獣目 (前)

鰐屋雛菊

 天門中断して楚江開き――。
 ふと頭に浮かんだ一節である。私は詩歌の類に興味がなく、よってこれは中学生のときに暗記させられたものだ。まあそんなことはどうでもいい。私は今この詩を想起させるような光景の中にいる。悠久を思わせる碧水は、残念ながら楚江(長江)ではないけれど。船は流れに乗って、天の門になぞらえた山の間を滑るように下りゆく。晴れかけた朝靄の向こうに船着き場が見えて来た。

 短時間でも船に揺られていると陸に降り立ったとき妙に安心する。私はあらためて荷物を背負うと、寄ってくる物売りを避けつつ今度は人の波に乗って露店でできた道を進んだ。
 私がこの地に立ち寄った理由は水だ。川の水は恐くて飲めないが、神殿内の湧き水は飲める。勿論ただではない。水を汲んだら泉の傍らに立つ神官に略式の厄払いを施してもらう。その際ひざまずいて神官の足下に置かれた皿へ銭を入れる。表向き聖職者は商いをしてはいけないらしく、こういう暗黙のしきたりがある。時間はかかるが商人から買うより安全で安いので、無宗教でありながら私はよくこうした宗教施設に立ち寄った。
 どうせ急ぐ旅ではないのだし。
 晩秋の空には幻のような月が浮かんでいる。月齢を数えなくなってどのくらい経つだろう。わき上がる諦念を振り払いたいのか受け入れたいのか、自分でももう分からない。厄払いの列に行儀良く並んで、そんな物思いに囚われかけていたときだった。
「捧げ物ならば祭壇へ献ぜよ」
「これは神玉様ご所望の品だ。取り次ぎを」
 正殿の方が何やら騒々しい。見ると黒ずくめの三人組が衛兵と押し問答をしている。参拝の手順や作法を守らぬ者というのはどこにでもいて、初めのうち私は彼らがそうした手合いなのだと思っていた。だがどうも様子が違う。ざわつく周囲に、厄払いの神官がわざとらしく咳払いをくり返す。
 ありゃあ「ケモノ見ル」じゃないか……珍しい……川魚は泥臭いって……ほら今の神玉様は内陸の出だからさ……え! まさか神玉様が獣肉を……声が大きいよ……もっぱらの噂だよ何を今さら……。
 私にとってはもめ事よりも、それに関心を寄せる人々の噂話こそ重要だ。情報は使いようで飯のタネになるし、ある社会での処世とは、そこで生きる人々の生の言葉の中にある。しょせん人間は人間をとおしてしか世界を知り得ない。
 神玉様とは神の魂(玉)を宿す者を意味する。神の言葉を聞く者であり、神託は神玉様から告げられる。この神殿の主神は大河と同じ名の女神で、その女神を奉ずる筆頭の神玉様が、川の幸である魚を嫌い獣の肉を欲するなど言語道断、怪しからん、と。どうやらこれがこの世界の常識らしい。
「あんたじゃ話しになんないわ」
 野次馬で人垣ができつつあった。その向こうから聞こえて来た声に私はちょっと驚く。若い女性の声だったからだ。衛兵ともめている黒衣の三人組はズボンを着用しており、私は無条件に彼らが男性だと思いこんでいた。何しろ二十一世紀の日本など遠く及ばぬほどに性の区別が徹底した社会である。女性に男と同じ服装を許すのは珍しい。私はようやく厄払いの列を出る気になった。
「無礼だぞ、女。生意気な口をききおって」
「何ですって。無礼はそっちじゃない」
 野次馬として出遅れてしまったので、私は背伸びし頭と頭の間から中を覗きこんだ。例の三人組は肘までの毛皮の手甲、足にもやはり毛皮の脚絆を巻き、衣服は上下黒で毛皮類も黒か暗褐色だった。武装は革鞘に収まった鉈を腰に差し、背には棒状のものを背負っている。あれは、槍、だろうか。上方を向いている端が台形で厚みがあり、途中に変な角度がついている。下方に向けられた方の端は視界が狭くて確認できない。何だろう、何かに似ている。ともかく三人は同じ服装をしていて、男女の明確な違いは頭髪だけだ。男二人は角刈りっぽい短髪、女は左右二つに分けた髪をそれぞれ三本の三つ編みにしている。
「止せよピパ。人が集まってきた」
 男の一人が背後を気にしつつ女をなだめる。女は横柄な態度でふり返り、さすがに驚いてしばし茫然と人集りを眺め回した。どうやら注目を集めていたことにまったく気づいていなかったらしい。そしてこのとき私は初めて彼らの顔を見て、その異様さにたじろいだ。彼らがそろって顔面の左側を黒い布で隠していたからだ。
 それは分かりやすく言うと小型のふんどしで、紐の部分を額から後頭部へ回して結び固定している。三人が三人とも。いったい何のまじないなのだろう。そういえば噂話の中で彼らは奇妙な呼ばれ方をしていた。確か、ケモノ見ル……いや、この場合「見る」ではなく「目」と訳すべきか……獣の目、獣目。
「何事ですか」
 正殿の正面扉も開放されているが、薄衣が何枚も掛かっていて中は見えない。その一枚一枚が内側から左右に開かれて一人の少女が現れた。純白のローブは簡素なデザインながら柔らかな絹の光沢を放ち、褐色の肌を冷ややかに包んでいる。豊かな黒髪はさながら渦巻く激流、黒々とした瞳は深遠の底。心持ち上げた顎とそびやかした肩に、まだ十代半ばの少女の傲慢が見て取れた。
「神玉様」
「神玉様だ」
 あちこちで声が上がり、急に見晴らしがよくなった。少女の視線が真っ直ぐ私に突き刺さる。気がつけばその場に立っているのは少女と黒衣の三人、そして私だけになっていた。
 まずい。それしか頭に浮かばない。
「構いません。神の威の前にはあなたもわたくしも、等しく卑小なる存在ですもの。ひざまずく必要などありませんわ」
 ますますまずい。構わぬと言われてしまうと、今さらひざまずくこともできない。進退窮まったとはこのことだ。
「ところであなた方はホクブホウメンタイダイジュウイチシダン族ですね。何のご用でしょう」
「そんな仰々しい呼び方しなくていいわよ。いつもどおり獣目と呼べば?」
「と、届け物です!」
 何かいま変な言葉を聞いたような。混乱しているせいか。それとも偶然か。
「神玉様ご所望の品をお届けに上がりました」
「さっさとお金払ってよ」
 少女が背後へ目配せすると、中年の女性が腰をかがめ膝を折ったまま小走りに三人の方へかけ寄った。侍女だろう。これだけ大騒ぎになったが、どうやらこのまま収束しそうだ。北部方……いやホクブホウメンタイダイジュウイチシダン族の女が高級羊羹一本が入った木箱くらいの包みを手渡すと、侍女はまた小走りで主の元へ戻った。
「女神への供物ですか。良い心がけです。あなた方に神のご加護が下されるよう祈祷してしんぜましょう。ではごきげんよう」
 少女はうっとりとした目でほほ笑み踵を返す。ローブの裾を引いて正殿の入り口へ向かう彼女に、ホクブホウメンタイダイジュウイチシダン族の女が吼えた。
「ちょっと待ちなさいよ、あんた踏み倒す気」
「それはそちらのご要望にて持参した品です。お買い上げくださるという約束のはずですが」
 背中に背負った棒に手を伸ばした女を制して、彼女の右隣にいた男が一歩踏み出す。もう一人の男はよく見るとまだ年若いらしくオロオロしている。少女は肩越しにふり返り、事もなげに言った。
「わたくしは何も頼んでいません」
「わかりました」
 女を制している男はかなり冷静な質のようだ。頭に血を上らせている女の前に立ちはだかる。気弱そうな男もその腕を取って彼女を押しとどめた。
「どうやら手違いだったようです。ご無礼いたしました」
「何言ってんのよ、あれは……!」
「手違いでしたので、どうかそれはお返しください」

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