明滅,一灯はるしゅら への感想

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評価平均

発想3.8
構成3.2
表現3.9
総合3.3


 最初、ゆるやかに照らし行き来するわたくしに合わせて揺れるようにして読み進んでいきました。クェンジが目を逸らしたあとにイメージが広がり出してからというもの、終始、頭の中がちかちかしているような、そんな感覚に陥りました。また、下敷きにしているものの影響かもしれませんが、最後の方で漢字の比率が下がってひらがなが多くなるのも、寂しさをより強めています。そして、繰り返し滴下する「わたくし」。寂しさの中に灯る一筋の灯り。そんなものを頼りにしながら、何度も何度も読み返し続けています。

「わたくし」世界がこのようにループしているのならば、淡々と無機質に語られる描写が少しホラーぽいと感じるからだろうか、怖いです。「わたくし」が感じているものが半分共感出来て、半分理解できない。読者側のその時の状態によって受け方が変わるかもしれない。
あなたは、どう読みますか? と試されているのではないかと思う。

一回読んで理解できず、その後何度か「よし、頑張ってみよう」と再読を試みたのですが、それでも力及ばなかったので、一旦撤退することにしました。
Twitterを見てこの作者さんが誰なのかは知っています。人柄から推測するに、こういう読み手の存在はある程度織り込み済みだろうと思いますので、遠慮なく撤退できるという意味では安心です。

実験的な試みをしていただくのは、個人的には歓迎です。新しいものが生まれるところが見たいという欲求は強くあります。ただ、こういう作品ばかりになると辛い気もします。楽しめてる方もいらっしゃるようなので、これはこれで良いのかもしれませんけど。

小林さんがめっちゃ丁寧に感想書かれてるので、感想を踏まえた上で再挑戦するかもしれませんが、少なくとも数日は時間をおくつもりです。

まず面白いなと思ったのは、おそらく最後の一文と最初の読点が繋がって作品として完成する構成です。しかしながら私の構成に対する評価基準が読みやすいかどうかではんだんしている為に、この構成点は星一つになりました。「これはどこで何をしている話なんだ?」という評価です。ですがこのアイデアはとてもいい、素晴らしい、ということで発想は星五つです「予想の斜め上をいく発想に脱帽」という最高点です。
もう、最初の数行読んだ時点で、これは私の理解を超えている! と思ったのであとはもうわたくしが誰かとかここはどこかとかはどうでもいいんだろうなあと思いながら読みました。黒の鉛筆だけで描かれた短編アニメーションの映画とかになったら観てみたいと思うようなお話でした。

 まず文章そのものに着目すると、冒頭の難しい漢字はもちろん、テオドラン(軟膏?)、フゥドラム(ごろつき?)といった耳慣れない言葉からショーウインドウというごく身近な言葉へと(クェンヂ、トッシイといった聞いたことはないがそこはかとなくなつかしさのある名前を持った人物の足取りとともに)千鳥足よろしく離れたり近づいたりしながら、しかしそれらは意味的というよりも映像によって常にしっかり結びついている。その映像はゆめ幻のようで、残酷で、シュールだ。文章は読点で長くのびた特徴的なもので、さまざまな視点から場面を写しながら、半ばからのっぴきならない状況がはじまるが、対して語られる文章は落ち着いていて、かつ子どもが蟻の行列に魅入られるように集中している。燃える照明が姿をかえながら火の移りゆくさまはドミノみたいなおもしろさがある(それは「イルミネーション」とも呼ばれている)。子どもはそれまで夢中になっていたはずの蟻に対してふと嗜虐的になって、行列を壊したりもする。それは彼にとって整然と並んだドミノを倒す快楽と同質だが、客観的にはやはり残酷なことだ。子どもの心はただただきれいなだけのものではないということを、きれいな子どもの心を背景に刻んでいる。この豊かで飛躍的なイメージは、同時に整然としたものでもある。
 小さな範囲で文と文は意味的というよりも音的につながっていて、では全体に内容のない話かというと文の塊は映像になっていて、意味的なつながりを持っているのはその映像だ。映像は現実のようでもゆめ幻のようでもあって、物事は確かに起きているけれどそれをくるんでいるものは虚空だ。虚空に物語が展開されていく。そしてだんだんと形を成していく。ここではつまり形を失っていくことと同じで、場面はメビウスの輪のようにつながって終わりもはじまりもなく物語(現実とゆめ幻)を攪拌し続けている。

 正直なところぼくには「何が書いてあるか」ということを明確に言うことはできない。視点は複雑なつながり方をしているし、ループはそれをさらに加速している。回転するたび形を変える万華鏡みたいなもので、ただただ圧倒的なイメージの奔流に飲み込まれてしまった。それは悪い気分ではなく、テキストの響きは中原中也を読むような心地よさで、たとえば『サーカス』に見える高揚と寂しさ、喧騒と静寂というような、アンビバレントな気持ちにさせられた。

 ループはさほど珍しい構成ではないけれど、こうやって途中からはじまる(明確な始点は確定できないが)というのはおもしろい構成だと思う。しかも読点からはじめることによって容易にそれとわかるようになっている。わかりづらいようでかなり優しい作りで、それは文章そのものの視覚的な配置にもあらわれている。ここはとくに感動したのでちょっとちゃんと説明させてほしい。はじめはぼくの考えすぎかと思ったが、このテキストは間違いなく意図的な構成になっているのだ。
 読書をはじめるとき、必ずしも場合作品の中にすぐに入り込めるというわけにはいかない。(少なくともぼくは)はじめのうちはなんとなく読んでいて、だんだんとのめり込んでいくということがよくある。のめり込んでもわからないことがあると、はじめにもどって読み返すことになる(のめり込めなければ読むのをやめてしまう)。この構成はまるでそうした読書の傾向をそのまま表したようなのだ。なんとなく読み始めても、どこかでテキストと合流できさえすれば、自然と冒頭へ戻される。
 ラストで一気にひらかなが増えるのに対して、冒頭では画数の多い漢字が多用されているのもそのためだろう。これは読者がテキストを読み進むにつれて作品にのめり込んでいって、読書のスピードが上がることと対応しているはずだ。つまりこのテキストは読者(もちろん一部の、ということになるが)の感覚に対応するように構成されている。この構成はテキストをたのしむための効果であると同時に、もはやバリアフリーと言ってもいいくらいの機能としても働いているのだ。
 映像的な表現を音でつむぎながら、計算しつくされた構成を同時に行うという離れ業、それこそまるで『サーカス』だ。これにはもうなんていうかとにかく驚いた。

 申し訳ありませんが、読み取ることができなかったです。

視覚に偏った、しかし渾身の、見る・見えるイメージのめまぐるしい連続に、めまいを起こしそうになります。幻想というよりは幻影。子供の頃、意味もなくぐるぐる回って、回転の余韻を楽しんだのを思い出しました。

イメージする場面の描写ではなく、表現のために現出する風景というふうで、想起される絵は鮮明でありながら、言葉が先行しているせいかわかりにくいという不思議な感覚があります。また後半の残酷な展開には、何らかのメッセージ性があるのかもしれませんが、私にとってそれを追求するのは楽しくありません。ただ影絵のようなイメージが思い浮かぶまま、この幻影を眺めていたい。

こういう、全体的に抽象的な感じな話は苦手です。空気感とかは分からなくもないけど、どう捉えても、読者のわたしは作者の意図とはかけ離れた解釈をしていると思えてならないからです。ま、読者がどう捉えてもいいよー、という寛大な筆者であっていただけることをつい望んでしまいます。なもんで、国語のテストでよくある、文章読解にこの話が使われたら、100%0点な気がしてしまうものでした。
誰の、どんな立場の方の視点かもよくわからない。町に溢れている監視カメラかなー? とも思えたけど、ヒトとして実体があるような感じまして、うん、やはり捉えられない。
描写も、独特な雰囲気があるんだが、私が思うこの文章に合うと思えた言葉から、ところどころ逸脱していて、リズムが途切れてしまう所も多くみられた。「立ちはだかる人の壁が周囲をめまぐるしく交通します。」……交通します?? とか、例を挙げるとこういうところ。


文末からまた文頭へ戻るということで良いのでしょうか。
根性がないせいか、何度読んでも頭に入ってきません。
街灯にでもならないと見えてこない風景なんですよね。
ちょっと不思議な感覚に襲われています。

正直読むのが大変でした。
けれど次から次へ繰り出される言葉の奔流が幻想的でした。
元は廃墟の中で点滅する街頭の光としてのわたくしでしょうか。過去照らし出していたものによって、自分はあるものとなった。今は誰もいないが、わたくしが今あるのなら光を照らすことによって、過去が蘇るのではとその明かりの中に立ち上がる過去。ショットショットの場面の中に兄妹が動き出したものの、終末の破壊がもたらされ、照明の感覚も間遠になる。そして、未だあるわたくしは、
と、読みました。美しくも寂しい光景が見えた思いです。

改行のない話はたまに見かけますが、それらは一様に「漢字が読めない」という私自身が情けないばっかりに諦めざるを得ない。
けれどこの作品は、微妙に読めてしまう。と言うことは、表現が最重点ではなく読んでもらいたい何かがあるのかなと思い読み進めた。
繰り返される幻想。と書くと些か厨二っぽいが、その実とても生々しい。二週目ではまだ全容を理解できたわけではないけれど、読めたら面白いんだろうな、という感じです。
幻想的、かつ破壊的なタイトルが好き。

読み直していたらこんな解釈もできたので。
たとえば、これはすべてクェンヂの心象風景(走馬燈)で、何らかの災禍によって現実の「わたくし(クェンヂ)」とその世界は焼尽してしまった。彼の心に浮かぶのは、もっとも心残りの記憶、つまり子供のころ妹と一緒に街へ出かけた思い出、見るだけのつもりで入った洋菓子店(あるいは別のお菓子をお使いに頼まれていたか)で妹にねだられた、あのケーキ。「わたくし」は洋菓子店の店員となり二人にケーキをプレゼントする(つまり自分の思い出に介入、改変している)。
しかし「幻のクェンヂ」の目から(あるいは目を閉じても)見えるのは、「天頂に灯る照明」が落ちて燃えてゆく街の姿。つまり現実の世界。けっきょく兄が食べることになるのは苦く、破壊された現実の燃え殻。
ついに「わたくし」の幻視は終わるが、輪廻のごとくすべては循環する。
終結部のことばは、クェンヂの意識が解体しまた凝固する過程のようにとらえました。
長文失礼しました。多様な解釈ができる素晴らしい作品だと思います。

抽象的な言葉の羅列で状況を描写された 謎めいた雰囲気と雑多でどこかノスタルジックな描写は良かったけど、 漠然としたイメージだけが思い浮かぶだけで結果として何が言いたいのかが見えてこない。
そもそも文中で申し訳程度に出てくる“わたし”がだれだかわからないのに、ラストでにわかに“わたし”“わたし”と自己主張されても困ります。
そういう演出なのでしょうけど、せめて改行してくれればあるいは…。

なんだかよくわかりませんでした。言葉が頭に入ってこない感覚。

「遥か彼方がそこにあり、身近な肉体は遠くにいました」。冒頭周辺のこの一文が、作品全体に通ずる一つの特徴であると思われます。「クェンヂ」と「トッシイ」は「わたし」なる透明な存在が名付けた仮の名であり、彼らが燃え上がる街に翻弄される様子は人形劇のようです。(余談ですが、クェンヂを「kulendi」に直して検索してみたところ、ズールー語で「既婚」を意味するみたいで、ちょっと楽しかったです)

息詰まる、黒々とした作品の大部分を読んでいくと、最後に平仮名が多くなり、視覚的にも明るくなります。これは、たとえば「馬鹿野郎!」が場合によっては愛情表現にもなり得るように、『明滅,一灯』の文脈においてしかその機能を果しえない文章表現でもあります。つまり、引用が成り立たない。名言集のように、そこだけを切り出して独立させることができない。

他にも、タイトルと同様にして、句読点を全部「.」と「,」に置き換えてみたらどうなるだろうかなど、いろいろと考えてしまいました。

文章の書き方が幼く、言葉選びを楽しむ話にしては物足りず、雰囲気に入って行けませんでした。

灯りが消えたらなくなってしまいそうな幻想的な雰囲気は好きです。たぶんもっと読み取れることはあるのでしょうけど分かりませんでした、ごめんなさい。

いやまったくわからん。
おれには難しすぎました。

賢治の名前を出すのが野暮になるほど賢治で、それでいて「チューインガム」「イートインコーナー」「路上ミュージシャン」など今的な単語が現れるのが新鮮です。
作品全体が循環する一つの幻燈のように読めて素敵でした。兄と妹を取り巻く情景は、豊かな語彙と繊細に感覚を刺激する文章によって、たしかに裏付けされているように感じます。
何度も読み直したいと思いました。