トワ
竜胆
街から遠く、深い森の中に魔法使いが一人、そして一体の少女が暮らしていた。
「フィーユ、食事中に本を読むのはよしなさい」
男は向かいに座る少女、フィーユを静かにたしなめた。その言葉は怒気を孕んでいなかったが、真正面に見据えられたフィーユはしゅんと肩を落として、静かに閉じた本を手のつけられていない食事の横に置く。いただきますと一声。少女がスープを口にすると、男も食事を再開した。
「なにか夢中になるような話だったのかい」
問いかける男に向かって微笑んで頷くと、フィーユは本に手をのせ、優しく、そっと撫でる。
「見たことのない動物がたくさん描かれているんです。どの子もみんな可愛くて」
この森には住んでいないのかしら。最後にそう呟いて、フィーユは食事に手を戻す。
窓の外はうっそうとした陰気な森だ。動物の気配はあっても、それはきっとフィーユの望むものではないだろう。恨みがましく森を眺めたいた男は、ふと窓辺に置かれた写真立てに目をやった。中身はないが、男の眼は焼き付いた残像をそこに捉えていた。
「フィーユ。次に街へ行ったときは、森から繋がる道をそのまま東へ、市場を抜けて街外れに向かってみなさい」
口を動かしながら目を瞑り、頭に街並みを描いているであろうフィーユに、男は以前に訪れたことのある牧場について話して聞かせた。もう何年も前のことだが、確かにあそこにはたくさんの動物がいたのを覚えている。薄れていく情景、動物と戯れる少女。今にも家を飛び出さんばかりに落ち着きをなくすフィーユ。瞳を輝かせる二人の姿が重なる。
「ペールと一緒には」
勢いをなくして、言い淀んだ言葉。机の上に身を乗り出していたフィーユは口元をきゅっと真一文字に結んで、沈むようにして椅子に座りなおした。
ペールと呼ばれた男は、その呼び名に違和感を覚えると同時に、フィーユのもとからもう一人の少女の姿が失われていることに気付く。フィーユは決して男を名前以外では呼ばない。決して、お父さんと呼ぶことはない。あの少女のように。たとえ娘のように接していたとしても。
食事が終われば、ペールはまっすぐに私室へ向かう。一日の大半を過ごす、たくさんの書物に囲まれたその部屋の中で、普段は見上げてばかりの身体は小さく、丸めた背中には空気が重くのしかかっているようにさえ思えた。魔法という言葉をおとぎ話の中でしか知らないフィーユにとって、ペールが苦しげに行う大事な研究の中身など知る由もなければ、手伝うことなど到底できそうにもなく、ただほんの少しでも休息を与えてあげたいと、身の回りの世話をするのが精一杯だった。
翌日、フィーユは夜遅くまで読み耽っていた本を片手に抱え牧場へ向かった。朝食をとってすぐ、ペールも珍しく私室へは急がずにフィーユを見送り、森がその姿を隠すまで軒先に佇んでいた。
朝市を初めて訪れたフィーユはその人の多さ、喧騒に気圧されていた。細い体で器用に群衆の隙間を縫いながら、まだ見ぬ絵本のなかの動物たちとなにをして遊ぼうか、期待に胸を膨らませ小走りに市場を抜けて行った。
「あの子が噂の人形なのね。わたし初めて見たわ」
「何度か見たことあるが、しかしよくできた人形だな」
「あそこまで精巧な人形、そうはいないそうよ」
「研究途上で不完全なものだって聞いたけど」
「なんにせよ、人形に愛情を注ぐだなんて魔法使いってのは変わりもんが多いのかね」
牧場はもうすぐだというのに、跳ねる心臓は背にしたざわめきの中に落としてきたのか、フィーユは不思議と落ち着いていた。注がれる好奇心の眼差し。とめどなく流れてくる情報。魔法使い。人形。そして愛情。手持ちの本を胸元に抱えなおして、動物よりも今はペールに会いたくなっているということに気付きながらも、疲れた身で送り出してくれた姿を思い出していた。楽しかった話をすればペールも楽しそうに聞いてくれる。そのことをフィーユは知っている。
本に描かれた動物すべてがそこにいたわけではなかったが、牧場主から多くを聞き、そして多くの直接的な触れ合いでフィーユの見地は広がる。豊富な蔵書からなる読書量と、そしてなによりも、ペールに頼りにされたいと思うが故の知的好奇心をフィーユは高く持っていた。
味わい方を忘れつつある食事も時間だけは待ち遠しい。ペールと面と向かって話せる貴重な時間。日の入り前に帰宅してからというもの、夕食までの間、フィーユはそわそわと落ち着きなく、書棚から適当に選んだ本を取ってみては、読むというよりは眺めるだけで、ただ、愛という単語を見つけるたびにページをめくる手を止め、前後の文章を繰り返し読み解く。しかし、最初から熟読する必要があるのか、もしくは読解力が足りないのか、フィーユがいくら頭を悩ましても自身の理解する言葉に置き換えることはできず、時計を何度も眺めては溜め息を漏らしていた。ペールが私に注いでくれる愛とはなんなのだろう。脳内で呟いてみると、フィーユの胸は痛みもなく締め付けられた。
「ペール、愛とはなんですか」
突然のフィーユの質問に、ペールは食事を喉に詰まらせ咳込んだ。昨晩、牧場の話を聞いていた時よりもずっ熱量のある、それでいて不安に揺れる眼差しに、耐えられなくなって逃避するように、グラスを覗きこんで質問の意図をじっと考えこんだ。視界の端にうつる瞳の輝きが示すものは、憧憬でも羨望でもないように思えるが、ただ一個人の意見に興味があるのならなんと答えたものか。珍しく答えに詰まるペール。一方のフィーユも、正面を見据えつつも唇に手をやり、固唾を飲んで言葉を待った。きっとどの本にも答えは載っていない難題を提示してしまったのだと、悩みを増やしてしまったことにフィーユが後悔し始めたとき、ペールは語尾を濁しながらも紡ぐように語りだした。
「誰もが共有できる明確な答えを、残念ながら私には、分からない。けれどフィーユ。君もどことなく感じるものがあるのだろう。物語の登場人物それぞれに、想い、感情があるように」
不明瞭で的を得た回答ではなかったが、内心で自問自答を繰り返していたペールにはそれが限界であり、フィーユもまた質問を重ねることはなかった。面と向かえる貴重な時間であるということも揃って忘れ、いつものような問答が食卓を賑わすこともなく、黙々と食事を喉に通す。無味乾燥な時を刻んでひとしきり、愛の意味を咀嚼していた二人は、互いの空になった皿を見やり顔を見合わせた。
「フィーユにとっての愛とはなんだい」
ごちそうさまの言葉に続いて投げかけられたその問いかけに、フィーユはおもむろに唇を開くが声が出ず、答えを待たずして私室に急ぐペールの背中を見つめて口をつぐんだ。食卓を片づけた後も、淀んだ部屋の外から、今にも崩れ落ちそうなペールの背中をしばらく眺めていた。いつにも増して疲弊しているその後ろ姿に近づくこともできず、不甲斐なさのあまり溢れだしそうになる涙をフィーユは必死に堪えていた。立ち去る前に漏れてしまう嗚咽。ゆっくりと振り返ったペールは優しい笑みを浮かべて、フィーユのもとへとそっと歩み寄る。力なく頭に添えられた大きな手のひら。支えることすら叶わない小さな拳を握って、フィーユはとめどなく涙を流した。
「次の休日には一緒に牧場へ行こうか」
フィーユを抱き寄せながら、撫でるような声色でペールは囁く。愛とはなにか。戸惑いはもうない。少女の影はもう見えなくても、フィーユの体温を感じるだけで、ペールの心は満たされていた。
翌朝、フィーユがペールの私室を訪ねると、淀んだ空気の壁はもうなく、足を踏み入れるのに躊躇するこはなかった。机に突っ伏したままペールは眠っているようで、後ろ姿からでも容易に想像できた苦悶に満ちた表情はそこにはなく、解き放たれたように安らかな、深い眠りのようだった。
研究もひと段落ついたのかもしれないと、フィーユは胸を撫で下ろし、そして、近く見える休日に想いを馳せ、その日が来るのを待ち続けようと誓う。それが私にとっての愛なのだと。
華奢な体躯が悲鳴をあげても、ペールの寝顔を眺めているだけで、フィーユの心は満たされていた。
「フィーユ、食事中に本を読むのはよしなさい」
男は向かいに座る少女、フィーユを静かにたしなめた。その言葉は怒気を孕んでいなかったが、真正面に見据えられたフィーユはしゅんと肩を落として、静かに閉じた本を手のつけられていない食事の横に置く。いただきますと一声。少女がスープを口にすると、男も食事を再開した。
「なにか夢中になるような話だったのかい」
問いかける男に向かって微笑んで頷くと、フィーユは本に手をのせ、優しく、そっと撫でる。
「見たことのない動物がたくさん描かれているんです。どの子もみんな可愛くて」
この森には住んでいないのかしら。最後にそう呟いて、フィーユは食事に手を戻す。
窓の外はうっそうとした陰気な森だ。動物の気配はあっても、それはきっとフィーユの望むものではないだろう。恨みがましく森を眺めたいた男は、ふと窓辺に置かれた写真立てに目をやった。中身はないが、男の眼は焼き付いた残像をそこに捉えていた。
「フィーユ。次に街へ行ったときは、森から繋がる道をそのまま東へ、市場を抜けて街外れに向かってみなさい」
口を動かしながら目を瞑り、頭に街並みを描いているであろうフィーユに、男は以前に訪れたことのある牧場について話して聞かせた。もう何年も前のことだが、確かにあそこにはたくさんの動物がいたのを覚えている。薄れていく情景、動物と戯れる少女。今にも家を飛び出さんばかりに落ち着きをなくすフィーユ。瞳を輝かせる二人の姿が重なる。
「ペールと一緒には」
勢いをなくして、言い淀んだ言葉。机の上に身を乗り出していたフィーユは口元をきゅっと真一文字に結んで、沈むようにして椅子に座りなおした。
ペールと呼ばれた男は、その呼び名に違和感を覚えると同時に、フィーユのもとからもう一人の少女の姿が失われていることに気付く。フィーユは決して男を名前以外では呼ばない。決して、お父さんと呼ぶことはない。あの少女のように。たとえ娘のように接していたとしても。
食事が終われば、ペールはまっすぐに私室へ向かう。一日の大半を過ごす、たくさんの書物に囲まれたその部屋の中で、普段は見上げてばかりの身体は小さく、丸めた背中には空気が重くのしかかっているようにさえ思えた。魔法という言葉をおとぎ話の中でしか知らないフィーユにとって、ペールが苦しげに行う大事な研究の中身など知る由もなければ、手伝うことなど到底できそうにもなく、ただほんの少しでも休息を与えてあげたいと、身の回りの世話をするのが精一杯だった。
翌日、フィーユは夜遅くまで読み耽っていた本を片手に抱え牧場へ向かった。朝食をとってすぐ、ペールも珍しく私室へは急がずにフィーユを見送り、森がその姿を隠すまで軒先に佇んでいた。
朝市を初めて訪れたフィーユはその人の多さ、喧騒に気圧されていた。細い体で器用に群衆の隙間を縫いながら、まだ見ぬ絵本のなかの動物たちとなにをして遊ぼうか、期待に胸を膨らませ小走りに市場を抜けて行った。
「あの子が噂の人形なのね。わたし初めて見たわ」
「何度か見たことあるが、しかしよくできた人形だな」
「あそこまで精巧な人形、そうはいないそうよ」
「研究途上で不完全なものだって聞いたけど」
「なんにせよ、人形に愛情を注ぐだなんて魔法使いってのは変わりもんが多いのかね」
牧場はもうすぐだというのに、跳ねる心臓は背にしたざわめきの中に落としてきたのか、フィーユは不思議と落ち着いていた。注がれる好奇心の眼差し。とめどなく流れてくる情報。魔法使い。人形。そして愛情。手持ちの本を胸元に抱えなおして、動物よりも今はペールに会いたくなっているということに気付きながらも、疲れた身で送り出してくれた姿を思い出していた。楽しかった話をすればペールも楽しそうに聞いてくれる。そのことをフィーユは知っている。
本に描かれた動物すべてがそこにいたわけではなかったが、牧場主から多くを聞き、そして多くの直接的な触れ合いでフィーユの見地は広がる。豊富な蔵書からなる読書量と、そしてなによりも、ペールに頼りにされたいと思うが故の知的好奇心をフィーユは高く持っていた。
味わい方を忘れつつある食事も時間だけは待ち遠しい。ペールと面と向かって話せる貴重な時間。日の入り前に帰宅してからというもの、夕食までの間、フィーユはそわそわと落ち着きなく、書棚から適当に選んだ本を取ってみては、読むというよりは眺めるだけで、ただ、愛という単語を見つけるたびにページをめくる手を止め、前後の文章を繰り返し読み解く。しかし、最初から熟読する必要があるのか、もしくは読解力が足りないのか、フィーユがいくら頭を悩ましても自身の理解する言葉に置き換えることはできず、時計を何度も眺めては溜め息を漏らしていた。ペールが私に注いでくれる愛とはなんなのだろう。脳内で呟いてみると、フィーユの胸は痛みもなく締め付けられた。
「ペール、愛とはなんですか」
突然のフィーユの質問に、ペールは食事を喉に詰まらせ咳込んだ。昨晩、牧場の話を聞いていた時よりもずっ熱量のある、それでいて不安に揺れる眼差しに、耐えられなくなって逃避するように、グラスを覗きこんで質問の意図をじっと考えこんだ。視界の端にうつる瞳の輝きが示すものは、憧憬でも羨望でもないように思えるが、ただ一個人の意見に興味があるのならなんと答えたものか。珍しく答えに詰まるペール。一方のフィーユも、正面を見据えつつも唇に手をやり、固唾を飲んで言葉を待った。きっとどの本にも答えは載っていない難題を提示してしまったのだと、悩みを増やしてしまったことにフィーユが後悔し始めたとき、ペールは語尾を濁しながらも紡ぐように語りだした。
「誰もが共有できる明確な答えを、残念ながら私には、分からない。けれどフィーユ。君もどことなく感じるものがあるのだろう。物語の登場人物それぞれに、想い、感情があるように」
不明瞭で的を得た回答ではなかったが、内心で自問自答を繰り返していたペールにはそれが限界であり、フィーユもまた質問を重ねることはなかった。面と向かえる貴重な時間であるということも揃って忘れ、いつものような問答が食卓を賑わすこともなく、黙々と食事を喉に通す。無味乾燥な時を刻んでひとしきり、愛の意味を咀嚼していた二人は、互いの空になった皿を見やり顔を見合わせた。
「フィーユにとっての愛とはなんだい」
ごちそうさまの言葉に続いて投げかけられたその問いかけに、フィーユはおもむろに唇を開くが声が出ず、答えを待たずして私室に急ぐペールの背中を見つめて口をつぐんだ。食卓を片づけた後も、淀んだ部屋の外から、今にも崩れ落ちそうなペールの背中をしばらく眺めていた。いつにも増して疲弊しているその後ろ姿に近づくこともできず、不甲斐なさのあまり溢れだしそうになる涙をフィーユは必死に堪えていた。立ち去る前に漏れてしまう嗚咽。ゆっくりと振り返ったペールは優しい笑みを浮かべて、フィーユのもとへとそっと歩み寄る。力なく頭に添えられた大きな手のひら。支えることすら叶わない小さな拳を握って、フィーユはとめどなく涙を流した。
「次の休日には一緒に牧場へ行こうか」
フィーユを抱き寄せながら、撫でるような声色でペールは囁く。愛とはなにか。戸惑いはもうない。少女の影はもう見えなくても、フィーユの体温を感じるだけで、ペールの心は満たされていた。
翌朝、フィーユがペールの私室を訪ねると、淀んだ空気の壁はもうなく、足を踏み入れるのに躊躇するこはなかった。机に突っ伏したままペールは眠っているようで、後ろ姿からでも容易に想像できた苦悶に満ちた表情はそこにはなく、解き放たれたように安らかな、深い眠りのようだった。
研究もひと段落ついたのかもしれないと、フィーユは胸を撫で下ろし、そして、近く見える休日に想いを馳せ、その日が来るのを待ち続けようと誓う。それが私にとっての愛なのだと。
華奢な体躯が悲鳴をあげても、ペールの寝顔を眺めているだけで、フィーユの心は満たされていた。
閲覧数:1801