重ね塗り

沖田灯

 北欧の小さな国の首相が会見するその奇妙なニュースが流れたのは、日曜の午後のことだった。狼狽した彼は身振り手振りを交えながら「色を喰われた」と話した。カラーの映像なのに、彼と背後の国旗だけがモノクロだった。
「何も映っていない」
 いつの間にか、ルポナが金属の身体を床に横たえながら僕の顔を覗き込んでいた。
 僕は自分に話しかけるようにルポナと話す。それに対し、ルポナは僕よりもう少し頭が良い人がするような答えを返す。時々、ルポナの中にはもう一人の僕が入っているのではないかと思うことがあるけれど、僕がそう考えていると知ったらルポナは怒るだろう。
 逃げるよという母に、反射的に逃げないと答えた。現実的には逃げるという行為は存在し得ない。それは、時間が流れていくのと同じことだ。以前、誕生日を迎えた僕が、時間ばかり過ぎていくと愚痴をこぼしたとき、ルポナはこう言った。
「時間は過ぎない。流れていくだけ」
 母によれば、この街全体に避難勧告が発令されたらしい。理由は発表されていない。ただ、ピンク色の帽子を深く被った老人と、彼の連れた犬に注意せよ、とのことだった。母は車で祖父母を迎えに行くと言って家を出て行った。ルポナはしばらく寝そべったまま目を閉じていたが、
「絵が観たい」
 と言ってようやく立ち上がった。
 避難所ではなく、逆の方角の美術館へ向かった。開館しているのかどうか分からないけれど、ルポナはそれ以外の行動を取りそうになかった。
 外を歩くとき、僕はルポナに首輪を付ける。ルポナは二足歩行なので、リードを持つ僕の手よりルポナの首が位置的に上に来てしまい、傍から見るとかなり奇妙なのではないかと思うが、そうしないとどちらが主人か分からなくなってしまうのだ。
 美術館へ続く道の、最後の角を曲がると、向こうから若い男女が走ってきた。彼らはモノクロだった。声をかけられて振り返ると、女の方は中学の同級生だった。
「そっちへ行っちゃダメ。あなたもこうなっちゃうよ」
 多分、彼女と顔を合わせるのは十年ぶりくらいだった。懐かしさに気が遠くなりそうだったけれど、彼女が実際にはそこにいないような感覚に陥った。
「避難所はもういっぱいだよ。僕のことは心配しないで」
 途端に彼女の目は驚愕と怒り、みたいなものでいっぱいになり、心配してねえよ、と言った。踵を返して男と一緒に走り去る彼女を見送っていると、同じようにモノクロの人たちが何人も、走って脇をすり抜けていく。やはり、彼らは本当にそこにいる訳ではなく、昔の映画を観ているような気がした。ルポナは彼らの姿を見ようとはしなかった。もう絵も観られないかも、と小さな声で呟いただけだった。
 美術館はがらんとしていたが、受付に人がいた。中年の男で、彼もまたモノクロだった。平然としているので、大丈夫ですかと聞くと、訝しげに首を傾げた。
「色を失うのは、噛まれたその本人ではありません。例えば、私を見るあなた自身です。あなたが噛まれない限り、私の世界から色は失われない。噛まれて騒いでいるのは、私と違い他人を思いやれる優しい人たちなのです」
 微笑んだ彼から入場券を受け取り、映画のスクリーンほどの大きな絵が何枚も飾られた廊下へ進んだ。絵のほとんどがモノクロに変わっていた。空と海と、中心におそらく太陽を描いた作品の前で僕たちは立ち止まった。色がついていないので何が描かれているのかはっきりせず、ペラペラに感じた。口に出したつもりはなかったのに、そうでもない、とルポナが言った。ルポナは絵ではなく、廊下の先をじっと見つめていた。
 深く被ったピンク色の帽子の下に、深く刻まれた皺とうすい髭。細い目でこっちを睨んでいる。背はそれほど大きくない。遠くから見たら、老人とは思わないだろう。足元には、四足歩行の、黒くて大きい何かが鎮座していた。ブルドッグのようにも見えるけれど、それよりは大きい。そして、目がない。
 老人は帽子を脱ぐと、僕に見せつけるようにそれを顔の前あたりで揺らし、笑った。床に落ちた帽子を老人が足で蹴ると、その生物は突然雄叫びを上げ、涎を垂らして帽子に噛みついた。食べるのかと思いきや、ひたすら噛み続け、みるみるうちに帽子は色を失くしていった。吐き出すと、白っぽい布のようなものがそこに落ちているだけになった。
「この帽子の色を思い出せますか。色の名前でなく、この帽子がさっきまでどんな色をしていたか」
 まろやかな声だ、とルポナは言った。老人は窓の外を手で指し示した。もう夜になっているはずだが、ほとんどモノクロになった街の風景から時間は読み取れない。結構良い眺めだと僕は思った。黒い生物が近づいてきて、次の瞬間にはもう噛みつかれていた。悪魔の化身みたいな出で立ちだが、噛まれてみると、やはりそれは犬であるようなかんじがした。不思議と痛みはなく、全部吸い込んでくれと祈った。人が色を奪われるのをどうして恐れるのか、僕には理解できなかった。
 抵抗するそぶりを見せない僕に、老人は面食らっているようだった。見降ろして、何か腫れものでも見るような表情を浮かべている。
「僕は酷い色をしているだろう。こうしてあんたの犬が喰ってくれれば、もう一度その上から、新しい色を塗れるかもしれないんだ。あんたは世界にとって、いい人だよ」
 見下ろしているのは、いつの間にか老人でなくルポナになっていた。老人は倒れていた。ルポナが何かしたのかもしれない。
「楽な生き方を見つけて、良かったね」
ルポナには表情がないし、声にも抑揚がないが、僕は長い付き合いで、なんとなくルポナが何を考えているのかいつも分かっているつもりだった。でも、今のルポナの感情は見えない。金属のボディーに、モノクロになった僕が映っている。僕は食い入るようにその姿を見つめ、ルポナにすがりつくような格好になった。遺影のようだ。僕は本当に生きているのだろうか。顔を触り、心臓のあるはずのあたりを触り、身体じゅうの毛を触った後、最後に歯を触った。噛まれている最中に感じた希望みたいなものは、もうどこかへ飛んで行ってしまったみたいだった。
 ルポナは僕を引き離し床に放り出すと、黒い塊に飛びかかった。首根っこをつかみ、歯を折ろうとしているらしい。恐ろしい叫び声が響いて、建物全体が揺れ始めた。僕は倒れている老人を背負い、ピンク色だった帽子を拾って外へ出ることにした。廊下を後にするとき振り返ると、ルポナは腕を相手の喉の奥に突っ込んでいるところだった。苦しみでますます化け物じみた様相を帯びたその黒い何かの口から、虹色の溶岩みたいなものが流れ出していた。
 美術館の周りにはモノクロの人たちが大勢集まっていた。老人から色を取り戻そうという魂胆だったようだが、唸りを聞いて恐ろしくなり、立ち往生していたらしい。
 とうとう建物が崩れるかという瞬間、ぼろぼろの屋根から爆発のような光が飛び出し空に打ち上がった。色だ、と誰かが叫んだ。茫然としている僕たちの上に、そのまま雨が降ってきた。虹色の雨だ。人々は喜んでそれを浴びた。少しずつ、街と人が色を取り戻していく。しばらくして、崩れた建物の残骸から黒い何かが出てきた。人々は一瞬ぎょっとなったが、それはただの犬だった。目をぱちくりさせながら老人に近づき、顔を舐めた。
 僕は虹色の雨を浴びながら、色に染まっていく視界の中で残骸をかき分けた。何枚も絵が出てきた。そのひとつひとつが色を得ていく様は美しかった。絵の下に、虹色に染まった金属の腕を見つけた。もう上半身しか残っていない。
「君のおかげで、みんな喜んでいるよ」
 僕はルポナに声をかけ、揺さぶった。ルポナは、歓喜して抱き合う人々を面倒くさそうに目を遣った。
「君はどうなんだ」
 かすれた声で聞かれたけれど、僕は答えられなかった。
「破壊しろ。君の責任はルポナにある」
 ぼろぼろのボディーに僕は映り込んでいなかった。僕は僕の色を見ることができない。 空と街と人々を見ても、もとはどんな色だったのか、思い出せる人は誰もいないだろう。色を失くしたことも、きっとすぐに忘れてしまう。
 ルポナは絵を観ていた。空と海と太陽の絵だ。上から虹色の雨が激しく降り注いでいる。その絵がどんな色に塗られて完成を迎えるのか、僕たちはいつまでも雨が降り止むのを待っていた。

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