くだんのばか
木野目理兵衛
一人の科学者と一人の物書き、一人の酪農家の親父に一匹の件――この部屋の中に存在している生きとし生ける者達の中で主要な者達を上げるならば、まぁ大体こんな所だ。
ただし最後の一匹に関しては、本来ならば過去形を用いねばならない所である――何故と言って、今やそれは息を引き取っており、詰まる所、死んだ件であるからだ。
だがしかし、その件こそ、正にこの部屋の、この一件の中心であるからには、今もまだ生きているかの様に語った方が――少なくとも、生きていたという事実を添えて語った方が――この異形の益獣に対するある種の畏敬が感じられて、余程良いに違いない。もとい、見窄らしい室内の、見苦しい片隅の台の上の、見目麗しいとは到底言えない、牛なるスフィンクスの――寧ろスフィンクスこそ、獅子なる件と称する事が、この場の礼儀であると言えよう――赤児の死骸等、誰が見ていて愉しいものか。気持ちが悪い。
付け加えるなら、その唇はむっつりと閉ざされていて、そこから何らかの意味ある言葉が吐き出されるとは到底見えないのだから、せめて、生きとし生ける者達の中に列挙してやるのが、人情でもある筈だ――尤も、生きていた時間と死んでいる時間とを比較した場合、明らかに後者の方が長い事を考えると、それを件の生態と捉え、過去形を用いない事に対しての弁明とする事は可能だろうし、そもそも息をしていた時にすら、彼は――そう彼なのだ、去勢する暇も要も無く――何も話はしなかったのだが。
そう言う話である――当時(数日前)集まって見ていた人々に曰く、戦慄と期待の眼差しを一身に、母牛の下、藁の上で、本能めいてよたよたと立ち上がった件は、その醜く歪みつつ何処か見覚えのある――野次馬の一人は、周囲の信仰心に配慮した極々控えめな表現として、ジョニ・デの架空の新作と評した――相貌に皺を寄せながら、乳袋にしゃぶりつくでも無くその口を大きく開けて――開けて――それで終わりだったという。まるで欠伸でもする様な調子で開かれた唇は、そのままパタリと閉ざされ、次の瞬間には体の方もバッタリと倒れ伏し、最早二度と、身動ぎする事は無かった――母牛は、モゥ、と啼いたそうだ。
そう言う話である。
だが、それで終わりと言う訳には行かない。
人々が戦慄と共に期待してわざわざ待っていたのは、件の口から、何らかの意味ある言葉が、端的に言えば予言が告げられると知っていたからであり――そう言う話なのだ――それを聞く為に、取るものも取らず集まって来たというのに、何も語られないのだとすれば、これは酷い裏切りに他ならない。一体全体何の為に、こんな獣の土壇場ショーに付き合ったというのだ。気色が悪い。
だからこそ、人々の招きに従って、一人の科学者が、その一匹の件の元へと訪れたのだ。希臘本家の――と言っても、正確にはそいつも元を辿れば埃及からの輸入物ではあったけれど――件のスフィンクスが、旅人に対して謎々を与える習性がある様に、現れ出た沈黙に関する何か真っ当な解答を導き出す為に。喰われた後ではもう遅いのだ。
一人の物書きは、そんな科学者の後を追って、誰に請われるでも無く自ら姿を現した。次の作品の為のネタ集めとして、と言う理由だったが、実際の所それは嘘で、本音を言えば、取材を口実とした休暇が欲しかったのである。それから旨い物だ。牧場なのだし何かあるだろうと、彼は考えていた。招かれざるという意識は微塵も無かった。
一人の酪農家の親父は、請われもしなかったし、そもそも訪れもしなかった。件の母牛は彼が飼育していたのだ。言うなれば、件の父と呼んでも過言では無く、ならば此処に居るのが当然と言えよう――その本心は兎も角として。
その他諸々の人々に関して――多くは、こんな胡散臭い怪獣等一顧だにしなかった。世の中にはもっと考えるべき一件があると、只の迷信と捉えたのである。逆に残りの少ない方、そうと捉えていない者達、例えば、科学者を呼んだ者達の関心と言えば、件では無しに予言の方であり、過程なんかどうでも良い。役者を壇上に上げてしまうと、彼等はそそくさと幕外に消えた。弁えを知っていたのである。
そして一匹の件は生きていたが、今は死んでおり、この部屋の、この件の中心として片隅の方に寝転がっている。
考察と対話は、この様な中で行われた。
件が、一見すると何の予言も与えずに、その短い一生を終えたとするのは――と、最初に口にしたのが科学者である――観測の誤りであると言わざるを得ない。何故なら、彼は確かに口を開け、群衆へ向けて何事かを告げようとしていたのだから。言葉が発せられなかったのは、未来がその様な状況だからに違いない。即ち、言語道断の恐るべき災厄か、旧い規範を全て引っ繰り返す飛躍が待ち構えているのだろう――さもなくば、件が実は件で無いかだ、と。
物書きの解釈は、これとは全く別であった――無口だからと言って、その件としての人格を――失礼、件としての件格を無為に攻撃するのは如何なものか、と彼は一応紛いなりにも、習作がてらメモを取り取り、口にする――その冒頭はこんな書き出しだった、『一人の科学者と一人の物書き、一人の酪農家の親父に一匹の件』云々――誰にだって、喋りたく無い時はあるだろう。それがたまたま、喋った方が良い局面であっただけの事。そこから能力の是否を問う事は出来ず、だからこそ、その成果の中身を推し量ろうとする試み等、ナンセンス以外の何物でも無い。事実はただ一つ。件は喋らなかった。それ以上でも以下でも無い。
そんな態度では一生解答なんて出て来ないでは無いか――と、科学者が言う。そんな態度だから例の件だって解決出来ないんだ――と、物書きが返す。あの件を持ち出す事こそ非道である――とは科学者の言い分であり、碩学の徒が道徳を気にする等――とは物書きの言い分だ。
二人の意見は尽く異なり、まるで平行線を辿り続けていて、ある意味で、非常に息の取れた遣り取りだった。その為に揃ったのでは無いかとすら思える程だったが、これは全くの偶然であるし、また予言だってされていない。
そんな二者の間に居る酪農家の親父はと言うと、彼は黙した侭何も語らなかった。両腕は硬く組み合わせられ、その唇はむっつりと閉ざされている――本心を言えば、さっさと帰って貰いたかったが、とても言える雰囲気では無い。
そうして、そんな三者の片隅に居る、生きていたが今は死んでいる件と言えば、やはり黙した侭何も語らなかった。生きていたが今は死んでいる件なので、これは仕方が無い事だろう――仮に逆だとしても、結果は何も変わらないが。
三人と一匹との間で、言葉はその様に消えて行く。
何処か外で、モゥ、と啼く声が聞こえた――きっと母牛だろうが、確かにそうとは言い切れない。誰も、その姿を見ては居ないのだから――それと同じくして、科学者と物書きの論題も、中身を覗くかどうか、死骸を解剖するかどうか、という方面へと移って行く――是とするのは物書きで、否とするのは科学者だ。それは総体としての本質的な、主体を何処に置くのかという、船乗りか何かの問題で、つまり、解体された件は果たして件と言えるのかどうか、という疑問だった。そうした所で結局は、只の人間の――便宜上ジョニ・デの――頭と、只の牛の体――今更だが、それはジャージー種のものだった――に分かたれるだけで、真相は何も判明しない所か、貴重な研究素材を失う事になりはすまいか、いや、器官を観ればその失陥が解る様に、その脳髄やら何やらを垣間見る事が出来れば、件に纏わる言語機能や予知機能を把握する事が可能であろう、そうだとしたら何を恐れる事がある、それが谷に突き堕とす事になろうと、科学の為ならやるべき事だ――云々かんぬん。
議論は此処でも紛糾し、やはり収まる事も無く――最終的には、酪農家の親父のわざとらしい咳払い、生きていたが今は死んでいる件のわざとらしい黙りもあって、別の科学者、別の物書きに意見を請う所でやっと一時の落着となった。二人共、これ以上の説なんて出したくとも出ず、更に、解剖する技術も実際無いのだから致し方無い――ただしどちらも、世間の人々にそんな事をしている暇が無い等と、露とも思っていない点に於いては、始めて見解の一致を示していたけれど、それは暗黙の了解の内側である。
こうして言葉は漸くとばかりに費やされ、三人と一匹との間に、真に重苦しい沈黙が訪れる事と相成った――例外は一つだけ。何処か外から聞こえて来る、モゥ、という啼き声ただ一つ――きっと母牛だろうが、確かにそうとは言い切れない。誰も、その姿を見ては居ないのだから。
件の一件はこの様にして、一先ず幕を閉ざすのだった。
ただし最後の一匹に関しては、本来ならば過去形を用いねばならない所である――何故と言って、今やそれは息を引き取っており、詰まる所、死んだ件であるからだ。
だがしかし、その件こそ、正にこの部屋の、この一件の中心であるからには、今もまだ生きているかの様に語った方が――少なくとも、生きていたという事実を添えて語った方が――この異形の益獣に対するある種の畏敬が感じられて、余程良いに違いない。もとい、見窄らしい室内の、見苦しい片隅の台の上の、見目麗しいとは到底言えない、牛なるスフィンクスの――寧ろスフィンクスこそ、獅子なる件と称する事が、この場の礼儀であると言えよう――赤児の死骸等、誰が見ていて愉しいものか。気持ちが悪い。
付け加えるなら、その唇はむっつりと閉ざされていて、そこから何らかの意味ある言葉が吐き出されるとは到底見えないのだから、せめて、生きとし生ける者達の中に列挙してやるのが、人情でもある筈だ――尤も、生きていた時間と死んでいる時間とを比較した場合、明らかに後者の方が長い事を考えると、それを件の生態と捉え、過去形を用いない事に対しての弁明とする事は可能だろうし、そもそも息をしていた時にすら、彼は――そう彼なのだ、去勢する暇も要も無く――何も話はしなかったのだが。
そう言う話である――当時(数日前)集まって見ていた人々に曰く、戦慄と期待の眼差しを一身に、母牛の下、藁の上で、本能めいてよたよたと立ち上がった件は、その醜く歪みつつ何処か見覚えのある――野次馬の一人は、周囲の信仰心に配慮した極々控えめな表現として、ジョニ・デの架空の新作と評した――相貌に皺を寄せながら、乳袋にしゃぶりつくでも無くその口を大きく開けて――開けて――それで終わりだったという。まるで欠伸でもする様な調子で開かれた唇は、そのままパタリと閉ざされ、次の瞬間には体の方もバッタリと倒れ伏し、最早二度と、身動ぎする事は無かった――母牛は、モゥ、と啼いたそうだ。
そう言う話である。
だが、それで終わりと言う訳には行かない。
人々が戦慄と共に期待してわざわざ待っていたのは、件の口から、何らかの意味ある言葉が、端的に言えば予言が告げられると知っていたからであり――そう言う話なのだ――それを聞く為に、取るものも取らず集まって来たというのに、何も語られないのだとすれば、これは酷い裏切りに他ならない。一体全体何の為に、こんな獣の土壇場ショーに付き合ったというのだ。気色が悪い。
だからこそ、人々の招きに従って、一人の科学者が、その一匹の件の元へと訪れたのだ。希臘本家の――と言っても、正確にはそいつも元を辿れば埃及からの輸入物ではあったけれど――件のスフィンクスが、旅人に対して謎々を与える習性がある様に、現れ出た沈黙に関する何か真っ当な解答を導き出す為に。喰われた後ではもう遅いのだ。
一人の物書きは、そんな科学者の後を追って、誰に請われるでも無く自ら姿を現した。次の作品の為のネタ集めとして、と言う理由だったが、実際の所それは嘘で、本音を言えば、取材を口実とした休暇が欲しかったのである。それから旨い物だ。牧場なのだし何かあるだろうと、彼は考えていた。招かれざるという意識は微塵も無かった。
一人の酪農家の親父は、請われもしなかったし、そもそも訪れもしなかった。件の母牛は彼が飼育していたのだ。言うなれば、件の父と呼んでも過言では無く、ならば此処に居るのが当然と言えよう――その本心は兎も角として。
その他諸々の人々に関して――多くは、こんな胡散臭い怪獣等一顧だにしなかった。世の中にはもっと考えるべき一件があると、只の迷信と捉えたのである。逆に残りの少ない方、そうと捉えていない者達、例えば、科学者を呼んだ者達の関心と言えば、件では無しに予言の方であり、過程なんかどうでも良い。役者を壇上に上げてしまうと、彼等はそそくさと幕外に消えた。弁えを知っていたのである。
そして一匹の件は生きていたが、今は死んでおり、この部屋の、この件の中心として片隅の方に寝転がっている。
考察と対話は、この様な中で行われた。
件が、一見すると何の予言も与えずに、その短い一生を終えたとするのは――と、最初に口にしたのが科学者である――観測の誤りであると言わざるを得ない。何故なら、彼は確かに口を開け、群衆へ向けて何事かを告げようとしていたのだから。言葉が発せられなかったのは、未来がその様な状況だからに違いない。即ち、言語道断の恐るべき災厄か、旧い規範を全て引っ繰り返す飛躍が待ち構えているのだろう――さもなくば、件が実は件で無いかだ、と。
物書きの解釈は、これとは全く別であった――無口だからと言って、その件としての人格を――失礼、件としての件格を無為に攻撃するのは如何なものか、と彼は一応紛いなりにも、習作がてらメモを取り取り、口にする――その冒頭はこんな書き出しだった、『一人の科学者と一人の物書き、一人の酪農家の親父に一匹の件』云々――誰にだって、喋りたく無い時はあるだろう。それがたまたま、喋った方が良い局面であっただけの事。そこから能力の是否を問う事は出来ず、だからこそ、その成果の中身を推し量ろうとする試み等、ナンセンス以外の何物でも無い。事実はただ一つ。件は喋らなかった。それ以上でも以下でも無い。
そんな態度では一生解答なんて出て来ないでは無いか――と、科学者が言う。そんな態度だから例の件だって解決出来ないんだ――と、物書きが返す。あの件を持ち出す事こそ非道である――とは科学者の言い分であり、碩学の徒が道徳を気にする等――とは物書きの言い分だ。
二人の意見は尽く異なり、まるで平行線を辿り続けていて、ある意味で、非常に息の取れた遣り取りだった。その為に揃ったのでは無いかとすら思える程だったが、これは全くの偶然であるし、また予言だってされていない。
そんな二者の間に居る酪農家の親父はと言うと、彼は黙した侭何も語らなかった。両腕は硬く組み合わせられ、その唇はむっつりと閉ざされている――本心を言えば、さっさと帰って貰いたかったが、とても言える雰囲気では無い。
そうして、そんな三者の片隅に居る、生きていたが今は死んでいる件と言えば、やはり黙した侭何も語らなかった。生きていたが今は死んでいる件なので、これは仕方が無い事だろう――仮に逆だとしても、結果は何も変わらないが。
三人と一匹との間で、言葉はその様に消えて行く。
何処か外で、モゥ、と啼く声が聞こえた――きっと母牛だろうが、確かにそうとは言い切れない。誰も、その姿を見ては居ないのだから――それと同じくして、科学者と物書きの論題も、中身を覗くかどうか、死骸を解剖するかどうか、という方面へと移って行く――是とするのは物書きで、否とするのは科学者だ。それは総体としての本質的な、主体を何処に置くのかという、船乗りか何かの問題で、つまり、解体された件は果たして件と言えるのかどうか、という疑問だった。そうした所で結局は、只の人間の――便宜上ジョニ・デの――頭と、只の牛の体――今更だが、それはジャージー種のものだった――に分かたれるだけで、真相は何も判明しない所か、貴重な研究素材を失う事になりはすまいか、いや、器官を観ればその失陥が解る様に、その脳髄やら何やらを垣間見る事が出来れば、件に纏わる言語機能や予知機能を把握する事が可能であろう、そうだとしたら何を恐れる事がある、それが谷に突き堕とす事になろうと、科学の為ならやるべき事だ――云々かんぬん。
議論は此処でも紛糾し、やはり収まる事も無く――最終的には、酪農家の親父のわざとらしい咳払い、生きていたが今は死んでいる件のわざとらしい黙りもあって、別の科学者、別の物書きに意見を請う所でやっと一時の落着となった。二人共、これ以上の説なんて出したくとも出ず、更に、解剖する技術も実際無いのだから致し方無い――ただしどちらも、世間の人々にそんな事をしている暇が無い等と、露とも思っていない点に於いては、始めて見解の一致を示していたけれど、それは暗黙の了解の内側である。
こうして言葉は漸くとばかりに費やされ、三人と一匹との間に、真に重苦しい沈黙が訪れる事と相成った――例外は一つだけ。何処か外から聞こえて来る、モゥ、という啼き声ただ一つ――きっと母牛だろうが、確かにそうとは言い切れない。誰も、その姿を見ては居ないのだから。
件の一件はこの様にして、一先ず幕を閉ざすのだった。
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