山駆け(後半)

青山アキハル

「ニシハラ!」
「ニシハラ!!」
 晋司への声援だ。
「ニシハラ!!!」
「ニシハラ!!!!」
 青い看板を潜り抜け、急激な下り坂で得た遠心力と重力を巧みに操りながら、上体を傾いで足はしっかり踏み出している。
「ニシハラ!!」
「ニシハラ!」
 遠ざかる声援は、まだ晋司の名を叫んでいる。街と言える一段とにぎやかで狭い道を、一時だけ上るように駆けきる。前には川口。さらに前も見える。
 そしてまた、一気に下り、いきなりうら寂しい領域へと踏み込んでいった。
 ただ、先ごろまでの山中とは異なり、明るい。一方が開けていたり、そもそもの生えている木々が違ってきているのだ。
 あの声援が嘘のよう静けさの中の歓声の横を、川口の横を、カーブでの最善なラインに乗りつつ晋司はかわしていった。
 ヘアピンカーブが何度か続くのでかなり先の様子がわかる。前が見える。感じられるではなく、リアルに見える。
 明らかに空間として、視界として開けてはいるが、行く先が見えるわけではない曲がりきらなければそのまま空へと放出されそうな恐ろしいカーブを曲がり、晋司はさらに前を追う。
 スローモーションのように遠ざかっていた、もうひとつの見覚えのある背中だ。こちらの了承を得て、力強さで押し切って離れていった背中。
 晋司は自分の脚力と技を駆使して追いすがる。が、追いすがるだけではなかった。一度、明らかに背後に付いた。
 そして晋司は、アームウォーマーをはずした。
 片方の手に、片腕ずつのそれを握り締め、明るく広かった空にも飛び出せるところから、道中最も人の少ないうっそうとした暗く湿った山道へと入っていった。
 今まで以上に感じるくねるカーブ。傾斜は落ち着き、明らかに山頂よりも高い気温で、ここまで下ってきた足への負担も限界になりつつあるここは、本当に人の気が一気に薄れる。足の裏の痛みと疲れ、火照る身体。押しつぶされるのか足元から崩れるのか。
 晋司は声をかけず、相手の息遣いを聞いた。互いの小気味よいヒタヒタと等間隔のピッチを刻む足音が耳まで届く。晋司は両手をぐっと握りこんで、抜いた。抜き去った。
 大きく数字の書かれたダンボールを掲げた男が見えた。その男に再接近したとき、
「今二十八秒!」
 と、晋司に声をかけた。声をかけてきたその時を見計らって、握っていたアームウォーマーを落とし、晋司は左手を軽く上げた。
 ダンボールを足元に置き、アームウォーマーを拾ったその横を、先ほど晋司が抜いていった選手が駆け抜けていく。伝わるとは思っていないが男はもう一度晋司に大きく呼びかけ、手を振り、満足そうに見えない晋司を見送った。
 一方晋司はぬれる路面をその足でしっかりと捉え、一歩、また一歩と暗くうら寂しいながらも、人気は薄いはずなのに先ほどよりもはるかに俗世を感じる冷気は緩んだ温まった空気を、防寒のなくなった肌で直に感じていた。おそらくは一年中日の差さない暗い道。変化に富んで曲がりすぎて前の見えない道をまた曲がると、背中が見えた。いや、先ごろから時々見えていたのだが、よりはっきりと、さらには大きく、常時見えるのである。
 鉄橋下を潜り抜け、その先、今までと毛色の違った明るさの見える方へとほぼ並らんで駆け抜けると。
 今までとは桁の違う賑わいと明るさ。下衆な言い方をすれば、ザ・観光地の繁華街。橋を渡ったら見知らぬ国でした、というほどの落差があった。ここで晋司は前に出た。
 ちょっとでも前に行くと、後ろの気配は瞬く間に消えてしまうほど、それ以外の濃密な空気感と大音量の声援。ちぎれんばかりに振られる旗。少し前までいた神聖な雰囲気をかもし出していた山とはあまりにも違う歓楽街である。人の棲む、俗世にまみれた日常現実世界への入り口。そこは夢の国のように華やいでいて明るく、今まで晋司までは届くことのなかった人の熱気までもが、感じられるほどである。
 夢にまみれた街を抜け、また橋を渡る。とたん、今まで丁寧に意識をしないと感じ取れなかった地が、ずしりと重厚に受けられる。これこそが地上に降りてきた感覚なのだろう。
 土木遺産の古びたコンクリート格子である冷え冷えとした洞門を抜け、この山最後の神聖な雰囲気を纏う地が過ぎ去り、空気も景色も、身体も脚も、すべてが現実世界へと戻ってきたような感覚に陥った。
 神の領域が終わり、人の領域へと移る。その境界なのだろう。
 晋司の耳に人の声が届く。
 明らかに一線を越え、世界が変わった。
 だが、晋司はそれほどにまでは変わっていなかった。山中であろうが街中であろうが、人がいてもいなくても、変わらず、ただ足の感触をひたすら丁寧に確かめ、山を上る時はまさにそれだけを、下り始めてからはそれと前を見据えることだけで、ここまできた。そのまま世界の境界を越えるようだ。
 人の世界から手渡されるものがあった。水だ。いつもの手。いつもの声。
「シンジ、いいぞ! いいぞ!! このまま前を追え!!」
 褒めることなどめったにない、監督のいつもとは違う言葉。
 いいだと? 良いわけなんてない。晋司はその言葉を受けて、改めて前を見据える。
 スタート時に十八秒前に見えていたはずのやつは、ちっとも近づいていない。それどころか、むしろ離されている。山にいたときよりも踏み出す足に更なる力を込めて、遠ざかる一方で一時たりとも近づいた感のないかすむ後姿を、晋司はさらに追いかけた。
 ここからの三キロは下りであるが勾配は今までに比べれば明らかに緩い。三キロ行って六十六メートル下る。平均すれば、一メートルで二センチ。平らといっても過言ではない誤差範囲だ。ましてや今までは最大傾斜二四度とかいう、絶壁にも感じられるといわれる道を来ているのだ。加えて、このレースでは当たり前だが、他では考えられないほどの直線が続く。今まで、カーブに次ぐカーブで、変化しかなかった、変わりばえしないというのもカーブの連続で走路を気を配らざるを得ないコースを抜けてきたのだ。それがいきなり、なんの変わり映えもない「ただの直線道路」になる。
 渡された水を得て、晋司はようやく思い出した。ここまでの十八キロ、本当に何もなかった。いつもの風景が何一つ何もなかった。いや、唯一あったのが、人気の薄いところでの、チームメイトとの交流。あれだけだ。
 この六区の特殊なところのもうひとつが、定点による給水がないことだ。晋司は一口ごくりと水を含むと、日常が染み込んできた。
 もちろん今の状態も、いつもの風景ではない。ただ、先ほどまでよりは、どこかいつもの風景に近いものが。いや、やはりない。
 沿道の人、人、人。先導する白バイ。複数の自動車に、カメラを構えたバイク。
 いつもであるものは、耳に届く監督の声。それでも言葉はいつもと違う。練習中は一度だって、「練習どおり、練習どおり」などと、たしなめる声かけはなかった。
 ただ、この疲労の始まる身体に鞭打って走る、疾走感はいつもどおりだ。
 気が付けばさらに一人を抜き去り、先の見えない工事の続く区間のさらに先に、見通せてしまうスタート時よりも遠くにかすんでいた後姿が、輪郭が明瞭になるくらいになってきた。一歩では変わらないが、二歩三歩と歩数を重ねると鮮明になってくるのがわかる。
 上りに感じ、いつまでも同じ景色がただ流れ、脚がガクガクになって足の裏の皮がめくれ血に染まることも珍しくないここで、晋司は坂を駆け下っていた時と同様、いや、それよりもはるかに力強くしっかりと足に感じる地面をつかめるのが嬉しく、前だけを追った。
 もう少し。後ちょっと。もっとこの道が続けば、間違いなくあいつよりも圧倒的なスピードで、あいつの横を駆け抜けられる。
 晋司は見失う前との背中との違いを見つけてしまった。すでに襷がはずされている。
 それを確認できてしまった晋司は、ピッチを上げた。
 まだだ。まだある。もう少し。もう少し。
 と、前の背中が左にそれた。
「シンジ! 襷をはずせ!!」
 監督から大きな罵声に似た叫びが響いた。
 晋司は小さな段差を乗り越え、言われるがまま襷をはずしながら見たものは、駆け出していくここまで追いすがっていたものとは違う後姿と、両手を挙げて己を呼び込むチームメイトと。そして、ひたすらに追いかけていたはずの、地に伏した背中だった。
 晋司は襷を渡して、一度天を振り仰ぎ、仲間の背を見送った。
 追いかけて、届かなかった背中を見下ろし、一度だけ山を振り返った。

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