徒歩徒歩

猫のテブクロ

 「角鉢」

 毎朝飯に生卵をかける。飯は朝炊いた熱飯である方が望ましいが、別に美食でやってるわけでもないので昨夜の残りをレンジで温めなおしたものであってもかまわない。とにかくぬくもりが肝要で、飯の冷たいまま食うのであれば茶漬けにした方がいい。
 卵をかき混ぜるのには角鉢を用いる。これもこだわりではなくて、ただ家にあるから使っている。しかし飯を盛る茶碗は成長の過程でいくつも代替わりをしたが、卵を混ぜたのは記憶にある限りずっと同じ角鉢であるように思う。
 その点の記憶のあやふやさが気になりだして母に尋ねたところ、確かにこの鉢は己(おれ)が生まれた頃から家にあるものらしい。ということは、やはり己の朝飯の卵は全てこの鉢でまかなってきたのだろう。
 やはりついでに思い出したのだが、昔この鉢は家族の人数分四つあったと記憶している。それがいつの間にか半分の二つになっている。この点についても母に尋ねたら、邪魔だから捨てたということであった。この角鉢は胴の真ん中が膨らんでおり上下に行くほど狭くなっているので、飯茶碗のように重ねられず場所取りなのだ。
 邪魔というのはその点だけを言ってるわけでもなくて、要するに家族の中で飯に何かを混ぜてかける者が己一人になっていたのだ。かつては父母や兄も卵や納豆をこの鉢でかき混ぜていたものだが、兄は家を出たし、気づけば父母もそうしたものを食わなくなった。そうすると四つも必要ないので二つは処分されたのだ。使うのは己一人なのにもう一個余分を残してるのにはあまり深い考えはなかろう。
 そもそも四角という形は中で箸を回すのに適さない、と母に言われて初めてそうかと思った。丸い鉢であれば縁に沿って箸を動かせば自然に回るが、四角ではいちいち隅にぶつかるので意識して円を描くように動かさなければならないというわけだ。己はそんなことにも気づかず、これまで使ってきた物だからと疑いもしないで角鉢を用いていた。まったく愚鈍なことだ。
 先に、ただ家にあるから使っていると書いたが、最近ではむしろ己はこの角鉢を気に入り始めていたようにも思う。鉢は焦げ茶の土に白の釉薬を塗ったくってあり、その刷毛の跡で内側は白と茶の渦巻きのような斑模様になっている。外には白の上に藍を塗り重ね、四面のいずれにもやはり白で梅が描かれてある。藍にはムラがあって、というより下の白が雑に塗ってあるので上の藍にも部分的に透けたりしているのだ。つまるところ丁寧な仕事が施されたものでもなく、量産品の安物である。
 しかし、己の年と同じ程の時間を使用に供されて尚まだ健在であるというところになんとも言いようのない力強さが有り、同時にそれだけの間見ていると我が家の食器の中でも重鎮と呼べそうな佇まいがあるようにも思えてくる。
 そうしたわけで気に入りかけていた角鉢だったが、母の言葉に水を差されてしまった。しかし気分の話はともかく、使用については今まで通りにしていればさして問題にも感じないので、これから先もずっと使っていく気がする。
 母は生来手元が怪ういところがあるのか、洗い物の折に誤って食器を割ることが度々あったが、近年では自分が高齢という自覚もあるのだろう、割りそうなものはまず食器として用いなくなった。角鉢は分厚くいかにも丈夫そうだ。
 たかが日用の食器の話から母の余命を考えるのは飛躍かもしれないが、もう二十年も経つと危ない。場合によっては十年後にはいないかもしれない。その後には己がこいつを洗っているのだろう。己が朝飯の後でそれを洗い、干して棚に戻すまでの間に仕損じて割ってしまったら、そのときが角鉢との別れというような予感がぼんやりとする。
 父母が亡くなってしまった後も、己の希望としてはこの家に住んでいきたいと思っている。状況がゆるさないときは引っ越すだろうし、そのときには余計な荷物は処分するだろう。己はそのときにまで角鉢を持っていくとは思わない。なんというか、愛着の有無というよりも食器としての用途が狭すぎるからだ。(母はときどき鮪の角煮や煮豆などを盛り付けることもあるけれど)
 だから、父母が亡くなった後で己が家を相続したら、という条件のうえに中高年の己がこの角鉢を使っている未来が成り立つのである。そのときの己には妻がいるかもしれないので、もしかしたらその人が割ってしまうかもしれない。母か己か己の妻になる人か、誰かわからないけれど、人的事故を起こさない限りはこの角鉢はいつまでもあり続けることだろう。(天災という可能性も思いついたが、それについて考えるのは途方もなさすぎる)
 誰も割らなかったら、そんな事故が起きなかったら、そのときは己が死んだ後も鉢は残るのだろう。残るのだろうけど、そのときにはさすがに家も解体されて、ともに角鉢も割るなりどうなり処分されてしまうのだ。


 「螺旋」

 十代の頃からずっと抱えてる、悩みというほど大した問題でもない困り事がある。尿の出方が汚いのだ。そもそも尿は汚いものだが、そういう話ではなくて排出するときの尿の飛形が我ながら実に汚いのである。
 普通、男性の排尿はホースから出る水のごとく重力に負けて垂れ下がる曲線を描いて落ちるものであろうが、己のはホースで例えると吹出口を指で押さえたときのように圧迫されて両端から勢いよく噴出する。ただ圧迫されてるだけでなく角度が付けられているのか、一度内側に回りこみ、それぞれの端から出たものが交差するように回りこみ合ってから大きく外に向かい広がっていく。要するに庭の草花に水を撒くような塩梅で、それにネジのような回転のベクトルが加えられているのだ。結果的に尿はシャワーのように広がって散らばるため、己はその度に位置や向きを調整して排尿しなければならず、面倒だしぼんやりしてると床にこぼすこともあり、そうするといよいよ本格的に汚い。
 自分の排尿の不都合に気づいたのはおそらく高校に入ってからだと思う。中学まで下着はブリーフを着用していて、高校に上がってからトランクスに変わった。それと同時に性器の包皮を剥いたと記憶しているので、大体そのくらいだろう。剥けたのではなく剥いたと言うのは、そもそも皮を剥くこと自体はかなり小さい時分からできていたのが、意識的に剥いてそのままにしておこうとするのを高校に入学した辺りで始めたからだ。
 包皮に覆われていた間は、その皮によって本来拡散するはずだった排尿が一方向に収斂されていたのだろう。尿飛形の矯正器具のような役割を包皮が務めていたことになる。ひょっとして矯正されてたのは尿だけでなく尿道の発育についても同様だったのかもしれないが、己は自らそれを外してしまったので壮年と呼ばれる年になった今も尿道が未発達のままなのかもしれない。
 あるいは己は子供の頃よく寝小便を垂れていたので、寝てる間に漏れないように手でねじり上げていてこんな塩梅になってしまったのかもしれない。実際子供の頃にねじっていたかどうかはいささかも覚えがないのだが、最近目が覚めると右手でしっかりと握っていることがよくよくある。これは寝てる間の尿意がストレスとなってやっているのだろうが、そういうことがある度に私は他人と並んで外泊したときの図を思い浮かべてうむむと唸ってしまう。


 「声優のポスター」

 大須で買い物をする用事ができたので、平日の昼間だったが友人に連絡を取って食事でも一緒にできないかと聞いてみた。彼は外回りの多い仕事をしているので、都合が合えばその隙間で会う時間を作ってくれる。
 そもそもは大分前に名駅で映画を見た帰り、伏見の鶴舞線ホームで電車を待っていたら彼と鉢合わせたのがそうしたことの始まりで、そのときはかねてから飯をごちそうになる約束をしていたので大須の店まで行って奢っていただいた。それ以来会いたくなると用事にかこつけて大須で食事できないか声をかけるようにしている。
 大須観音の方ではなく上前津側のアーケード街の中にある不動尊の向かいに万松寺ビルというのがあって、一階がアーケードから表通りへ抜けるような造りになっている。その抜け道にも様々なテナントが入っていて、商店街の中に商店街があるような不思議な入れ子感を覚える。
 その日は彼に沖縄そばが食いたいと言って誘った。万松寺ビルの抜け道の中には沖縄物産店と簡単な沖縄料理を食わせる食堂があるのだが、この食堂の向かいにある店で声優の写真集を買うのがその日の当初の目的だったのだ。
 先に大須に着いた己は買い物を済ませて食堂の前で待っていたのだが、結局は彼も向かいの店に立ち寄って声優関連の商品を購入していたのでちょっと驚いた。
 声優に限らないのかもしれないが、あの手の店で買物をしたときによく付いてくるおまけとしてポスターがある。己はどうも臆病で人の顔が部屋の中にあると落ち着かない(見られてる気がする)質なので、そうしたものをもらっても貼らなかった。かといって捨てるのも忍びないし正直なところ持て余している、と彼に話したら、ポスターなんてとにかく貼ってしまえばいいんだ、と返された。
 貼ることでポスターが傷むとかそういう価値を気にしているのかもしれないが、丸めて置いてあるポスターは絶対に広げて見たりしない。それだったらもう思い切って貼ってしまって、日焼けしたり次のポスターをもらったりしたら今貼ってあるものは賞味期限が過ぎたと思って捨ててしまえばいいんだ、というのが彼の主張であった。
 なるほどそれは明快だと納得し、己もその日もらったポスターを貼ることにした。価値を保持してるつもりで死蔵品を増やしてるだけなら、どんどん消費してやった方が使用の楽しみがある分いいのではないかと思えたのだ。
 家に帰って場所を勘案したのだが、どうせだから一番目に触れる机の正面にした。椅子に座って何事かして、ふと顔を上げると必ず目が合う位置だ。貼ってみるとやはり見られてるようで緊張した。だがその日は気分が浮かれていたからか、このそわそわした気持ちこそがポスターを貼る楽しみなのではないかと思えた。その後何回か貼り替え、今も机の前では女性声優のポスターが己を見守っている。

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