二十一グラム
アッシュ
「歳をとると飲み会の話題が健康診断の結果になる」と聞いてはいたけれど、それはもっと歳をとってからの話だと思っていた。三十を過ぎた途端に、よく飲む友人たちは、痛風だ、高血圧だ、糖尿だと言って、乾杯からレモンサワーを飲むようになってしまった。かくいう私も、会社の健康診断で「疑わしい」箇所が見つかり、大学病院で再検査となった。今日はその検査結果を聞くために、休日の朝早くから、いつもとは違う電車に揺られている……と言うわけだ。
休日の朝九時、まぁ、電車はガラガラだろうと思っていたのだが、予想に反して程よく混んでおり、私は座席に座ることが出来なかった。通勤に使わない路線とは言え、もう何度も乗っているので流れる景色は見飽きている。スマホをいじるのもなんだか間抜けだと思い、なんとなく人間観察を始めた。
メインの年齢層は二十代後半から五十代くらいか。男女比はほぼ一対一。高校生以下の乗客は少ない。どの方向を見ても、寝ている乗客、スマホをいじっている乗客の両方が目に入る。平日の電車だと、スーツ姿のサラリーマンが多く乗っているが、今日はカジュアルな服装の男女が目立つ。
そんな中、一人の女性が目に止まった。年の頃は二十五、六といったところか。身体の線は細く、髪は長い。黒いストッキングに包まれた細い脚は、しかしながらメリハリがあり美脚。顔のパーツは整っているのだけれど、化粧が下手なのか、青白く精気のない印象を受ける。よほど疲れているのか、座席に座り、頭を窓にあずけ、上を向いて眠っている。折角の美人が、なんとも間抜けな姿を晒しており、もったいないなぁと眺めていたら、最初は閉じられていた唇が徐々に開いてきた。
最初はキスをしたくなるような蠱惑的な唇であったが、徐々に上下の唇が離れていった。まず微かに白い歯が覗き、やがて底の見えぬ闇をたたえた洞が現れた。綺麗な顔の中に突如と現れた漆黒の穴を見ていると、なんだ怖くなってきた。怖いのだが、目を離せない。電車の揺れに合わせて揺れる洞に目を奪われているうちに、ある疑念が湧いてきた。
「この女性(ひと)は、実は死んでいるのではないか」
一度そう思うと、その青白い顔や、電車の揺れに合わせて揺れる身体や、漆黒を湛える口や、その細い手脚が、「死」という事象に強烈なリアリティを与え始めた。髪は垂れ下がり、眼窩は落ち窪み、肌は潤いをなくし、肉は削げ落ち、皮の張り付いた骸骨が現れるような気がしてきた。休日朝の明るい陽の光はすでに陰り、どんよりと、重く、湿った空気が、定員一六〇名の鉄の箱に満ち満ちていく。
気付くと、襟足の辺りを冷たい汗が伝っていた。
ふと、死んだ女性の隣の、五十代くらいのご婦人が目に入ってきた。彼女も死んでいた。反対側はどうだ。三十代の男性は今まさに本のページをめくっている最中である。生きている。その隣は……生きている。その隣は死んでいる。生きている、生きている、死んでいる、生きている、死、生、死死、生、死死生生生死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死……っ!!
死に支配された鉄の棺桶に揺られる自分の姿を妄想し、ポケットからハンカチを取り出し、額に浮かんだ脂汗を拭った。目を閉じ、大きく深呼吸を一つ。ゆっくりと目を開けるとそこは、当然、陽の光が差し込み、小気味良く揺れる電車の中であった。
最初の、あの綺麗な女性に視線を戻すと、いつの間にか目を覚まし、スマホで何やら確認しているようであった。
それはそうだ。当然彼女は死んではいない。それはただの妄想で、実際に、そんな滅多なことで、電車の中が死で満ちたりはしない。そんなことは分かっている。ただの思考実験でお遊びだ。隣のご婦人は相変わらず眠り続けているし、反対側の男性も本を読み続けている。なべて世は事もなし、だ。
しかし、彼女は私の中で一度死んだ。死とは何か。肉体的な死が死の全てでは無いとするならば、彼女は一度、僕の精神の中で死に、蘇ったことは確定的な事実だ。死のうちより復活した彼女は救世主(メシア)なのか。彼女には、同じ時間、同じ場所に偶然居合わせた僕の目を奪う程度の求心力(カリスマ)はあるかもしれない。しかし、それは、彼女が他人より容姿に優れているというだけのことであり、彼女に世界の救済を求めるようなものではない。そうなると彼女はリビングデッド……ゾンビであるというのか。私はふと、哲学的ゾンビについて思い出した。
哲学的ゾンビとは「物理的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」と定義されている(**)。哲学的ゾンビは我々人間とは区別がつかない。泣いたり、笑ったり、怒ったりする。我々人間と「哲学的ゾンビ」について議論を行うこともできる。物理的化学的電気的反応として我々人間と全く区別がつかないし、区別がついた時点でそれは哲学的ゾンビではない。では哲学的ゾンビを哲学的ゾンビたらしめているものは何か。それは意識、クオリアのの有無だ。哲学的ゾンビにはクオリアは無く、彼らの反応はただの物理的化学的電気的反応の集合であり、彼らは意識、クオリア、経験、感覚を持ちあわせていないのである。
彼女が哲学的ゾンビであるならば、私がそれを認識した時点で彼女は哲学的ゾンビではない。彼女が死のうちから復活したというのであれば、それは我々人間と同じ物理的化学的電気的反応ではないので哲学的ゾンビではない。しかし、私の、意識、クオリアが、彼女の死を観た。彼女の復活を観た。その死は、精神の死であり、肉体の死と切り離して考えられる。彼女の肉体が、未だに物理的化学的電気的反応を行っているのは、それは精神世界での死であるためであり、定義に反しない。しかし、私が彼女を哲学的ゾンビであると認識した点の定義への矛盾は拭えない。
ならば彼女は「ただの」ゾンビだ。彼女の死は観測され、状態は収束した。肉体は、未だ死なず、物理的化学的電気的反応の集合体としての生を得て、休日の午前中、鉄の棺桶に揺られ移動するゾンビと成った。
周りを見渡すと、すでにゾンビの群れの中であった。物理的化学的電気的反応を返すオブジェクトたち。個々の個体は複雑な入力に対して、なんらかの出力を返却するファンクションである。彼らは人間のように動き、人間のように生活し、人間のように死ぬ。ただそれだけのゾンビだ。
暇を持て余した私の意識が大量虐殺を始めた。神の子は死のうちより三日目に復活したとされるが、ゾンビたちは死んだそばから復活していく。あっという間に私の目に入る範囲の全ての人間はゾンビへと成った。
ゾンビたちを乗せた鉄の棺桶は、定刻通りに静かに駅へと到着する。目的も知らぬゾンビ達は、己の物理的化学的電気的反応に従い、電車を降り、それぞれの目的地らしき場所へ向かって移動する。そんなゾンビの群れにまじり、私は電車を降りた。
西口改札を出て、大学病院を目指す。喧騒の街を歩く間に、意識の中からはゾンビたちに関する記憶は徐々になくなり、やがて完全に忘れてしまう。
誰が私の事をゾンビではないと言えようか。私の意識、経験、感覚……クオリアもまた、物理的感覚的電気的反応にすぎないかもしれないというのに。
しかし、そんなことはどうでもいい。
まずは目の前の血液検査の結果を踏まえ、ダイエットすることの方がよっぽど大事だからだ。ダイエットを始める前に、たらふく焼き肉でも食っておこう。そう、思った。
[出典]
** http://ja.wikipedia.org/wiki/哲学的ゾンビ
休日の朝九時、まぁ、電車はガラガラだろうと思っていたのだが、予想に反して程よく混んでおり、私は座席に座ることが出来なかった。通勤に使わない路線とは言え、もう何度も乗っているので流れる景色は見飽きている。スマホをいじるのもなんだか間抜けだと思い、なんとなく人間観察を始めた。
メインの年齢層は二十代後半から五十代くらいか。男女比はほぼ一対一。高校生以下の乗客は少ない。どの方向を見ても、寝ている乗客、スマホをいじっている乗客の両方が目に入る。平日の電車だと、スーツ姿のサラリーマンが多く乗っているが、今日はカジュアルな服装の男女が目立つ。
そんな中、一人の女性が目に止まった。年の頃は二十五、六といったところか。身体の線は細く、髪は長い。黒いストッキングに包まれた細い脚は、しかしながらメリハリがあり美脚。顔のパーツは整っているのだけれど、化粧が下手なのか、青白く精気のない印象を受ける。よほど疲れているのか、座席に座り、頭を窓にあずけ、上を向いて眠っている。折角の美人が、なんとも間抜けな姿を晒しており、もったいないなぁと眺めていたら、最初は閉じられていた唇が徐々に開いてきた。
最初はキスをしたくなるような蠱惑的な唇であったが、徐々に上下の唇が離れていった。まず微かに白い歯が覗き、やがて底の見えぬ闇をたたえた洞が現れた。綺麗な顔の中に突如と現れた漆黒の穴を見ていると、なんだ怖くなってきた。怖いのだが、目を離せない。電車の揺れに合わせて揺れる洞に目を奪われているうちに、ある疑念が湧いてきた。
「この女性(ひと)は、実は死んでいるのではないか」
一度そう思うと、その青白い顔や、電車の揺れに合わせて揺れる身体や、漆黒を湛える口や、その細い手脚が、「死」という事象に強烈なリアリティを与え始めた。髪は垂れ下がり、眼窩は落ち窪み、肌は潤いをなくし、肉は削げ落ち、皮の張り付いた骸骨が現れるような気がしてきた。休日朝の明るい陽の光はすでに陰り、どんよりと、重く、湿った空気が、定員一六〇名の鉄の箱に満ち満ちていく。
気付くと、襟足の辺りを冷たい汗が伝っていた。
ふと、死んだ女性の隣の、五十代くらいのご婦人が目に入ってきた。彼女も死んでいた。反対側はどうだ。三十代の男性は今まさに本のページをめくっている最中である。生きている。その隣は……生きている。その隣は死んでいる。生きている、生きている、死んでいる、生きている、死、生、死死、生、死死生生生死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死……っ!!
死に支配された鉄の棺桶に揺られる自分の姿を妄想し、ポケットからハンカチを取り出し、額に浮かんだ脂汗を拭った。目を閉じ、大きく深呼吸を一つ。ゆっくりと目を開けるとそこは、当然、陽の光が差し込み、小気味良く揺れる電車の中であった。
最初の、あの綺麗な女性に視線を戻すと、いつの間にか目を覚まし、スマホで何やら確認しているようであった。
それはそうだ。当然彼女は死んではいない。それはただの妄想で、実際に、そんな滅多なことで、電車の中が死で満ちたりはしない。そんなことは分かっている。ただの思考実験でお遊びだ。隣のご婦人は相変わらず眠り続けているし、反対側の男性も本を読み続けている。なべて世は事もなし、だ。
しかし、彼女は私の中で一度死んだ。死とは何か。肉体的な死が死の全てでは無いとするならば、彼女は一度、僕の精神の中で死に、蘇ったことは確定的な事実だ。死のうちより復活した彼女は救世主(メシア)なのか。彼女には、同じ時間、同じ場所に偶然居合わせた僕の目を奪う程度の求心力(カリスマ)はあるかもしれない。しかし、それは、彼女が他人より容姿に優れているというだけのことであり、彼女に世界の救済を求めるようなものではない。そうなると彼女はリビングデッド……ゾンビであるというのか。私はふと、哲学的ゾンビについて思い出した。
哲学的ゾンビとは「物理的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」と定義されている(**)。哲学的ゾンビは我々人間とは区別がつかない。泣いたり、笑ったり、怒ったりする。我々人間と「哲学的ゾンビ」について議論を行うこともできる。物理的化学的電気的反応として我々人間と全く区別がつかないし、区別がついた時点でそれは哲学的ゾンビではない。では哲学的ゾンビを哲学的ゾンビたらしめているものは何か。それは意識、クオリアのの有無だ。哲学的ゾンビにはクオリアは無く、彼らの反応はただの物理的化学的電気的反応の集合であり、彼らは意識、クオリア、経験、感覚を持ちあわせていないのである。
彼女が哲学的ゾンビであるならば、私がそれを認識した時点で彼女は哲学的ゾンビではない。彼女が死のうちから復活したというのであれば、それは我々人間と同じ物理的化学的電気的反応ではないので哲学的ゾンビではない。しかし、私の、意識、クオリアが、彼女の死を観た。彼女の復活を観た。その死は、精神の死であり、肉体の死と切り離して考えられる。彼女の肉体が、未だに物理的化学的電気的反応を行っているのは、それは精神世界での死であるためであり、定義に反しない。しかし、私が彼女を哲学的ゾンビであると認識した点の定義への矛盾は拭えない。
ならば彼女は「ただの」ゾンビだ。彼女の死は観測され、状態は収束した。肉体は、未だ死なず、物理的化学的電気的反応の集合体としての生を得て、休日の午前中、鉄の棺桶に揺られ移動するゾンビと成った。
周りを見渡すと、すでにゾンビの群れの中であった。物理的化学的電気的反応を返すオブジェクトたち。個々の個体は複雑な入力に対して、なんらかの出力を返却するファンクションである。彼らは人間のように動き、人間のように生活し、人間のように死ぬ。ただそれだけのゾンビだ。
暇を持て余した私の意識が大量虐殺を始めた。神の子は死のうちより三日目に復活したとされるが、ゾンビたちは死んだそばから復活していく。あっという間に私の目に入る範囲の全ての人間はゾンビへと成った。
ゾンビたちを乗せた鉄の棺桶は、定刻通りに静かに駅へと到着する。目的も知らぬゾンビ達は、己の物理的化学的電気的反応に従い、電車を降り、それぞれの目的地らしき場所へ向かって移動する。そんなゾンビの群れにまじり、私は電車を降りた。
西口改札を出て、大学病院を目指す。喧騒の街を歩く間に、意識の中からはゾンビたちに関する記憶は徐々になくなり、やがて完全に忘れてしまう。
誰が私の事をゾンビではないと言えようか。私の意識、経験、感覚……クオリアもまた、物理的感覚的電気的反応にすぎないかもしれないというのに。
しかし、そんなことはどうでもいい。
まずは目の前の血液検査の結果を踏まえ、ダイエットすることの方がよっぽど大事だからだ。ダイエットを始める前に、たらふく焼き肉でも食っておこう。そう、思った。
[出典]
** http://ja.wikipedia.org/wiki/哲学的ゾンビ
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