光立つ丘、雲を食む竜

ヤマダ

 丘に光立ちし時、草原に強き雨降り注ぐ
 雨は幾度となく地を濡らし、民を苦しめんとす
 汝ら、天に救いを求めるべく塔を立てよ
 さすれば竜が現れ雲を食らい尽くすであろう

 ようやく弱まった雨がぱたぱたと布天井を叩く。
 広大な草原地帯の真ん中で雨の匂いを嗅いだ時はどうしたものかと思ったが、通り雨が酷くなる前にここに辿り着けたのは不幸中の幸いだった。遊牧民特有のテントに似た移動式住居は見た目よりもずっと広く、水気を多く孕んだ空気が羊毛の匂いを濃くする。
 「雲医者様は、この伝説をどう思われますかな?」
 古びた羊皮紙を前に、快く一晩の宿を許してくれた髭を蓄えた老人が彼女に語りかける。
 「医者など大層なものではありませんよ。私はしがない流浪の浮雲ですわ」
 雲医者の言葉に、今まで躊躇いがちだった周りの視線が一気に集まる。この好奇の目も彼女はすっかり慣れてしまった。褐色の肌に黄金の瞳、何より左目を口に見立てて彫られた唇を模した深紅の刺青は嫌でも人目を引く。
 再び、羊皮紙に目をやる。この地に伝わる古からの伝説。古めかしい文字の横には大木をまとめて作った簡素な塔と、空へと舞い上がる蛇に似た生き物が描かれている。
 ヒツジの毛で作った織物を生活の糧にしている彼らにとって、突然訪れた激しい通り雨の季節は死活問題なのである。乾燥したこの地域で育つ牧草には、多すぎる雨は毒にしかならない。そこで、彼らは藁にもすがる思いで古くからの言い伝えを頼りに竜を呼ぶ祭りの準備をしているのである。男たちは塔を作るために草原の端にある普段は立ち入れない聖なる森から木を切り出し、女たちは竜に捧げるための食事を作る。残されたのは祭りの準備に参加するには若すぎる子供たちと、年老いた老爺だけだった。
 「この、塔の飾りは何ですの?」
 「竜神様を模した飾りで代々私の家に受け継がれているものです」
 老人は戸棚へ歩み寄ると、木箱を大切そうに抱えてきて彼女の前で開けてみせる。
 言い伝えでは竜神様のための目印だと言われています。そう言って取り出したのは銅で出来た風見鶏に似た飾り細工だった。余程使い込まれているのか、煤で黒ずんでいる。
 「明日、塔を建てる際にこれを取り付け祭りが行われるのです。果たして本当に竜神様は来て下さるのじゃろうか」
 老人と子供たちが不安そうな顔で彼女を見つめる。
 雲医者は飾りを手に取り、何かに気付いたように微笑む。
 「ええ、必ず竜は現れますわ」
 彼女の言葉に、医者様がそう言われるなら安心ですな、と老人は笑みを浮かべ子供たちからは歓声が上がる。ただ一人、部屋の隅にいる少年だけが雲医者をじろりと睨みつけていた。

 まるで、降ったばかりの雨が天へと帰っていくようだった。幾筋もの光の線が地中から立ち上り空に吸い込まれていく様子を丘の上で雲医者は眺めていた。少し離れた所にある広場では言い伝えに書いてあったように長い丸太を束ねただけの簡素な塔が立てられている最中である。
 「あんた、魔女なんだろ」
 雲医者が振り向くと、そこには昨夜自分のことを睨みつけていた少年が立っていた。
 「あら、あなたはお祭りには行かないの」
 「竜なんている訳ない。適当なことを言って皆を騙そうとしているんだろ」
 少年の怒りに満ちた目が雲医者を真っ直ぐに捕える。彼女はこの視線にも慣れていた。天候を予見し自然の知識を豊富に持つ雲医者は、生き物だけではなく作物の病や異常気象までも治療する貴重な存在だ。しかし新たな薬を作るために薬草や鉱物を求めて放浪する彼らを、怪しげな術を使う悪魔や魔女だと忌み嫌う人も少なくはない。
 雲医者は少年に微笑みかけ、光の柱に手を差し入れる。
 「ほら、これを見て」
 少年に小型のルーペ型顕微鏡を手渡し光から引き抜いた手を向ける。
 覗き込んだ少年は思わず悲鳴をあげる。掌の上には、何十匹ものまるでガラス細工のような蜘蛛が蠢いていたのだ。雲医者が蜘蛛を乗せた手を空へかざす。すると彼女の手からも光が立ち上り、空へ消えていった。
 「このアマダレモドキという蜘蛛はとても軽くて、自分で天に向かって糸を放ち上昇気流と共に空へと昇るの」
 通り雨の原因は彼らの異常発生ね、と彼女は言う。
 「空に昇ったアマダレモドキは雲を作っている水滴を糸で固定し、細くて丈夫な巣を張るの。そうして巣に水滴が集められて浮いていられないくらい大きくなると雨が降る。この雨に乗って彼らはより遠くへ行こうとするのよ」
 すっと影が差す。いつの間にか丘の真上にでは分厚い雲がむくむくと育ち、太陽を遮り光の道を途絶えさせた。
 もうすぐ竜が来るわ。塔へと歩き出す彼女を少年は慌てて追いかける。

 雲医者と少年が塔へと辿り着いた時、辺りはすっかり黒い雲で覆われ、低い雷鳴に怯えたヒツジたちが喧しく鳴く。
 流石に信じる気になったのか、少年が期待と不安の混じった視線を寄越す。
 「心配しないで。竜はちゃんと来るわ」
 雲医者は塔の天辺、老人が持っていた飾りがある辺りをじっと見据えている。
 竜を待つ人々にゆっくりと雨が降り始めたあたりだろうか、ぱっと青白い光が塔の天辺で瞬いた。同時に轟音と共に凄まじい衝撃と閃光が辺りを襲う。

 誰かの叫びにつられて塔を見ると、雷に打たれ黒ずんだ塔から音を立てて炎が立ち上っていた。
 「これじゃあ竜が呼べない」
 砂糖を焦がしたようなやけに甘い匂いの中、青い顔をする少年に雲医者は微笑みかける。
 「大丈夫、これでいいのよ。ほら、耳を澄ませて」
 少年は雲医者に言われた通り耳に意識を集中させる。人々の喧騒とヒツジの騒ぎ声とごうごう唸り燃える炎。そして、雷に似たぐるぐるというくぐもった音。それは普段立ち入ることの禁じられた森の方向から近づいてくる。
 「おい、竜神様が来て下さったぞ」
 人々は皆一様に目を丸くする。森から滑るようにこちらに向かってくるそれは、鳥のような嘴と愛らしい目をした、塔と同じくらいの大きさであろう羽毛の生えた蛇だった。
 「あれは仙鳥と言う竜の一種よ。雲を食べて生きているから仙鳥。でも実際は雲の中のアマダレモドキを食べているの。ただ翼が無いからあまり飛ぶのは上手くなくて、強い上昇気流に乗らなければ空に昇れない」
 確かに、目の前に現れた竜は空に昇ることもなく、ぐるぐると唸りながら雨によって火の弱まった塔の周りを旋回している。
森に入るのを禁じられているのは恐らく仙鳥の住処を荒らさないためだろう。平地に高い塔を立てれば雷が落ち、木は燃え上昇気流が生まれる。落雷の轟音とアマダレモドキが焼ける甘い匂いで仙鳥を誘い出すことには成功したが、強すぎる雨のせいで竜が飛ぶだけの熱気が足りないのだ。

 「そうね、これは一宿一飯の恩よ」
 雲医者の独り言に少年が振り向いた時だった。唇型の刺青に縁どられた左目の瞳が炎のように真っ赤に煌めく。
 同時に、消えかかっていた塔の炎が青く伸びあがる。熱風に人々が驚く中、仙鳥はここぞとばかりに塔を軸に螺旋を描くように空へと昇っていった。
 呆気にとられたように人々は空を見上げていたが、ばくばくと雲を食む竜の頭が幾度か見えたのを最後に、空を覆っていた分厚い雲は消え、後には晴天だけが広がっている。竜の姿も幻だったかのように消え失せ、燃え尽きた塔だけが白い煙を上げていた。

 「あんた、やっぱり魔女だったんだろ」
 竜神の救いに感謝を込め再び祭りが盛り上がってきたころ、乗ってきたハシリガラスに荷を預け、人知れず旅立とうとする雲医者に追ってきた少年は叫ぶ。
 「いいえ、私はただの浮雲よ」
 彼女はいたずらっぽく左目をつむる。真っ赤な唇の刺青がくすりと笑った。

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