アナザー・エレホン

檀敬

「ようこそ、アル」
 ぼくは、プレジャー・ビーチにあるこの占師のテントに笑って入ってきた男をビックリさせないように声をひそめてあいさつをした。しかし、失敗したのは、その男が誰なのかをもう知っているんだとでも言いたげにその男の愛称をあいさつに添えてしまったことだ。その『アル』という愛称の男は、ぼくの声とそのあいさつが意味することを素早く察知して笑いを止め、ぼくを鋭く注視した。
「そんなにビックリしなくていいと思うけど」
 ぼくはアルの態度に苦笑いをしたけれども、アルは凍り付いた表情と不審な目でぼくを見続けて『どうしてここにいるのか、いつここに来たのか、なぜこの場所なのか、そしてなぜ君なのか、説明してほしい』と早口で繰り返し尋ねたことに、ぼくはひどく戸惑いを感じた。
「その質問に論評はできないけど、そうだなぁ、これが【ぼくの本質】とでも言っておこうか。それよりアル、いつまでもテントの入り口に立っていないで椅子に座ってよ」
 ぼくの向い側へ座るように手招きをすると、アルは不思議そうな表情をぼくに向けたままスツールをまたぐようにして腰掛けた。座ってからもアルはまた疑問を口に出したそうにイライラと指の爪をかんでいた。
「落ち着いてよ、アル。ぼくはアルをどうかするつもりはないから。むしろぼくがアルに好かれたいとばかり思っていることは、君が一番よく知っているでしょ?」
 ぼくの言葉を聞いたアルは、ぎこちないけれども薄っすらとほほ笑んだ顔をぼくに向けてくれた。
「そう、その笑顔だよ。初めてぼくを見た時のアルの笑顔そのものだ。ランニングの途中で牧場の草の中に座っていた、あの時のアルと同じだね」
 ぼくがうれしそうに言うと、アルは頬を赤く染めた。

「アルはホンモノの天才だよ」
 ぼくは、テーブルの上で両手を組み、アルをジーッと見ながらつぶやいた。アルは、ぼくの言葉に恥ずかしがって視線を外した。それでもぼくはアルを見つめていた。
 実際のところ、アルの思考は人間としては非常に卓越している。それはぼくら『高次知性体』が持っているセンスと同等かそれ以上で、特にアルのそれはラジカルでありながらファンダメンタルでプログレッシブなのだ。
「だから、ぼくはアルが大好きなのさ」
 いつもなら自分本位な態度をとるアルなのに、ぼくの好意に珍しく謙遜をした。『君がいたからだよ』なんていうセリフがアルの口から出るなんてぼくは考えてなかった。
「牧草地で出会った時のことを覚えているかい?」
 ぼくの質問に、アルは感慨深げに何度もうなずいた。ランニングの足を止めて小高い牧草地に腰を下ろしたアルは、そこから見える川面をジーッと見ていた。ぼくは川面を見ているアルを川辺から見つめていた。ぼくの視線にアルが気付いた時、アルはひどく取り乱したのだった。
「驚いていたね、ぼくが『クリス』にソックリだから」
 ぼくの言葉にアルはうなずき、また赤くなって下を向いた。牧草の上に座るアルの横にぼくも腰を下ろして会話した。初めて出会ったというのに旧知の友達のように、それは驚くほどたくさんの話をした。
「とてもアブストラクトでメタフィジックスな話をしたよね。とてもうれしそうなアルが印象的だった。アルはぼくを完全にクリスだと思っていたみたいだしね」
 ぼくのセリフにその都度うんうんとうなずくアルは『その時にある疑問が湧いてきた。それが【人間が計算するということはどういうことなのだろうか?】という思考への本質的な発端になった。そして【プリミティブな思考モデル】へ展開したという訳さ』とぼくに語ってくれた。

「アルは完璧だったよね」
 ぼくは、アルが敵国の暗号【謎(エニグマ)】を鮮やかに解いたことを称賛した。しかし、アルは『機械にやってもらったのは人間にとってもっとも面倒に感じる手続きの部分だけだよ』と事もなげに言い放ち、さらに『主要なことは既にポーランドで解明済みだったし、もっとも重要だったことはクリブを見付けることだったしね』とまるで自分の仕事ではなかったかのような口ぶりだった。
「ゴーディにはやられたね」
 ぼくがそれを言うと、アルはちょっと不機嫌になった。『ヤツの対角結線には恐れ入ったよ』と一瞬バツの悪い顔になったが、すぐに『そのおかげで回路的には楽になったのだけどね』と表情は明るくなった。そして『君のアドバイスもあったしね』とアルは付け加えた。
「ぼくはアドバイスなんてしていないよ?」
 ぼくがとぼけると、アルはぼくを指差しながら『あの時に「いらないモノが多過ぎなのでは?」と言ったのは、確か君だったと思うのだけど?』とニヤリと笑った。
「確かに百五十の後にゼロが十八個ほども並ぶ巨大な数のなかから、たった一つの正解を見いだす訳だから捨てる方を考えるべきだと思っただけだよ。でも、アルはそのことからさらに自在に思考するようになった。多くのバリエーションがあっても、プロセスが非常に複雑でも、その実際は単純な理論なのだと。さらに進んで【形態形成】もその理論への思考実験であって、それを確かめるためにアルが考え出した【プリミティブな思考モデル】を適用したコンピューターを使った訳だよね」
 ぼくは返答と同時に今更の事柄をアルにぶつけてみた。するとアルはハッとして、そしてドキッとして、さらにキッと厳しい表情でぼくを見返した。
「ふふん。適当に羅列してみたのだけれども、どうやら図星だったようだね」
 ぼくが意地悪そうにアルを見つめた。アルはぼくの反応に頭をかいて『あはは……』と笑った。

「今のアルはちょっと苦しいよね」
 ぼくの言葉に、アルはビクッとした。
「戦争中もそうだったけど、戦争が終わった今でさえ。暗号解読は機密だから誰にも話せない。今でも監視されていることをぼくは知っているよ。気を付けなきゃダメだって言ったのに、アルはぼくの言葉を全く聞いてなかった」
 この話を始めた途端に、アルの表情は曇ってきた。忌まわしい法律での逮捕と残念な判決、その執行措置であるエストロゲン投与がアルの心に影を落としていた。膨らんだ胸に手を当てたアルの顔は沈痛な表情に変わった。
「コンピューターを含んだ【機械】が【知能】を得て、それが【生命】へとダーウィン的に【進化】をするだろうという【直感】をアルは持っている。違うかい? 生物であろうが機械であろうが【プリミティブな思考モデル】を享受できれば生物と機械との区別なんて無意味になる。つまり【融合】の可能性を意味することになる。そうなのだろう? ぼくの言っていることに間違いはないよね?」
 ぼくのこの言葉にアルはニヤリとした。ぼくもアルの反応にニヤリとした。アルがそう考えているのなら、ぼくは話を核心へと前進させることができる。
「気が付いているようだけど、ここでの君の存在は尚早なのだよ、アル。そこでこれはぼくからの提案なのだけれど、ぼくがいる場所に来ないかい? そこは全ての事象に一切の区別はないし、ただ【思考】という営みしか存在していないところだよ。それだけでワクワクするだろう?」
 子どものように興味津々な表情のアルがそこにいた。ぼくはそんなアルに目を細めて静かにそして切実に言った。
「もう一つの【コモドナディ】にぼくと一緒に来て」
 ぼくの誘いに対してアルは急に無口になり無表情になった。どうやらアルは真剣に考えているみたいだった。
「すぐには決められないよね。ゆっくり時間をかけていいから。決まったら心の中でつぶやいて。それでぼくにはちゃんと伝わるよ。そしたら、コッソリと枕元に一個のリンゴを置いておく。【白雪姫】だと言えば分かるよね?」
ぼくが不敵にほほ笑むと、アルは全てを悟った様子でゆっくりとうなずいた。
「みんなが待っているよ。早くビーチに戻ってあげて」
 アルは重苦しい面持ちでぼくを振り返りつつテントから出ていった。
「アルのことだ、すぐにぼくと同じ『高次知性体(ソフトウエア)になる』という結論を出すだろう」
 ぼくはテントの中でニヤニヤしながらそう確信した。

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