紫色の惨劇

 校舎の暗がりから圧倒的容赦無しに照りつける夏の太陽の元へ出ると、嗚呼、またこの季節が来たのかと僕は陰鬱な気持ちになる。
 そしてあのラベンダーの香り。
 僕はこの季節も、ラベンダーの鮮烈な臭気も大嫌いだ。 なぜならそれは五年前の忌まわしい出来事を、あの悔やんでも悔やみきれない事件を思い起こさせるから。
 いつも僕の背中に隠れ、何処へ行くのも一緒だった花ちゃんはもういない。 だけど僕、安芸毘古は決して忘れることがないだろう。 彼女を守れなかった業を背負ってこれからも生きていかなきゃならないんだ。
 五年経ってもはっきりと憶えている。 当時小学三年生だった僕と花ちゃんは下校の途中だった。 
 僕は花ちゃんのことが可愛くてしょうがなかったんだよ。 だから困ったことがあると泣きそうな顔で助けを求めてくる視線や、彼女が怖がっているときに、僕のシャツの裾を握る小さな手にキュッと力が入る瞬間が愛おしくて、そんな花ちゃんの仕草を求めて、わざと彼女が怖がりそうなところばかり連れて歩いていたんだ。
 その日も通学路を離れ、不安がる花ちゃんを伴って意気揚々と歩いていた。 ちょっとしたお姫様を守るナイト気どりだ。
 だけれどあの日はいつもと違った。
 僕の虚栄心なんか、嵐の前に晒された蝋燭の灯火のようで、なんて儚く脆いものなんだろうと幼心に痛感することとなるあの出来事を、僕は一生涯忘れることはないだろう。
 災厄の序章は、ラベンダー畑に挟まれた畦道の向こうから、明らかに凶兆を孕んだ風体で現れて、僕たちの前に立ち塞がった。
「今日は、お嬢さん」
 いや、立ち塞がったのは花ちゃんの前で、まるで僕などいないかのようにその男は喋り始める。 この暑さの中、黒いパーカーのフードですっぽりと頭を隠し、顔の部分は影になって表情が読み取れない。
「な、なんで……」
 やっとの思いで絞り出した僕の言葉は最後まで発することはできず、気がつくと僕は仰向けに倒れ空を眺めていた。 わっと頬が熱くなって初めて自分が殴られたことに気づく。
 情けないことに僕は、知らない男に自分が殴られた事実に恐怖し、花ちゃんの存在を暫く忘れてしまっていた。 倒れたときに押し潰したのであろうラベンダーが、むせるような香りを放っていて、熱射がひりつく頬を焼いて、ズキズキと現実味が遠のいていく。
「……ちゃん…………あきひこちゃん!」
 突然のように飛び込んできた花ちゃんの悲鳴に我を取り戻した僕は、慌てて辺りを見まわす。 すぐさま目の前に黒く大きな塊が蠢いているのが目に入った。
 異様な状況だった。 男は花ちゃんの上に馬なりになり、その両手は花ちゃんの首にかけられていて、次の瞬間、フードの中の目と僕の視線が合って男はにやりと笑った。
 くそっ! この後の惨事をこれ以上思い出すと、五年経った今でも頭が割れそうに痛くなる。 僕は自分の非力さを嘆きながら、これからの生涯を生きていかねばならないのか。
「あーきひーこちゃーん」
 間のびした声とともに、背中一面に強烈な衝撃を受け、僕はもんどりうって倒れた。
 三メートルは飛ばされたのではなかろうか。
 この狼藉者の正体はもちろんわかっている。 僕は振り返りつつ「錦織花子! 貴様僕をサンドバック代りにするなと何度……」
 言い終わるまえに錦織花子はするりと僕の背後を取ると、僕の胴の辺りに両足を巻きつけ、夏服の半袖からすらりと伸びた白い両の腕で頸動脈を締め上げてきた。
「チョークスリーパーって言うんだよ。 昨日習ったんだ」
 無邪気な喋り口調とその凶悪な内容。 きりきりと首に食い込む暴力性と背中に感じる柔らかい感触の凶暴性。 頭の中に霞がかかってきて、ここが天国なのか地獄なのかわからなくなる。 首だけでは無い。 女だてらにしっかりと鍛えられた大腿四頭筋が、僕の脇腹を容赦無く締め付けてくる。
 頭の中の霞が濃くなり、なんだか気持ち良くなりかけた瞬間、「そこまでだ!」という号令が響き、錦織花子はふいに力を緩めた。
 僕は大きく深呼吸をして、ゆっくりと立ち上がり、おそらくは自分の技の切れの感想を聞くために、期待の眼差しでこちらを見ているであろう錦織花子と目を合わせないように、彼女がいる反対方向に歩きだす。 その先には先ほど号令をかけた女が、威風辺りを払う体で仁王立ちしており、まさにまさに諸悪の根源、悪魔王の風貌である。 派手やかなリングコスチュームが眩しいこの女こそが金剛寺麗香。 花ちゃんをこの世から消してしまった張本人である。
 僕はありったけの憎しみを視線に込めて、金剛寺麗香を睨みつける。 しかし彼女はそれには応えず錦織花子に話しかけた。
「今日はロードワークから行くぞ。 準備はできているか」
 応えて錦織花子は「はい」と叫び、セーラー服を素早く脱ぎ捨てると、その下から紺色のスクール水着姿が現れる。 小柄な体躯には違和感を感じるほど膨らんだ胸の部分には、縫い付けられた白い布に2-E 錦織花子とマジックで書かれている。
「ちょ、ちょっとまったー! 貴様その格好で町中を走り回る気か!」
「だってまだコスチューム持ってないんだもーん」
 口を尖らせて頬を膨らませた幼い顔。 よく鍛えられ肉がみっちりと詰まったような肉体。 同年代と比べても頭一つ分くらい低い身長に凶悪な胸。 それがスク水を着ている状況を想像して欲しい。 いや、するな。 お願いだから想像しないでください。
 僕は自分のシャツを彼女に羽織らせるために駆け寄りながら、もう一度振り返って金剛寺麗香を睨みつけた。 あの日も彼女はこんな不遜な眼差しで、僕らの前に静かに立ってたんだ。
 五年前のあの日、僕はなんとか男の行為をやめさせようと、背中にしがみ付いては何度も叩き伏せられていた。
 僕が花ちゃんを守るんだ。 その使命感が頭ん中を満たしていたせいか、不思議と痛みは感じなくなっていた。 だけど何度殴りかかっても、目一杯の力で蹴りを入れてみても、大きな男の体を花ちゃんの上からどかすことはできなかった。
 自分の無力を嘆き、心の中で繰り返していた言葉がいつの間にか口をついて出ていた。
「誰か……誰か助けて下さい!」
 まるでずっとそこに居たように、静かにその女は立っていた。 場違いに派手なリングコスチュームに身を包んだ彼女は、僕には何が起こっているのかすら分からない早業で、あっという間に男を撃退してしまったのである。 助かった。 その時の僕は不覚にもそう思ってしまった。 悲劇はまさにそこから始まったというのに。
 すかさず花ちゃんの元に駆け寄ろうとした僕だったけど、花ちゃんは僕をすり抜け女の方へ走って行き、「今の技、教えて下さい。 私強くなりたいんです」
 その瞬間、僕の助けが必要なか弱い花ちゃんは死んだ。 僕が一生守ると決めていた可愛らしい花ちゃんは永遠に失われてしまったのだ。
「プロレスの道は厳しいぞ」
 放心した僕には、もうその言葉は聞こえていなかった。
 錦織花子にシャツを羽織らせながら、僕は金剛寺麗香に叫んだ。
「僕の可愛い花ちゃんを返せ!」
「黙れあきぴこ! 彼女の自立を素直に喜べないお前には、ヒンズースクワット千回の罰だ!」
 くそ! 僕はプロレスやるなんて一言も言ってないのに。
「ときに花子よ。 お前は今度からこれをかぶるんだ」
 金剛寺麗香はそう言うと、マスクを取り出し錦織花子に投げ渡した。
「お前は今日からラベンダーマスクだ! さあラベンダーマスクよ、ついて来い!」
「はい、師匠!」
 走り去る錦織花子の、スク水から伸びる筋肉質な足を眺めながら、これはこれで……と言いかけてやめ、僕はため息をついた。     了

感想を投稿する
ログインする※ログインしなくてもコメントできます!
コメントするときにログインしていると、マイページから自分が付けたコメントの一覧を閲覧することができます。

名前は省略可。省略した場合は「匿名希望」になります。

感想の投稿には利用規約への同意が必要です。