荒れ地の賢者

鰐屋雛菊

 生まれて初めての船旅であった。故郷の島をあとにしてはや十日。いきなり麻袋をかぶせられたときは、さすがの吾輩も相当に慌てたものだが、今はこの思いがけない旅をそれなりに楽しんでおる。かどわかしを働いたる不埒者どもの目的は不明なれど、甲板にごろりと放り出されたときには周囲一面みわたすかぎりの青、碧、蒼で、わが運命もはや俎上の魚であると悟った。ところが待てど暮らせどなにも起こらず、過ぎゆく日々に無聊をなぐさめるすべもなし。こうら干しをしたり昼寝をしたりの、のんべんだらりな毎日である。
「十日も飲まず食わずだってのに元気そうだな。大したもんだよ。船長の言ったとおりだ」
 そして今日も今日とて上天気、風はそよ吹き波はおだやかなり。朝の陽ざしに背中がじんわりとあたたかくなる頃には、ふたたび眠気がおしよせる。それを邪魔するのは奴だ。目前にたちはだかる黒革の長靴はくたびれ気味で、はためく外套のすそは重々しく、風にさらわれまいと目深にかぶるつば広の帽子もすべてが黒の黒ずくめであった。
「どうかすると一年くらい食わなくても生きられるそうじゃないか。みんなお前がうらやましいって言ってるぜ」
 こやつ名をテンスイと言い、船内で吾輩にかまう唯一の人物である。しかしてこちらは拉致監禁ならぬ拉致軟禁されておる身なれば、船員にあらずと思しき風貌いでたちの者であろうと油断はできぬ。
「俺もうらやましいよ。船の飯は最悪だからな」
 こちらの心情を知ってか知らずか、テンスイはすぐ隣にしゃがみこみ歯をむいて見せる。どうやらこれは友好の意思表示らしい。
「しっかし参った。お前に近づくなって言われた理由が、ようやくわかってきたよ」
 そしてなれなれしく吾輩の背中をたたいた。
「このまま航海が順調なら、お前を食わずにすむかもしれない。そしたら俺が買い上げてやるから心配すんな」
 また歯をむく。いま何と言ったか。食わずにすむ? 吾輩を?
「吾輩を食うとな!」
「うわあ! しゃ、しゃべった、カメがしゃべった!」
 腰を抜かしたテンスイの指摘ではじめて気づいた。
「む……何と。吾輩、いつの間に話術を会得したのか」
「俺、夢でもみてんのかな。お前はカメだよな。なんでしゃべれるんだ。しかも心なしかえらそうだし」
「いや、そんな瑣末事どうでもよろしい。それより吾輩を食うとはまことか」
「どこが瑣末だよ!」
「吾輩の生き死ににくらべれば瑣末であろう!」
〈そうです そのとおり!〉
 出しぬけにひびきわたった声は清澄なるも力強く、ひっきりなしの波の音や船体のきしみをものともしない。およそ甲板に居合わせたる者すべてが、その発信源をもとめて空をあおぎ、海原を見わたした。
〈われの領域で 陸の賢者が 命を落とすなどと あっては ならぬことです〉
 高らかな宣言とともに、船がぐらりと大きく傾いだ。下層甲板から水夫どもが、すわ何事ととび出してくる。だがその威勢も事態を知るまでであった。
 波間から出現したるは、帆柱をもしのごう高みまでそびえ、陽光を浴びてウネウネぬらぬらと身をくねらせておる。誰も彼もが阿呆のように、あんぐり口をあけたまま立ちつくすばかり。それほどに圧倒的な存在であった。
「総員、戦闘配置につけえぇい!」
 茫然の次におこりうるだろう恐慌状態に先んじて号令を発したるは、それぞれ片方ずつが眼帯に鉤付きの義手と木の義足の虎ヒゲ船長である。この怒号に全員が背筋をのばすやかけ出した。見事かなと感心してしまうも、すぐさまわれに返る。
「待て待て、ならんならん」
 船長のひとつしかないぎょろ目玉と目が合う。
「なんでえ、カメ公。おめえしゃべれたのか」
「うむ。だがそれは瑣末なことだ。船長よ、あちらのお方に攻撃をしかけてはならん。あの方は海の神様である」
 正確には海の神様の触腕の一本であるが、それこそ瑣末であろう。船長はぎょろ目を細めて、ウネウネのぬらぬらと吾輩を交互に見た。
「神様だあ?」
「あのゲソが?」
 口をはさんだのはテンスイだ。
「無礼者め。海の神様はイカではなくタコだ。吸盤の形状をよく見よ」
「それ、力説するほどのこと? てか、知り合いなの?」
「知り合いならちょうどいいや。おめえから丁重にお引き取り願いやがれ。砲弾もただじゃあねえからな」
 吾輩もかの君の尊容を拝するは、まだ二度目である。あれはチャールズさんが亡くなって間もなくのことだった。
 チャールズさんは、荒れ地ばかりの吾が故郷の島に住んでいた、たった一人の人間である。嶮崖の上のあばら屋にて吾輩は、チャールズさんと彼の愛犬ビーグル号と暮らしておった。長の年月をともにしたが、やがてビーグル号が死にチャールズさんも死に、吾輩だけが残った。そんなある日、崖の向こうから巨大な軟体動物の一部と思われるものが現れたのだ。いまと同じように。
「船長、戦闘準備ととのいました!」
 水夫頭の報告に、船長がそのまま待機と命じる。猶予ならんと吾輩は目一杯首をのばし、声をはりあげた。
「雄大なるお方にして、大海原を統べる王よ。ふたたびお目にかかれて光栄に存じまする。しかして此度の唐突なるご光臨、いかなるご意向にございましょう」
「うひょー。カメのくせに大した口上じゃねえか」
「あんたよりまともにしゃべるよな」
 黙れ、としっぽを振った。どうやら通じたらしい。
〈そなたを さがしていたのです 無事で 何よりでした 荒れ地の賢者レインよ〉
 吾輩が驚くよりさきに、甲板上はおおいにざわついた。
 海の神様によれば、チャールズさんは賢者の一人であったと言う。そして吾輩はチャールズさんの後継者なのだそうだ。これこそとつぜん人間の言葉を解するようになった原因であった。
〈陸の賢者に ひき継がれてきた 叡智は 陸の 生命でなければ 継承できません ここで あなたの 命が 尽きれば その叡智は 露と 消えて しまうのです〉
「俺っちどもじゃあ、役不足かよ」
 不平というよりどこか面白がっている調子の船長に、海の神様はこともなげに、そうだと断言される。
〈絶対では ありませんが もともと ニンゲンは 賢者に 不向きです 妄念が 強すぎるのです この船に 役目を 果たせる者は 一人も いないでしょう 賢者チャールズは 希有な 存在でした〉
「我々が賢者の命をうばったら、どうなりますか」
 そしてテンスイのこの問いに神様は、こう答えられた。そんなことは起こらないと。起こってはならないことであり、決して起こさせないと。それはそれは慈悲深いお声であった。

 船長が吾輩の身の安全を保証し、海の神様は水底へと帰ってゆかれた。その日の午後。
「よお、レイン。お前こういうの食う?」
 くたびれた黒革の長靴と重そうにゆれる外套のすそ。差し出されたのは干し果物だ。粘りのあるかたい果肉はかめばかむほど甘味がひろがる。実に船に乗せられてより、はじめてありついた食物であった。
「お前さ、これからどうすんの」
 さて、と吾輩は空をあおぐ。快晴である。
 ただのカメであった頃の吾輩は、チャールズさんの言葉が理解できなかった。だがいよいよ最期のときの、白いひげにおおわれたくちびるの動きだけはおぼえている。
 れいんよ このせかいは うつくしい
「この世界はうつくしいだろうか」
 ぽつりつぶやくと、テンスイは歯をむいて見せる。
「それはお前が自分で見てたしかめるがいいさ。なんなら俺といっしょに旅するかい」
 思えば妙な男である。妙な縁である。だがこの提案はなかなか魅力的に思えた。表情筋も歯もない吾輩はだから、できるだけ軽妙な調子で言おう。
 吾輩を食わぬと約束するならば、と。

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