすると、作品並みの分量になるので控えますが。

一度目にざらっと目を通した時は、冒頭から終盤に進むにつれ、語り手の態度がまるっきり変化していくことに驚きました。初めは広く公けの場に向けて言葉を発しているのですが、徐々に声が小さくなっていき、彼自身の内面へと沈んでいく、というような。この変化を共に経験できただけでも良かったと思います。最後らへんは多少混濁しており、どういう思いでそれらが言われているのか測りにくいところがありますが、それ以前においては、文の調子にこれほど正直に感情が乗るというのも珍しいのではないでしょうか。

かんたんに可哀想なんていえない。
そんな子どものころの事を、読みながら悲しくなりました。
とちゅうで、これはお話なのか、ほんとのことなのかと、悩ましくなったりして。
そんな辛さを持ったまま大人になったのに、親と仲良くできるひとってすごいなあとか。
普通にドラマをみて思ったような感想ですみません。
自分とは遠すぎて、やっぱり違うせかいのことのようでした。

んー、これはノンフィクションなんだとしたら、第三者が言及する問題ではないし、もちろん個人的に相談されたらいくらでも話を聞くけれども、こうした場で倫理観をあれこれと語るのもどうかと思うので、作品の感想を書くのは難しいですね。
というわけで、「なぜ小説を書いているのか?」という質問に答えようと思います。
私も現実逃避というのが一つあります。ブスだったし、コミュ障で空気読めない子だったし、あんまり友達もいなかったし、もうヲタク&腐女子に成るべくしてなったような典型的な人間ですから、変身願望を満たすものが物語でした。最初は下手くそながら漫画を書いていましたが、中学高校と文芸部に入って小説を書くようになりました。この頃知り合った友人たちの影響でコミケというものを知り、同人誌の存在を知りました。ついでに言うとまだ「やおい」と呼ばれていた頃の、今で言うBLに目覚めたのも同時期でした。あ、要らん情報でしたかね(笑)。
そんな感じで、コミケに参加する為に新刊出す!という具体的な理由がもう一つ。売れなくてもいいのでとにかく何かしら本を作って持って行く。という低ぅ〜い志しの為に同人誌を作ってます。それでも楽しみにしてくれる友人がいるので、彼女を喜ばせる為に書いている節がありますね。
あと、やっぱり思いついちゃったから、書いちゃうっていうのも、もう一つの理由だと思います。
何か経験したり、ドラマでも漫画でも小説でも観たり読んだりした時に、「自分ならどう書くかな」「あのキャラクターならどう動くかな」「もっと、こんな設定の舞台だったら、物語はどう変わるかな」と、常に考えている気がします。もう癖ですね。
こんな感じで、「なぜ?」の答えになっているかわかりませんが、以上、私が小説を書く理由です。

読者に対する問いかけではじまり、問いかけで終わる。「私」が他人からの回答を求めている。
作中のほとんどは、つまり親の関係における描写は、感情の抑圧が強弱をつけて描かれている。その最大点と回答を求める「私」が対称になるように描かれている。「私」にとって物語を書くこととは抑圧された苦しみを相殺するための装置であるように思われる。
装置をもって±0にしようと求めているが、「もはやそれで十分幸せだ」が示すとおり、妥協がある。つまりまだマイナスなのだ。直前に世界が広がったことが描かれているということは、それをもってしても、未だ満たされていない。満たされないからこそ、さらに「いいね!」で満たされたいと思う。
問いかけは、「いいね!」と同じく満たされていない感情の発露ではなかろうか。
そしてここに至って二重の現実逃避となる。この先何重と積み重なっていくであろう現実逃避は、最後の問いかけで、読者に預けられる。その未来がわかっているからこそ、最後の一行に重みが出ていると思う。

刺さる。
しかしこれは、おれがちまー本人を知っているから、感情移入しての「刺さる」なのかもしれない。勇気を褒め称えたい気持ちと、もっとできるだろうという気持ちがないまぜになって、とても複雑なんだけど悪い気はしない。
今回、この作品がトップであったのは良かったと思う。

2ベースヒット!
あぁ、深夜に読むんじゃなかったなぁ。おじさんなんだか悲しい気分さ。
たまたま幸運にも恵まれた環境だったから、思いきり引き込まれることはないんだけど、表現力でまざまざと魅せられちゃうんかな。
もう、もう、って腹這いで逃げてるのに足引っ張られちゃう感じ。前向きな主人公どうか幸せになってください!

なんで小説書いてるか。他に表現する方法をしらないから。

この作品について、何か言える言葉を持ち合わせていないです。
とにかくストレートで、まっすぐなゆえに、心にずんと突き刺さるものがありました。
とびきりハッピーエンドな作品、まってますね!

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