へたれ転職記

 新聞配達員の朝は早い。
「ええ、最近はネットで記事を読む人が増えてきましてね、配達件数も昔に比べてかなりへりましたけど、それでも朝は新聞がないと始まらないと言われる方もまだまだ多くいらっしゃいますから、朝起きると当たり前のように新聞受けに新聞が刺さっている、それってよく考えるとすごい事だと思いませんか? 紙やインクの匂い、少しざらつく手触り、めくるときの音、それらが記事の内容とあいまって脳に強く刷り込まれるって言う人もいますしね、少し大げさな言い方をすると、僕らが日本を支えてるんだって思うこともありますよ。そう考えると手抜きなんてできませんよ」
 新聞一部一部の間にチラシの束を滑り込ませながら、彼ははにかんだ笑みを漏らした。我々のインタビューに答えながらも彼の手が止まることはない。
「今日みたいな大雨の日でもお客さんは待っていますから」
 そう言うと彼は雨合羽を素早く着込み、新聞配達用に荷台が強化された自転車に数百件分の新聞を括り付け、雨の飛沫で視界の霞む街の中へと走り去っていった。
 さて、ネタっぽく始めてしまったが、自称転職王の私がそのへたれ人生を振り返りつつ、時に笑いあり、時に涙ありのジョブエンターテイメントを綴ろうと思う。記念すべき第一回目のテーマは3K(キツイ、キタナイ、キュウリョウヤスイ)の筆頭新聞配達員だ。
 高校三年生の春にドロップアウトした私は、数日以内に就職しなければならない必要に迫られていた。退学したその日に家をでて、野宿に備えたキャンプ用品を、軍の放出品を扱う店で何点か購入したのちに辿り着いた所沢の森の中だった。
「野豚でもいれば取って食うのにな」
 そんな理想のキャンプライフを夢見がちに呟きながらもどこかに冷静な自分もいて、残り数千円の所持金が尽きる前に収入源を確保しなければならないことを痛感してもいたのだ。
 正直まる一日山の中を彷徨うことで、旅をしたいという欲求はかなり満足していたということもある。って言うか歩くの飽きた。 

 雨が降っていた。車の助手席から、春の雨に煙る東京のビル群を眺めていた。求人誌に所狭しと詰め込まれた求人情報を眺めると、いくらでも就職口はありそうな気もしたが、実際「日払いあり」「寮完備」などの条件を満たしているものは数件しかなく、その内の一つ、新聞の専売所に人員を斡旋する会社に電話をかけ、その日のうちに社員募集中の店舗へ連れて行かれる車中であった。一昨日まで高校生だった私が社会人との会話を盛り上げるスキルなど持ち合わせているはずもなく、無言の空間に押しつぶされそうになりながら、頭の中ではドナドナがリフレインされて自ら不安感を掻き立てていた。
 二軒目に連れて行かれた店で就職が決まり、翌日の朝から足立区の某専売所での生活が始まった。
 新聞配達員の朝は早い。当然である(笑)
 冒頭ではネットなんたらとか書いたけれども、私が働いていた当時は携帯電話すらない時代。ほぼ全ての情報をテレビと新聞に依存していた時代。まだまだ国が情報操作を簡単に出来ていた時代(被害妄想)
 そんな昭和臭漂う、あと数年で昭和が終わるとは夢にも思わない時代に私の新聞配達員ライフは幕をあけたのである。
 私がいた専売所では朝の四時ごろにトラックで新聞が運ばれてきていた。たぶん(うろ覚え)。新聞が届くと自分が配る部数を取って床に置き、あらかじめ組んでおいたチラシの束を一部ずつはさんでいく。チラシをまとめるのは機械を使うのだけれども、新聞には手作業で入れていくのだ。
 余談だかこのチラシをまとめる機械ってのがよく紙詰まりをおこすので、とても手間どった印象が残っている。人海戦術に頼らざるをえない新聞配達という仕事のなかで、数少ないテクノロジーによって改善できる部分なのでなんとかしてあげて下さい。お願い、偉い人。
 さてそうして組み上がった新聞を今度は回って行く経路に合わせて順番に積んでいく。朝日、朝日、日経、朝日、東スポと朝日とかそんな感じ。これを間違えると誤配達することになるから真剣である。ごめんうそ。寝ぼけながらやってた。
 そこまでやってようやく配達に出ることができる。配達地域は区分けされていて、コースも決まっているのだけれど、だいたい三日もまわると経路順を見なくても配れるようになる。人間の記憶力って凄いなと思う瞬間。
 だがそこに落とし穴があったりするのである。月替りが鬼門なのだ。新聞ってほら、三ヶ月、六ヶ月、一年契約だから毎月配達が止まる家と新しく配りはじめる家がでてくるわけで、その場で間違いに気づけばいいんだけれども、気づかず配り終えてしまうと後がまあ大変なことに。
 とは言え大方は問題なく配り終え、専売所に戻ってくると朝食が用意されているのですよ。これはおそらく店によって違うんじゃないかと思うのだけれど、私のいたところは学生も含めた住込み従業員が多かったからそんな配慮があったんじゃないかな。とにかくお金なかったから、朝刊後と夕刊後の賄いはひじょうに有難かったのです。
 食事が終わると寮に戻って昼まで眠る時間がある。しかし、しかしである。誤配達の連絡がくると気持ち良く寝ているのに叩き起こされることとなり、チッと舌打ちをしつつ再配達という苦行をしいられるだ。まったく冗談じゃねえやくそ。
 自業自得であることをまるっと棚に上げ、不機嫌さを隠そうともせずにダラダラと新聞を運ぶその姿は、どこからどう見ても駄目な社会人を代表していたそんな十七の春。良い子のみんなはけっして真似しないように。
 再配達も終わり寮に戻ってくる。
 さてこの寮であるが、当時としてもかなり古めかしい造りの建物であった。木造二階建て、玄関共用、トイレは各階に一つずつ、当然のように汲み取り式。洗面所は二階に一箇所。風呂無し。畳四畳一間を与えられ、ただ寝るためだけと割り切らなければ耐えられないくらい、およそ人間らしい生活には適さない湿気に満ちた廃屋であった。いや廃屋は言い過ぎた、一応人住んでたし。
 そんな調理場もないような牢獄の中でも、ときどき魔が差して暖かいものが食べたくなるのですなあにんげんだもの。それが給料日前で外食が叶わないときなんかなおさらそんな思いがつよくなり、ふと部屋の中を見まわすと、壁にぶら下がる飯盒が。
 そう、ここに来る前に買ったキャンプ用品の中にそれはあったのだ。
 その飯盒の内蓋をひっくり返して台座とし、その上に外蓋を乗せて竈とす。その四隅に空き缶を立て、その上に水を張った飯盒本体をそっと置き、さあ準備は整った。レッツパーティー!
 幸い燃料にはこまらない。新聞紙を雑巾のように硬く絞り、簡易竈に入れて百円ライターで火をつけた。
 ただお湯を沸かしているだけなのに、なんという満ち足りたひと時。
 作っているのはただのカップヌードルなのに、この成し遂げた感はなんなんだ。
 スープの一滴までも胃の腑に納めると、後片付けをはじめる。
 畳に残る飯盒型の焦げ跡は見なかったことにして、食後の缶コーヒーを買いに部屋をあとにした。
 そんなアホなこともやりつつ、昼から夕刊までの時間は集金に出かける。夕刊を配りおわった後も集金だ。
 毎月二十五日以降に集金をはじめて、数日であらかた終わるのだが、そこで集金できない留守の家はたいてい何時行ってもいないので、夜遅めの時間に何度か訪問することになる。共働きの家なんかはどうしてもそうなっちゃうよね。
 さてそんな集金作業の折、あの身の毛がよだつ事件が起こるのである。
 築三十年は経っているであろう古びたマンションであった。ワンフロアに二十世帯ほどが並ぶ十四階建てで、マンションが多い私の担当区域のなかでも一際大きな建物だ。
 その九階のフロア全体が、いつ訪れても途轍もない異臭を放っていて、配達時にはその階にいる間息を止めていたほどだ。
 そこに数ヶ月間集金ができていないお宅があって、その日もどうせ留守であろうと思いつつ訪問した。夕暮れ時、普通ならば夕食の支度をしている気配なんかがして、美味しそうな匂いに生活感を感じるところであるが、その九階に足を踏み入れた瞬間相変わらずの劇臭が鼻を曲げた。
 く、臭い。思わず顔をしかめつつも呼び鈴を押す。
 しばらく待つ。ドアを隔てた向こうに人の気配を感じず、今日もまた留守なのだろうと踵を返しかけたその刹那、静かに鉄の扉が開いた。その開いた扉のすきまから、今までこの階を満たしていた異臭の数倍の濃度をもったなにか得体の知れない生ゴミ臭が漏れ出した。色まで見えた気がした。それと同時に視界の端にカサカサと蠢く黒い物体を複数確認して私は硬直しつつもかろうじて扉を開けた主と対峙すると、それは幼稚園児ほどの男の子であった。
 子供に集金の話しをしても仕方ないので親を呼んできてと頼む。
 壁に蠢く黒いものは見ないようにしつつ待つこと数分。再び開いたドアの向こうには先ほどの子供が。
「お母さんいないって」
 つまりあれか、子供を使った高度な居留守ってやつですかい。しかし私のメンタルHPはすでにエンプティランプが点滅している状態だ。早々に退散したことは言うまでもない。
 結局私が担当しているあいだその家からは一回も集金できなかった。いやそれ以前に、その後一回もその家の呼び鈴すら押していない。
 新聞配達員の仕事は概ねこんな感じ。あと営業の仕事もあるのだけど、人と関わるのが苦手だったわたしは頑なに拒否しつづけていた。
 やがてその新聞の営業のみを我が職業とする日が来るとは、その時の私には想像できる筈がなかった。

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