黒猫

ソン・ゴクウ

 よく来てくれた。まあ掛け給え。まだ椅子があればの話だけれども。ともかく私は君を歓迎するよ。そしてこの偶然に感謝する。(椅子はある。でも埃だらけだ。それにこれは「僕にとっての」偶然じゃない。)
 私と君はいま時間を隔てて共に一冊の日記帳に向かっている。しかし私が綴る文字、君がこれから読む文章は日記ではない。これは我が罪の告白だ。きっかけは一匹の猫だった。妻がどこからか拾って来たその猫は雑じり気なく真っ黒で妙に人懐こかった。いや、人懐こいというより人間に、人間の傍らで生きることに慣れているふうだった。やって来た翌日にはもう何年も前から居たという風情でこの邸の中をのし歩き、居間のソファで客間のベッドで亡母の揺り椅子でのうのうとまどろんだ。(読み辛っ。)こうして奴は我が家に居着いた。
 私は猫に限らず動物が苦手だった。だが妻の希望だ。私は生来おとなしく生真面目な性質で、記憶を巡らせてみてもついぞ両親の手をいたずらに患わせたことはない。これは持って生まれた気質であると同時に、物心ついた頃から両親の期待に添うべく重ねた努力の賜物でもある。同じ努力と妻への愛をもって私は、あの小狡く怠惰な畜生に家族と同等の待遇を与えるための試練を受け入れた。
 ところで君は酒を嗜む方かね。私は飲酒の効能を肯定しつつ、試みにも酩酊で憤懣を(う、読めない字がいっぱい。)紛らわせようなどとしたことはなかった。しかしある日、私はこの独創性のかけらもない方法が想像以上に効果的だと知ることとなる。それは仕事上の些細なトラブルだったがどうにも腹立ちを納め切れず、帰宅するなり書斎にこもって酒杯を重ねた。どれほど飲んだかアルコールがもたらす開放感や安堵感に文字どうり(あ、間違ってる。)酔いしれると、やがて何もかもが取るに足りないことに思われた。既に真夜中で室内は真っ暗だ。心地良い眠気が視界の端で動く何かに邪魔される。床の少し上に光るそれは、目だった。金色に燃える一対の目がこちらを見ていた。私を見ていた。無感動に。
 夜の暗がりから浸み出したのだ。そう思うと私は次の行動を考えず、それでいて迷いもなく立ち上がった。立ち上がりざま指先にふれた何かを手に取る。想像どおりの、予想どおりの、理想どおりの物。歩み寄る私を不埒な侵入者はじっと待っている。(ポー、かな。)
 私の手がそいつに実体を与えた。なでる仕種に応じて闇は硬くなめらかな毛皮の手ざわりと小さな頭がい骨を擬態した。温もりまでも。掴み上げる感触や重みまでも。突き入る力へのかすかな抵抗が苦痛への激しい抵抗になり代わり、この一連の生々しき幻は再び夜へ溶けこんで消え失せた。邸内は相変わらず静まり返っていて、私の小さなため息だけが静寂を震わせる。我知らずうっとりほほ笑んだ。
 だが灯りをつけると私の手には血まみれの万年筆が握られていた。点々と落ちるシミが、うすく開いた窓から夜へと逃げてゆく。台無しだ。私は呟いた。
 翌日、猫の永遠に閉ざされた目蓋に(やっぱり。)妻はひどくとり乱した。半狂乱と言ってもよいほどに。だが彼女はこの出来事を不幸な事故だと信じて疑いもしないようだった。それ以外の何かなど想像もできないのだろう。私は使用人に獣医を探すよう命じた。(ううん、飽きた。もういいか。えっと……………ここが最終ページだな。)
 ――り下ろした。妻は声も上げず倒れて動かなくなった。私は自らの凶行に慄然とした。だが恐慌状態を脱するとどうやって事を隠蔽するかに考えを巡らせ、結果彼女を書斎の壁に塗りこめることにした。あの部屋の鍵を持っているのは私だけだ。夜のうちに作業をし、壁が乾いて固まるまで誰も入れなければいい。私は数日かけてこれを実行した。(強引だなあ。)
 これで私の告白は終わりだ。なぜ今さらこんなことを書き記すかと君は疑問に思うかもしれないが、理由は単純明快で、私の命が尽きようとしているからだ。酔っていたとはいえ猫ごときにびくびくして妻を手にかけ、その遺体を何十年と隠してきた。このまま誰にも知られず邸とともに朽ちてゆくのだとしたら、あまりに妻が可哀相だ。そこで君に頼みたい。(え?)どうか妻を壁から救い出してやってほしい。(ええ!)
 時を隔てて秘密を分かち合った、我が人生最後の友人へ。最大限の感謝をこめて。
 僕はため息を吐き、古びてやや硬くなった革装丁の日記帳を閉ざした。
「あのさ、ささめちゃん」
「読んだ?」
 ふり返った僕を待ち構えていた瞳のキラキラしさに、僕は後ずさる。予想はしてたけど、その威力の凄まじいことったら。僕はうなずきつつ目を逸らした。逸らした先でささめちゃんの右手に握られている物を目撃してそこからも目を逸らし、彼女の左肩やや後方へ焦点を合わせた。傍目には誰と話してるのコワイよ状態だが仕方ない。
「読んだよ。あれ『黒猫』だよね。『黒猫』のパロディ」
 しかも出来の悪い。
「ああ黒猫、出て来てたね。パロディ?」
「ポーだよ。エドガー・アラン・ポー」
「ぽ? エドガーって、外国人かな」
「……うん」
 僕が挫けずポーの傑作短編小説のあらすじをかいつまんで説明すると、ささめちゃんの瞳がキラキラしさを増した。逸らしていてもその光線の余波が襲ってくる。
「へえええ、似たようなお話しってあるんだね! それでねっ」
 流された。
「あたしね、お願いきいてあげようと思うんだ。このおじさん? おじいさん?」
 僕は視線の経路を巻き戻す。ささめちゃんの右手には園芸用スコップが握りしめられていた。
「まさかそれで壁掘るの?」
「あ、うん。だめかな」
 ささめちゃんがおろしたリュックサックから、出て来るわ出て来るわ、水筒・トンカチ・懐中電灯・軍手にマスク……板チョコ? 待ち合わせ場所で落ち合った時、その背中のやたらでかい荷物にイヤな予感がしたんだ。あのときに回れ右してればよかった。
「でも殺人事件だよ。警察へ行ったほうがよくない?」
「えー……そしたら勝手にここに入ったのバレちゃうし」
 問題はそこなのか。まあ警察が取り合うとも思わないけどさ。攻め手を変えて怖くないのかときけば、
「へーきだよ。ゾンビ出て来るわけじゃないんだもん」
 朗らかな笑顔でゴーグルを装着したささめちゃんに、これはもう彼女の気が済むまで付き合うしかないと観念する。
 今は無人のこの洋館。そんな所にどうやって忍びこんだのかと言えば、鍵を使って堂々と入った。ささめちゃんのお祖母さんは生前この邸で家政婦として働いていた。その遺品から謎の鍵をささめちゃんが見つけてしまったのだ。
「ね、ゴクウはどの壁だと思う?」
 僕は迷わず入り口から入って左手の壁へと歩み寄る。扉側は除外、対面は中庭に面した大きなテラス窓、右手は日記帳が置かれた机と本棚に占められている。本当に何かを隠すならこっちだろうけど。
 部屋の主は喫煙者だったんだろう。壁はむらなく黄ばんでいて、独特の匂いも染みついている。パネル式の腰板は重厚感のある色合いだった。一見おかしな所はない。
「こっちだね。じゃあ行っくよーう!」
 ささめちゃんが元気よく言い放った。両手でトンカチ振りあげる。いきなり粉砕? ちょっと待って。
「にょ?」
「うわわわわ!」
 制止に入った僕をささめちゃんは華麗に避けてくれた。一人で勝手にきりきり舞いしてひっくり返った僕の顔に、何か硬い物が被さる。
「ゴクウってば、だいじょ……」
 ひっくり返った僕の視界は半分塞がれていた。何だこれ。板? その向こうで膝を抱えてしゃがみこんだささめちゃんが、壁に向かってぱっちりお目々をぱちぱちさせている。板を押しのけ身体を起こし、僕も壁をふり返った。そこにはポッカリと穴――隠し収納棚と言うのだろうか。どうやら僕が転ぶ行きがけに食らわせた体当たりで、偶然にも板が外れたらしい。
「すっごーい。大当たりだよゴクウ。さすがだねっ」
 すごいのはささめちゃんだ。これが嫌味でも何でもないんだから。自分の運の良さと悪さについては後日じっくり考えることにして、僕は引き当てた大当たりを検分する。隠し棚には箱が一つ収められていた。角が黒鉄で補強された木製の箱に頑丈そうな南京錠がぶら下がっている。
 それはいわゆる千両箱だった。掛け金に通された錠はおろされていなかったので、取り外して蓋をあける。と、睨みつける金色の目に息を飲む。中には黒猫が一匹――ではなく一本、詰め物と黒サテン地に固定されていた。
「なにこれ」
「お酒、かな」
 ボトルの中身は秋の陽ざしのような液体だ。ラベルの黒猫の瞳とも同じ色だった。
「えっと……猫に小判ってオチとか?」
 さすがのささめちゃんも声が沈んでいる。僕はハハハと力なく笑った。せめてお酒が飲める年齢だったなら、やったぜラッキー! って言えたんだろうな。
「からかわれたのかなあ」
「どうだろうね」
 見え見えの告白文のことを考えると悪意はなかったと、そう思うのはお人好しだろうか。脱力したけど僕はこういう冗談が嫌いじゃないんだ。
「二十歳になったらこのお酒で乾杯しようよ」
 そう言うとささめちゃんは五年後かあ、となぜか仁王立ちになった。
「それって五年後のあたしは、デートの予約がある女子ってことだよね!」
 そして僕たちは会ったことのない、もう決して会えないおじいさんの最後の友達になったのだ。
 うん、悪くないな。
 僕は心の中で「乾杯」とささやいた。

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