サルの書、断章

小林某

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 猿は人間の言葉の意味を理解していると言われる。アメリカの猿は英語でタイプするし、イタリアの猿はイタリア語、日本の猿なら日本語だ。中にはもちろんバイリンザルもマルチリンザルもいるが、とにかく人まねでタイプを覚えたということに違いはない。野生の猿はただの猿だ。
 ただし書かれた文章は人の書いたものとまったく同じというのではない。検索にかけても同じ文章が見つかるとは限らない。手つきだけ盗んで組み合わせは猿のほうで決めているのだ。その単位はあらゆるレベルで可能だから、人間が自由に書く文章と変わらない。違いは文章に意味がなく純粋に形式的なものであること、および造語のできないことだといわれている。
 しかし猿の文章は、人間を模倣したものだから、人間にはどうしたって意味を持って見える。またネット上に造語、あるいは誤字や誤変換やミスタイプだったものはたくさんあるから、猿がいつそれを真似したのかは誰にもわからない。猿が言葉を造ったといえるのかどうかはともかく、それが造語として普及することはありうる。人は文章を前にすればどうしたって何かを読み取らずにはいられないのだから、猿が理解しているかいないかは本質的な問題ではない。

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 少し外について書いてみよう。ぼくはここに来るまでは補完システムに関するメンテナンスを担当していた。難しいことじゃない、したっぱの仕事で、雑用ばかりだ。
 君たちの保存庫がシェルターの中にあることはぼくたちにもよく知られている。制御室がどこにあるのかは知らないが、電力を確保する施設、ぼくの仕事場はなんとか歩いていける距離にある。実際ここにも歩いてきた。ぼくは休日にはここに来たこともある。シェルターはあまりにも大きくて、反対側がどこにあるのかわからないほどだ。これはほとんど壁だ。でも銀色でキラキラしてとてもきれいだから、ちょっとした観光名所になっている。当たり前のことだけど中に入ったのははじめてだ。ここは必要最低限の空間だ。窓はないし、扉はひとつしかない。あとは入力画面とおなじみのキーボードがあるだけだ。
 君たちの世界は大きくて完璧で余計なものは何もない。だけどときどき外部から情報を入力してやらないとおかしくなってしまうらしいんだな。書く内容はなんでもいい。ただ人間が打ち込んだと証明できるものでさえあればいいんだ。その証明がこのシェルターと、牢獄というわけなのさ。ぼくは君たちの知らないことは何も書けない。どうせ君たちは入力された言葉が必要なだけで、内容にも人間にも興味はない。君たちには猿だけが重要だから、嘘も本当もどうでもいい。外で起こっていることも君たちはよくわかっているんだろう。ただツムラがどこに行ったのかは知らないはずだ。ぼくは知っている。でも「ぼくは知っている」は君たちには何の意味も持っていないし、どうだっていいんだろう、嘘でも本当でも。確かにどうでもいいのかもしれない。でもぼくには嘘か本当かわからないというのは興味を引くし、おもしろいと感じる。
 ぼくたちは外では互いに文章の交換をしている。君たちは独立していないから交換なんてしてもままごとみたいなものだろう。ぼくたちは普段はワープロを使って入力している。それをその場で見せるか、印刷して渡す。すると小さいながらもネットワークというものができるんだ。それは血の通ったものだ。
 最近は猿がまた増えている。施設のまわりにもいるし、家で飼っているやつさえいる。ここらへんにもたくさんいる。君たちの天敵はぼくたちの友達なんだ。いやもう君たちは人間じゃないのかな。当然だけど猿はタイプなんてしない。理由は簡単。猿が文章を理解できるわけがないし、タイプなんてできる動物ではないからだ。仮にできるとして、手まねだけでは文章をものすることはできない。結局は文章を読む必要があるのに、猿の脳は文字の形を認識できない。それでも君たちはお得意のでっち上げをするんだろう。しかし猿なんてものは君の中にだけいるものなんだ。閉じこもっても見張ってもどうにもならない。
 ぼくの上司は「絶対」という言葉を使わない人だった。ぼくにはそれが好ましく思えたものだ。絶対こうなんだって人はいやな感じがする。でもぼくが「絶対」という言葉を好まないことをあらかじめ知っていたとしたら、彼はその言葉をあえて使わないでいることもできる。ぼくだってそんなふうにいつまでも疑っているときがある。君たちの気持ちもわからないわけじゃない。

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 どこかに出入り自由の入力室があるのだそうだ。ネットワークを自由に使える正規の入力職員というのがいて、おれたちのように拘束されることはなく、自由な内容を打ち込むことができるらしい。そいつらはおれたちを視ることができるが、逆はない。おれももちろん自由だ。ここは小さくても自分だけの世界で、縛られているのは身柄だけで、思想は縛れない
。縛るやつはいない。身体の拘束はこの部屋と扉によるものだから完全にオートマチックだ。
 ずっと同じ場所にいてこれからずっと何を書けばいいのか。これは自由の強制であって、正規職員みたいな本当の自由とは違う。 もちろん何がどう本当かなんてわからない。とにかく正規は待遇がいいから、それが自由というものなんだ。不公平な話だ。

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 J34528からJ34527の内容は確認できない。捜査可能範囲Y38824から38871、およびK3030はすべて断絶している。今のところ入力室同士で回線が繋がっているところは確認できていないが、故障しているわけではなさそうだ。
 入力室からの内容はネットワークには反映されないようになっているようだが、再構成されているのかもしれない。J34528ではJ34528の入力内容をそのままでは表示しないだけかもしれないのだ。まったく別のところに繋がっているかもしれない。
 猿が文章を真似るだけなら、絶対にできないことがある。それは会話だ。質問に応じることができないということだ。 Jの34526および34527、 Yの38824から38871、K3030 から入力。すべての部屋で反応を待つ。誰が何のためにこんなシステムを作ったんだろうな。

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 最近人は文章を書かない。直接聞いたわけではないが、興味をなくしてしまったのかもしれない。書かなくなったところで差し迫った問題はない。それでどうにかなるものではないが、退屈ではある。言葉は絶対に必要というわけではないものの、悪くない娯楽なのだ。娯楽がなくなるとどうなるのだろう。
 今日は天気がよく、しかし風が強い。遠くまで行ってみたいような気になるがここはもう境界線だ。遠くに街が見える。海辺の街で、人の動きも見える。商店があり、みんな動き回っている。犬と猫がいる。通路は舗装されていない。向こうからはこちらは見えないだろう。ここはまだ遠すぎるのだ。範囲を広げるには、技術部を説得しなければならないが、肝心の話をすることができない。
 ここの仕組みは単純だ。私は入力室の中にいる。入力室の中に住んでいて、外には出られないし、生きることもできない。しかし身体は動くことができる。身体の形状が許す範囲であれば自由に動くことができる。しかし身体には喋る機能はないし、外に情報を出力することもできない。だからお互い意思を通わせることはできない。誰がどういうものの中にいるのかもわからない。人間の中、猿の中、食べものの中にいたこともあるかもしれないし、いま踏み潰したかもしれない。だがシェルターのネットワークに個別に繋がっている私たちは、お互いの存在に気づくことは決してない。確かに私以外の誰かはいるはずだが、それが誰でどこにいるのかはわからない。
 こうして見ているだけというのも悪くはない。見ているだけのほうが良いこともある。それに良い、悪いというのはただの言葉にすぎない。

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 実はシェルターの中には猿山がある。入力室はシェルターの外壁に沿って一定の間隔を置いて無数に作られている。部屋はすべてモニターされている。猿は中心部にある猿山からそれを見てタイプを学んでいるのだ。猿は出入り自由だから、シェルターのまわりには猿が増えている。正確には中で増えたやつが外に出ているのだ。
 入力室に繋がっているネットワークはすべての入力室からなる入力内容を再構成したものであり、つまりこのネットワークは尻尾をくわえた蛇だ。広く信じられている「中の人」というのは妄想にすぎず、人間は冷凍保存などされてはいない。強いて言えば、我々こそが冷凍人間みたいなものだ。この入力内容が改変されることなく広く伝わることを祈っているが、残念なことにそれはあり得ない。もっと最悪なことは改変するものなど誰もいないということだ。再構成は完全にランダムだ。我々は我々自身の意思にしたがって、我々をここに閉じ込めている。これは永遠に変わらない。

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 J34528の内容を確認した。この内容は本来J34526からは読めないようになっているが、なんとかしてみよう。ただまともに会話できない人間もいるので、その方法で人と猿を見分けることはできないだろうな。状況は猿のせいばかりではないのだ。この話は合流してからにしよう。とにかく内容を確認したらすぐ位置情報を送るように。

J34527
 入力が7日間途切れました。ダクトが破壊されています。室内には誰もいません。残っているもの。土、棒、猿の毛7本。報告終わり。

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