adventure
小島さなぎ
ふいに足元で気配がしたので目を向けると、猫が腰を下ろしてじっとこちらを見ていた。己(おれ)はテーブルの上の角鉢から小女子(こうなご)を箸でひとつまみすると、彼に向けて落としてやった。猫はしゅんびんな動作でそれを把捉すると、床に置いてこりこりと齧り始めた。
窓の外に目を向けると、すっかり日が昇ってきている。出発の頃合いだ。テーブルを片付け手早く身支度を済ませると、己は玄関を出た。もう七時を回る頃だが、今朝は十二月でも特別寒く思われた。風が強いのだろう。己は今月買ったばかりのダウンジャケットのジッパーをいつもより高く上げて、左右のポケットにそれぞれの手を突っ込んだ。
ピーコートのポケットは物を入れるには不自然な高さにあるのだが、あれは船上作業員が手を温めるための配置らしい。ボタンがダブルになってるのも、海上で風向きが変わったときに対応するためだそうだ。ダッフルコートの前合わせも同様に風向きの変化を想定して作られたらしい。
己のダウンジャケットはそうしたトラッドな仕立てではないが、ピーコートと同じく縦に切り込みを入れたようなポケットが開いている。手を突っ込むとダウンがすっぽり甲を覆って温かく、非常に具合がいい。
先日、愛知県内のとある芸大にこのダウンを着て行ったら、人懐こい感じの男子学生がハンガーを差し出してくれた。いつもは自分で持って行くのだけど、そのときは忘れていたのでありがたく使わせてもらった。ところが、そのハンガーには油絵の具がベットリと付着しており、それから後のことについては思い出したくもない。そこで知ったことだが、画学生は油絵の具を単に油と言うらしい。己の一張羅は油に塗(まみ)れている。
今日は三重県の大学まで出張だ。朝十時には着いているように、という指示だったので、早起きして向かっている。己の家は名古屋の南東の端辺りにあるので、そこからまず地下鉄で北西に名古屋駅まで向かい、近鉄の松阪方面に乗り換えて南西に津市を目指す。
近鉄は大阪に行くのに時々使うのだが、三重県はその際の通り道という感覚で、降りるのは初めてかもしれない。高い建物が何もない通りを十五分ほど歩くと、大学の敷地に入った。家から片道二時間半というところか。
十時すれすれのところまで待ってから美術棟に上がると、同時に突き当りの戸から小洒落た格好の男が出てきた。己を認めると、モデルの方ですか、と声をかけてくる。
ここまで伏せてきたのに大した理由はないけれど、己は美術モデルという仕事をしている。今日はヌードという話は聞いていたけれど、講師であるらしい男の説明で初めて彫塑(粘土)であることがわかった。大体いつものことだが、時間と場所、脱ぐか否かのみで、詳細な説明は現場に来るまでもらえない。クライアント(この場合はこの男)の方でも実際にモデルを見て現場に立たせてから考えるというのが実態だろう。
控室で着物を脱ぎ、持参したガウンのみを羽織ってアトリエに入ると、小さな教室に三人ほどの学生がいて、それぞれ胸くらいの高さの脚に据えられたろくろの上で粘土をこねていた。男一人女二人、二十歳前後の彼らは手元の作業を進めつつ値踏みするような目つきをちらりとこちらに向けてきた。
狭い部屋の真ん中に己の立つひな壇が用意されており、その隣りに大きなストーブが、コンクリートブロックで台座を組んで同じ高さに据えてあった。ストーブ以外の三方をぐるっとろくろが、十五台ほどだろうか、並べてあって、学生はこのろくろを行ったり来たりしながらモデルを観察するようだ。絵画であれば広いアトリエの中を銘々勝手に位置取って思い思いのアングルを切り取るわけだが、立体を作る場合、全方位から見なければ分からない部分が出てくるため、こうした作業環境になってるのだろう。
己は彫塑のモデルは初めてだったのだけれど、パッと見て『マトリックス』という映画の撮影風景を思い浮かべた。あの映画では被写体の周囲をカメラで覆い尽くして同時に撮影することで、現実の人間をコンピュータグラフィックスのように止め、カメラがぐるぐる回り込んでいるように見せていたわけだが、ここに並べられたろくろの一つ一つがカメラというか、視点になるわけだ。
なるほどな、と思いながらひな壇に立ってポーズをあれこれ試しているうちに一人二人と学生が増えたが、それっきりで、どうやら今日は都合五人のためにポーズを取ることになるようだ。ちなみに増えたのは二人とも女である。
美術モデルは慣例的に女性が用いられることが多く、己のような男のモデルが呼ばれる仕事はほとんどない。事務所の社長からはせっかく呼ばれたのだから男性であることを主張するように躍動的なポーズを、と言われるのだが、実際現場に入るとそういうものは大体受け入れられず、これなら女性でもよかったんじゃないか、と思うような静的なポーズが採用されることが多い。静的というより内省的というのか、心の中で煩悶してる様を見せるのが好まれるような気がしている。
形に関してこれ、というマストの要求がなされることはないので、結果的に佇まいというか、雰囲気が様になってれば大体通る気がする。しかし雰囲気重視で探ってると、規定時間(大体は二十分の繰り返し)を維持できないような難しいポーズに行き着いてしまい、且つクライアントがそれを気に入ってしまったりすると、ひっこみがつかなくなって自分が辛い思いをするという問題もある。
そして今回も己は客の要望から展開させていくうちに死地へと踏み込んでしまい、そのまま、と静止要求を受け、1ポーズ目にして早くも危機感を抱いている。今の己のポーズを細かく説明するのは面倒だが、横から見ると片仮名の「ム」のような体勢になっている。上体の反りが肝で、これが後ろに傾くと体幹の筋や足首への負荷が重くなり、前に傾くと膝が痛む。
そうした天秤の揺らぎを凝視しながら、指の形とか目線とかいった細部にも注意しつつポーズを維持するわけで、本来なら自分の外には気が向いたりしなくなるところだ。しかし今日は学生があちこちのろくろを行ったり来たりするので、その度に今移動した角度からどう見えるだろうかと考えたりする。姿勢を変えることはできないけれども、ポーズ中の力点とでも言おうか、意識の持って行き場を探ろうとして、結局は判断が追いつかず決めあぐねた。
学生だけでなく己もまた動く。2ポーズ目からは同じ姿勢で向きを変えろというオーダーである。ストーブが正面に来る向きを取ったとき、すぐに気づくべきだったのだけれど、前からの強烈な熱気と横からのエアコンの風で呼吸が困難になった。早めに申し出て向きを変えてもらうか、ストーブを止めてもらった方がいいとも考えたが、次はまた動くのだし今回だけやり過ごせばいいとも思った。堪えられるだけ逡巡していたら急に、これ以上続けると倒れる、という危機感が湧き立ち、たまらず手を上げてストーブを止めてもらった。
小休止が入ったので気を取り直そうと部屋を見回したら唯一人の男子学生が、今の己もそうだろうけれど、頬を紅潮させており、目が合うと俯いてしまう。男性モデルに慣れていないのか。講師も、いつもの女性とは違うだろうよく見ておけ、などと言っている。
休憩が終わると男子学生はろくろを移して、己の背後に回った。己は次第に冷たさを帯びていく室内の空気に合わせるよう静かに呼吸を正しながら、再びポーズに意識を集中させようとした。
遮るように、何かが触れてきたのを感じて反応しそうになるが、制止する。腰椎の辺りから骨盤に、のめっとしたものが這うようにして下りてくる。瞬時に己は、背後から粘土を棒状に伸ばして尻を狙ってきているのだと悟った。瞑想の妨害をするものを魔羅と呼ぶ。なるほど正にこれだ。
先程の男子がどんな顔であったか思い出そうとしたけれど、はっきりと形にならない。
振り向くことはできないが、視界の隅に目をやると女子学生が静かにこうふんしているようだった。
※BGM
クラフトワーク「モデル」
旬「1778-1985」「①-location」
岡村靖幸「adventure」
窓の外に目を向けると、すっかり日が昇ってきている。出発の頃合いだ。テーブルを片付け手早く身支度を済ませると、己は玄関を出た。もう七時を回る頃だが、今朝は十二月でも特別寒く思われた。風が強いのだろう。己は今月買ったばかりのダウンジャケットのジッパーをいつもより高く上げて、左右のポケットにそれぞれの手を突っ込んだ。
ピーコートのポケットは物を入れるには不自然な高さにあるのだが、あれは船上作業員が手を温めるための配置らしい。ボタンがダブルになってるのも、海上で風向きが変わったときに対応するためだそうだ。ダッフルコートの前合わせも同様に風向きの変化を想定して作られたらしい。
己のダウンジャケットはそうしたトラッドな仕立てではないが、ピーコートと同じく縦に切り込みを入れたようなポケットが開いている。手を突っ込むとダウンがすっぽり甲を覆って温かく、非常に具合がいい。
先日、愛知県内のとある芸大にこのダウンを着て行ったら、人懐こい感じの男子学生がハンガーを差し出してくれた。いつもは自分で持って行くのだけど、そのときは忘れていたのでありがたく使わせてもらった。ところが、そのハンガーには油絵の具がベットリと付着しており、それから後のことについては思い出したくもない。そこで知ったことだが、画学生は油絵の具を単に油と言うらしい。己の一張羅は油に塗(まみ)れている。
今日は三重県の大学まで出張だ。朝十時には着いているように、という指示だったので、早起きして向かっている。己の家は名古屋の南東の端辺りにあるので、そこからまず地下鉄で北西に名古屋駅まで向かい、近鉄の松阪方面に乗り換えて南西に津市を目指す。
近鉄は大阪に行くのに時々使うのだが、三重県はその際の通り道という感覚で、降りるのは初めてかもしれない。高い建物が何もない通りを十五分ほど歩くと、大学の敷地に入った。家から片道二時間半というところか。
十時すれすれのところまで待ってから美術棟に上がると、同時に突き当りの戸から小洒落た格好の男が出てきた。己を認めると、モデルの方ですか、と声をかけてくる。
ここまで伏せてきたのに大した理由はないけれど、己は美術モデルという仕事をしている。今日はヌードという話は聞いていたけれど、講師であるらしい男の説明で初めて彫塑(粘土)であることがわかった。大体いつものことだが、時間と場所、脱ぐか否かのみで、詳細な説明は現場に来るまでもらえない。クライアント(この場合はこの男)の方でも実際にモデルを見て現場に立たせてから考えるというのが実態だろう。
控室で着物を脱ぎ、持参したガウンのみを羽織ってアトリエに入ると、小さな教室に三人ほどの学生がいて、それぞれ胸くらいの高さの脚に据えられたろくろの上で粘土をこねていた。男一人女二人、二十歳前後の彼らは手元の作業を進めつつ値踏みするような目つきをちらりとこちらに向けてきた。
狭い部屋の真ん中に己の立つひな壇が用意されており、その隣りに大きなストーブが、コンクリートブロックで台座を組んで同じ高さに据えてあった。ストーブ以外の三方をぐるっとろくろが、十五台ほどだろうか、並べてあって、学生はこのろくろを行ったり来たりしながらモデルを観察するようだ。絵画であれば広いアトリエの中を銘々勝手に位置取って思い思いのアングルを切り取るわけだが、立体を作る場合、全方位から見なければ分からない部分が出てくるため、こうした作業環境になってるのだろう。
己は彫塑のモデルは初めてだったのだけれど、パッと見て『マトリックス』という映画の撮影風景を思い浮かべた。あの映画では被写体の周囲をカメラで覆い尽くして同時に撮影することで、現実の人間をコンピュータグラフィックスのように止め、カメラがぐるぐる回り込んでいるように見せていたわけだが、ここに並べられたろくろの一つ一つがカメラというか、視点になるわけだ。
なるほどな、と思いながらひな壇に立ってポーズをあれこれ試しているうちに一人二人と学生が増えたが、それっきりで、どうやら今日は都合五人のためにポーズを取ることになるようだ。ちなみに増えたのは二人とも女である。
美術モデルは慣例的に女性が用いられることが多く、己のような男のモデルが呼ばれる仕事はほとんどない。事務所の社長からはせっかく呼ばれたのだから男性であることを主張するように躍動的なポーズを、と言われるのだが、実際現場に入るとそういうものは大体受け入れられず、これなら女性でもよかったんじゃないか、と思うような静的なポーズが採用されることが多い。静的というより内省的というのか、心の中で煩悶してる様を見せるのが好まれるような気がしている。
形に関してこれ、というマストの要求がなされることはないので、結果的に佇まいというか、雰囲気が様になってれば大体通る気がする。しかし雰囲気重視で探ってると、規定時間(大体は二十分の繰り返し)を維持できないような難しいポーズに行き着いてしまい、且つクライアントがそれを気に入ってしまったりすると、ひっこみがつかなくなって自分が辛い思いをするという問題もある。
そして今回も己は客の要望から展開させていくうちに死地へと踏み込んでしまい、そのまま、と静止要求を受け、1ポーズ目にして早くも危機感を抱いている。今の己のポーズを細かく説明するのは面倒だが、横から見ると片仮名の「ム」のような体勢になっている。上体の反りが肝で、これが後ろに傾くと体幹の筋や足首への負荷が重くなり、前に傾くと膝が痛む。
そうした天秤の揺らぎを凝視しながら、指の形とか目線とかいった細部にも注意しつつポーズを維持するわけで、本来なら自分の外には気が向いたりしなくなるところだ。しかし今日は学生があちこちのろくろを行ったり来たりするので、その度に今移動した角度からどう見えるだろうかと考えたりする。姿勢を変えることはできないけれども、ポーズ中の力点とでも言おうか、意識の持って行き場を探ろうとして、結局は判断が追いつかず決めあぐねた。
学生だけでなく己もまた動く。2ポーズ目からは同じ姿勢で向きを変えろというオーダーである。ストーブが正面に来る向きを取ったとき、すぐに気づくべきだったのだけれど、前からの強烈な熱気と横からのエアコンの風で呼吸が困難になった。早めに申し出て向きを変えてもらうか、ストーブを止めてもらった方がいいとも考えたが、次はまた動くのだし今回だけやり過ごせばいいとも思った。堪えられるだけ逡巡していたら急に、これ以上続けると倒れる、という危機感が湧き立ち、たまらず手を上げてストーブを止めてもらった。
小休止が入ったので気を取り直そうと部屋を見回したら唯一人の男子学生が、今の己もそうだろうけれど、頬を紅潮させており、目が合うと俯いてしまう。男性モデルに慣れていないのか。講師も、いつもの女性とは違うだろうよく見ておけ、などと言っている。
休憩が終わると男子学生はろくろを移して、己の背後に回った。己は次第に冷たさを帯びていく室内の空気に合わせるよう静かに呼吸を正しながら、再びポーズに意識を集中させようとした。
遮るように、何かが触れてきたのを感じて反応しそうになるが、制止する。腰椎の辺りから骨盤に、のめっとしたものが這うようにして下りてくる。瞬時に己は、背後から粘土を棒状に伸ばして尻を狙ってきているのだと悟った。瞑想の妨害をするものを魔羅と呼ぶ。なるほど正にこれだ。
先程の男子がどんな顔であったか思い出そうとしたけれど、はっきりと形にならない。
振り向くことはできないが、視界の隅に目をやると女子学生が静かにこうふんしているようだった。
※BGM
クラフトワーク「モデル」
旬「1778-1985」「①-location」
岡村靖幸「adventure」
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