結び目

ヤマダ

 薄暗かった階段にぼんやりとした光が現れた。最上階の行き止まり、屋上へ続く扉の擦りガラスから零れている。     
 ポケットからじゃらじゃらと鍵束を取り出しながら思わず溜息が出る。
 
 子供が屋上で遊んでいるので止めさせて下さい。
 管理人室の前に備え付けられた掲示板に貼ってあった匿名の投書。正直言って、これを見つけた時の気分は最悪だった。私がこのマンションの管理人を始めてから十数年、騒音問題もご近所トラブルも一度も無く、そういう類の厄介事とは無縁でいられるとすっかり思い込んでいたのだ。
 鍵束の中から屋上の扉の鍵を見つけ出し、鍵穴に差し込み捻る。がちゃりと錠が外れた。やはり閉まっている。
 子供なんている訳がない。そう知りつつもここまで来てしまったのは、住人を安心させる証拠が必要だからだ。

 最近、この町はおかしな事ばかり起きている。
 南区の住宅地では空から何匹もの猫が降り、東区にある駅前の巨大な広告用テレビには何の前触れもなく「おわり」という文字が10分ほど流された。西区の大通りでは周辺の歩行者用信号機が一斉に「とおりゃんせ」を合唱し、北区の学校密集地帯でも一晩のうちに全ての通学路に「けんけんぱ」の要領で規則的な円がチョークで落書きされていた。
 誰がどうやってやったのか、どうしてこんな不可解な事件を起こしたのか。警察が捜査するも手がかりは全く無く、犯人の目星さえつかないでいる。
 残るはここ中央区、しかもこのマンションの屋上は事件の起こった全ての地域を見渡せるほど高く、狙われる可能性もなくはない。
 とにかく、一度見まわって誰もいなかったと言って欲しいのだ。
 ドアノブを回し扉を押すと、一気に流れ込んだ光が眩しくて思わず目を閉じた。
 
 「やあ、御機嫌よう」
 聞こえるはずのない人の声に慌てて目を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
 がらんとした屋上のフェンス越しに見えたのは、見慣れた街並みの上を漂う鮮やかなバルーンの群れだった。マンションの上空にも幾つも浮かんでいる。
 本来ならデパートやパチンコ屋の屋上で見かけるそれは、地面に繋ぎ止めるはずの垂れ幕や綱から離れ気ままにゆっくりと空を渡っていく。
 結び目が解けたのだろうか。こんなに大量に?一体どこから?
 そして、フェンスにもたれ掛りながらこちらを見る奇妙な青年。シルクハットに燕尾服、背は低いが子供にも大人にも見える。確かなことはこのマンションの住人ではないという事だけだ。
 それよりもだ。どうやってここに入ったのだろう。
 予想もしない事態に動けないでいる私に、青年は眠たげな表情でにんまりと笑いかける。
 
 「凄いでしょ、これ」
 空を仰いで自慢するような青年の口ぶりに訳が分からず呆けた顔をしていると、青年は再び私に向き直る。
 「まあ、いいや。僕も十分楽しんだし今日で終わりだから」
 終わり。一体何のだろう、と考えたときに不意に新聞の写真で見た巨大なビジョンに浮かんだ「おわり」の文字が頭をかすめる。
 「もしや、駅前のいたずら騒ぎは君の仕業なのか?」
 私の問いに、ご名答、と青年の口は綺麗な三日月を結ぶ。
 「それだけじゃないよ。このバルーンだって、町を賑わせてる怪事件だって僕がやったんだ」
 まさか、と言いだしかけて思わず口をつぐむ。どうしてだろう、目の前に立つこの風変りな若者なら一連の不可解な現象を引き起こせるかもしれない、そう感じたのだ。
 「ならば何故、人々を不安がらせるような事をしたんだ」
 「意味なんか無いよ。あえて言えば、皆のため、かな」
 そこまで言うと、青年は軽業師のようにひょいとフェンスによじ登り、縁に腰掛ける。
 「あ、危ないからよしなさい」
 私はとっさに叫ぶが青年が降りる気配は全く無く、彼は私の反応を楽しむようににやにやと笑うばかりだ。
 「皆さ、心のどこかでは謎を求めてるんだよ」
 青年は恐れるそぶりも見せずに、器用にフェンスの上に立ち上がる。焦る私を嘲笑うかのように、彼の背後には青空とバルーンが牧歌的な画を作っている。
 「平穏な日々を望んでいるように見せかけて、心の奥底、それも自分でも気が付かないような所で退屈な日常から連れ出してくれる何かを待ち望んでいるのさ」
 「そんな訳がない。現に訳の分からないことばかり起こって、町中が不安と恐怖に包まれていたんだ」
 「でも、楽しかったでしょ?」
 どくん、と心臓が跳ねた。
 青年の言う通りだ。マンションの住人も町の人々も、口では恐い、迷惑だと言っているがその表情には等しくほんの少しの期待が滲んでいた。 
 意外にも、どの事件も実害はほとんどなかった。降ってきた猫たちは華麗に着地しすぐに逃げ去って行ったし、駅前のテレビも画面が元に戻った後は故障もなくいつも通り稼働している。信号機の合唱は車の運転手たちが驚き多少交通の麻痺はあったが怪我人も出ず数分で渋滞も解消された。落書きのあった通学路のある学生たちは誰の仕業とも分からない落書きを消さなければならないという手間はあったが、文句を言うどころか何やら楽しそうだったと聞く。
 次は何が起こるのか、誰が何のためにやっているのか。噂と憶測がどこかしこで飛び交い、不可解な事件を密かに楽しみにしている背徳感が皆あったはずだ。
 私だって、かつて学生だった頃に口裂け女や人面犬のような怪しげな都市伝説を怖がる反面わくわくしながら聞いていた、あの微かな高揚感を覚えたのは事実だった。
 
 「謎っていうのは誰かにその存在を気づいて貰わなければ謎になり得ないんだよ。一度でも謎に気づけば解かずにはいられない。僕の仕事は謎を結ぶことなんだ」
 青年は私を見据えたまま大きく手を広げた。
 「それじゃあ、最後の謎と行こうかな」
 そう言うや否や、青年は何の躊躇いもなく後ろに倒れこむようにフェンスの外へ落ちて行った。

 「何てこった」
 あまりに呆気ない身投げに一瞬思考が止まったが、事の重大さに気づき一気に血の気が引く。青年が落ちて行ったフェンスに駆けより急いで真下を覗き込む。
 眼下には遥か彼方にミニチュアのような駐車場があるだけだった。今しがた落ちたはずの青年の姿はどこにも見当たらず、バルーンの丸い影が水玉模様を作るばかりだ。
 ほっとしたのも束の間、途端に背筋が凍りつく。

 やはり、彼が怪事件を引き起こしていたのは本当だったのかもしれない。このマンションの屋上からなら町全体を見渡せる。謎を仕掛けるのに最適な場所を探すのにもってこいだったのだろう。
 しかし、だ。ふと、頭の中に疑問が浮かび上がる。
 誰が、屋上に彼がいることを教えてくれたのだろうか。
 屋上には鍵がかかっていたし、彼は鍵がかかった状態の屋上に現れることが出来たのだからマンションの住人に見かけられるとは考えにくい。それに、このマンションの高さでは外から屋上の様子を知ることはできない。

 謎は、誰かに気付いてもらえなければ謎になり得ない。
 頭の中で謎が結ばれるのを感じた。
 同時に頭上で派手な破裂音がし慌てて真上を見上げると、色とりどりの紙吹雪が私へと降り注ごうとしている所で、それはまるで謎が生まれたのを祝福するかのように華々しいものだった。

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