断食以後アイスキャンディ への感想

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評価平均

発想3.6
構成3.1
表現3.5
総合3.5


ごく個人的な感想を述べますと(それ以外にあるのかという話もありますが)、「これこれ、これが自分の持ってる小説のイメージ!」です。なにか派手で巧妙な手管を用いているわけではありませんが、不思議と読ませる文体といいますか、どんな人でも相性とか先入観があると思うのですが、そういう意味でピタッとハマってすんなりなじんだ作品です。自分も小説ではありませんが黒歴史的に『断食芸人』をヒントに作品をつくったりして、カフカの中でも印象の強い作品です(いちばん好きなのは意味の取りにくい短い断片だったりする)。
それで、あの『断食芸人』をどのように使うのかと思ったら、この『断食以後』の明快な文章で、虚実入り混じったミステリー(入り混じってないのがあるのかという話もありますが)、しかも特段解決しない、でもカフカというよりどこかボルヘスチックな結末、堪能いたしました。
カフカは『変身』なら変身、『流刑地にて』なら処刑、『歌姫ヨゼフィーネ』なら歌と(短編だと特に)、テーマにはっきりフォーカスをあてて書いている、でも読んでみると不思議と曖昧で、多義的で、神秘的ですらあるように自分は思いますが、この作品でも「継承」(あるいは「記憶・記録」)というテーマにきちんとフォーカスがあてられているうえ、曖昧で、多義的で、どこか神秘的です。そしてこの作品が恐ろしいのは、シンプルな小説の体裁をとっているにもかかわらず、書名としては出てこないものの『断食芸人』を下敷きにしたメタ・フィクションであるということです。つまりメタ・フィクションであるにもかかわらず、「この作品はメタである」と大げさに言い立てない、「ドン・キホーテ」もそうであったように、読者はただ書いてある物語を、いや記述を楽しめばいいのです。自分としてはそのように読めるこの作品はたいへん好ましいです。
なにより自分が驚いたのは最後のセリフです。
「原本はきちんととってありますから」?
この作品の中の『断食芸人』は、「アイスキャンディ」の書いた作品の中の『贋作・断食芸人』です。普通、どうしたってそうとしか考えられません。しかしこの一言によって、「原本」とは一体どの原本を指すのか、カフカの書いた『断食芸人』なのか、アイスキャンディの書いた『贋作・断食芸人』なのか、それとも我々の知っている『断食芸人』という書物ですらないのか、読者に考える余地ができます。それに原本と主人公に渡された写本とは一言一句たがわぬ関係なのか、かなり違うのか、ぜんぜん異なるものなのか、そこにも考える余地があります。そしてそれは主人公に原稿を手渡したカフカのような人物の正体にも同じことが言えると、最後から一つ前のセリフ、「あなたは、一体」が表している……と、まるで『断食以後』を最後から逆に読み返していってしまいたくなるような多面的な構造になっており、読者は、「結局、最初から最後まで(最後から最初まで)はっきりしたことは何も明らかになっていない、しかし、何も明らかになっていないということは明らかになった」というカフカ作品の持っている誠実さを、結末から、作品全体から読むことができるのです。

カフカの断食芸人は知らなかったのですが、かきあげ!に投稿されている以上は、未読の人でもわかるように書かれてるだろうと考え、まずは本作を拝読しました。大衆娯楽において、映画が台頭して見世物小屋などが姿を消してゆく過渡期という設定のようで、ちょっとなつかしい。いやその、私の幼少期にはすでに映画は大衆娯楽として定着しておりましたが、見世物小屋やサーカスも何とか生き残っていたのです。サーカスは二度、見世物小屋は一度観ました。サーカスはふつうに楽しかったです。見世物小屋は、もうとにかく胡散臭くてサーカスとは別の意味で楽しかった。そういうことを思い出したりしました。

この作品のおもしろいところ、と言っていいのかわかりませんが、私がおもしろいなと思ったのは、作中の「私」の目的がさっぱりわからないところです。なにかものすごい情熱は感じるのですが、何がしたいのかが今ひとつよくわからない。断食芸人を探したいのか、探したいとして探し出してどうするのか。もう一度「断食芸」が観たいのか、断食を芸として続ける真意を問いたいのか。でもきっと「私」はわからないんだろうな、ということは、断食芸人を知る人物との会見の様子で見て取れます。
でも結局のところ、この作品は「断食芸人」を未読の人にもわかるように書かれていても、何かの感想を引き出すには不充分ではないかと感じました。「断食芸人」を読んだあとで。(ありがたや青空文庫)
パロディとは元になる作品を知っている、愛している人にこそ向けられたものなのだから、私がこう感じるのは自然なことでしょう。私の場合は元を後で読むという順序としては逆になってしまったわけですが、ざんねんなことに答え合わせの読書になってしまいました。
また「私」の姉という存在を接点に選んだところが妙味でもあり、同時に私(本作)と断食芸人(原作)を近づけすぎたようにも感じました。

断食芸人ということばはどこかで聞いたことあるな〜と思ったらカフカの小説でしたね!未読です、無学ですみません。
淡々とした文にも拘らずつるっと読めました。しかし、断食を芸と捉えることの奇異さといったらないです。この作品ではその感覚が当たり前になっているので、そこあたりのちょっとした不気味さに好感が持てました。

 昔、「断食芸人」を読み終わったあとに「断食以後」という発想は一ミリたりとも浮かんだことがなかったので、まずそれを思いついたことに不意を突かれたような気になりました。ところどころに挟まる『断食芸人』原典自体に対する突っこみ(四十日ネタとか)は、読んでいない人はピンと来ないかもしれないと思う一方、読んでいる身としてはクスリとさせられました。
 個人的に感情面で微妙にノリきれなかったのは、「水を飲んでいるじゃないか~」のくだりのあとに、「神業に惚れこんだ」のに飛躍する部分。形式上作中の「私」の回想である以上、100パーセント当時の「私」が思ったことではないのでしょうが、前述した「水を飲んでいるじゃないか~」から「神業に惚れこんだ」までの間に、「私」が断食芸人に抱いた感情が記されていないため、より唐突な気がしました。こうした一読者であるこちらと「私」の間での感情面での齟齬は度々起こっていて、「私」が語る断食芸人自体に、こんな風に見る人もいるのか、とやや他人事の体で見ていました。ここら辺は実際に断食芸人と面識のある語り手と、次元ごと隔てられた読者との温度差かもしれないです。
 ここまで書いてから気付いたのですが、「断食以後」というタイトルで語られる話の作中に「断食芸人」という言葉が出てくることで、カフカの「断食芸人」を読んだことがあるもの(主に一読者であるこちら)は無意識にその二つをくっつけてしまいそうですが(現に読者である自分は無条件でそう思って読んでいました)、別にそんなことはどこにも保証されていないということです。作者さんはカフカの「断食芸人」のその後を書くつもりで書いているかもしれないし、そうでないかもしれない。カフカの断食芸人を外から見た「私」なる存在の記録であるかもしれないし、それとは別の断食芸人について語る「私」の語りであるかもしれない。二次創作であるように見えて、実のところそうでないかもしれない。そう言ったふわふわとした可能性の間で揺れ動き、読者であるこちらにはどんな性質の話であるのか確定できないのだと。こうして列挙した事柄は別段この「断食以後」だけでなく、その他の二次創作(らしきもの)にも当てはまることなのでしょうし、そもそも作者の真意など心でも読めないかぎりわからないのでしょう。仮に作者が公式だと言って「○○は●●である」的な発言をしたり書き記したりしたとしても、それはその時点での作者の見解でしかなく、次の瞬間には「○○は××」であると発言自体もひっくり返るかもしれないですし。
 ……かなり脱線した気がしますが、この「断食以後」を読んで普段創作の際によりかかっている土台そのものを意識したと言いますか、そんな感じです。面白かった……のはたしかなんですが、たぶん興味深かった寄りの面白かったな気がします。

子どもの頃、深夜テレビの映画を見るのが好きだったんですが、大抵はトイレに起き出した父にバレて途中で止められてしまいました。
そんな感じで断片の記憶しかない、タイトルも知らない映画の続きを見たくて時々調べようとするのですが、あまりに断片のイメージしかないので検索もできません。

カフカ読んだことないんですが、自分の記憶から勝手に類推とかしたりして楽しみました。僕はこの作品好きです。
規定された文字数に対して場面の切り替えや時間の流れが多いのですが、簡潔にポンポンポンとテンポよく転がってると思います。
この密度で物語をやろうとすると味気ない説明の羅列になってしまいそうですが、そんなことはなく、むしろ最後まで興味を惹きつけられる仕上がりでした。

ラストでこれは宗教が誕生する流れかなーとか思ったりして、最近見たWild Wild Countryってネッフリのドキュメンタリー番組も思い出したり。
書かれた方の意図から外れてしまいそうな部分でも、考えられることが色々ある内容な気がしています。

そういえば、桃井はるこさんが昔「勝手にオワコンにするな」という話をよくされていたのも思い出しました。

なぜそこまで断食芸人を崇拝するのか、そこに共感できないので物語に馴染めなかった。
それと同時に、挟まれる挿話や描写に違和感を覚えて気がそがれてしまう。それは取り立ててあげつらうほどの違和感ではないかもしれないけど、指先に刺さったトゲのようにチクチクと不快にさせる。例えば、「広場の中央まで断食芸人を運ぶのに、時間にしておよそ八〇分はかかったに違いなかった」とあるが、いくら痩せそぼっているとはいえ数十キロはある人間を80分もおぶっていられるのか? とか、大学生の主人公の十余年前といえば10歳くらいのはずだが、その歳で弟子入りに押しかけたというのもピンとこない、とか…。

N国党の立花氏は「NHKをぶっ壊す」という分かりやすくかつ共感を得られやすいワンイシューで国会議員まで上り詰めたけど、「断食芸人を探す」というたった一つのトピックで、(掌編と言えども)最後まで興味を惹きつけるのは難しい。
少なくとも、事前知識のない者にも伝わるような工夫は必要だろう。

 一〇余年前に観た断食芸人のことを知っている同志を探している「私」のお話。
「私」は断食芸人を探しているのではなく、断食芸人を知っている人を探している点は、かなり重要だと思いました。この小説が注視しているのは断食芸人自身ではなく、断食芸人という過去の出来事を共有できる人のその記憶で、作者名がアイスキャンディ(腹にたまらず食べた記憶だけが残る)になっているのも、企みの一つのような気がします。
 ではなぜ記憶なのかと、『断食芸人』を数年ぶりに再読してみたり、『断食以後』に戻ってみたり、あれこれ考えて読んでいると、これがこの小説の楽しみ方なのだと思い至りました。
 作者の方がカフカの『断食芸人』を読み、その記憶をもとに想像を膨らませてこの小説を書いたように、『断食以後』の読者も作中に散りばめられた情報(記憶)をもとに、小説の外へと想像を膨らませていき『断食以後以後』を想像することがこの小説の楽しみ方なのです!
 ぼくの『断食以後以後』は、断食芸人からサナトリウムの男に興味を移した「私」が、断食芸人と違って実際に会えることをいいことに、彼の過去を根掘り葉掘り聞き出して疲弊させて病状を悪化させ、サナトリウムを出禁になって、それからは男のもとにお見舞いにくる女性に付きまとって、警官を呼ばれて、交番での事情聴取で警官に興味を持ち出して逆事情聴取をやりだすって感じに、なるッ!

こういうところで活動しながら私は文学に疎いし、カフカすら読んだことないので(変身は途中で投げた気がする)、この話をどう受けとればいいのか分からない。深く考えずただ事が起きていることを読み進めるだけで楽しむべきか、それとも何か、比喩的なものを楽しむのか。楽しみ方が分からず結果として悶々としている

【断食芸人】というパワーワードだけで乗り切った感は否めません。言葉の使い方、言い回しだけでは、なかなか読者の興味を惹きとめられないものです。語り部の人となりも明らかにされていないので、感情移入もし難かったです。
しかし、手法としては【立喰師列伝】を彷彿とさせるものでした。