砂秒の繋

哲壱

 夏の名残りを留めた汗ばむ陽気に惑わされ、僕たちはついつい学校に長居をしていた。
 教室の窓から空が茜に染まっているのが見える。放射にのびた雲の縁が山吹色に光っている。遠くでカラスの仲間を呼ぶ声が聞こえる。黒板の上に掲げられた時計の針は、約束の時間を少し過ぎたところを指している。
「来週はお中日だからおじいさんのお墓参りに行くよ」と、今朝お母さんが言っていたことを思い出す。そりゃあ日が短くなるわけだ、と僕は思う。吹き込む風がどことなく秋の憂いを孕んでいることに、その時はじめて気が付いた。
 僕の隣で紀子が「きれい」と呑気に目を輝かせている。
「そろそろ帰らないと」
 その一言に紀子は顔を上げ、じっと僕の顔を見つめてきた。その目はまだ帰りたくないと静かに訴えている。できることなら僕だってもっとこうしていたい。でももう帰らなければいけない時間だ。こうしている間にも、時速一七〇〇キロメートルのスピードで地球は明日に向かって回転している。夜になるのなんかあっという間だ。
 もう一度「行こう」と促すと、紀子は諦めたように小さく頷いて重い腰を上げた。
 紀子とは小学校から同じ学校に通っていたが、異性として意識しだしたのは中学に上がってからだ。二人の距離が近づいたのは、二年のクラス替えで一緒のクラスになったことがきっかけだった。そして夏休みの間に、そうなることが当たり前のように、自然と僕たちは付き合うようになった。周りの友達は誰も知らない。二人だけの秘密。
 廊下に出て階段を下りる。その僅かな時間だけで辺りはまた一歩夜へと近づいていた。
「ちょっと寒いね」
 陽が落ちた後の空気は秋のそれだった。紀子は腕をくっつけてきたが手は繋がない。二人の関係を進展させたい気持ちで一杯なのに、こうしてさりげなく体を寄せ合うことが今の僕の精一杯だった。もういっぱしの大人のつもりでいるくせに、好きな子と手を繋ぐことさえできずにいる。やろうと思えばいつでもできるんだと言い訳をしながら、一歩前に足を生み出すことを先延ばしにしている……。
 いつもの通学路を、少しだけ遠回りして彼女の家の前まで二人で歩く。それが僕らのささやかなデートコースだった。
 住宅地の細い道を抜けて環状七号線に出ると、僕たちは体を離した。車の排気ガスに煤けたつつじの葉だけでは、逢瀬をしのぶには覚束ない。
 緩やかな坂道を下って玉電の線路を通り過ぎる。信号待ちをしている緑色の車体を尻目に、僕たちは横断歩道で通りの向こう側へと渡った。そして再び裏路地へと潜り込むと、また寄り添うように腕をくっつけた。この辺りは道幅が四メートルに満たない狭あい道路に囲まれた、都内でも屈指の住宅密集地だ。一つ裏道に入っただけで車の通りも、人目も、極端に少なくなる。
 閑散とした細径を行くと右手に石段が現れる。これを登りきると彼女の家はもうすぐそばだ。僕と紀子は別れを惜しむように、ゆっくりと石段を登った。
 その時『それ』に気が付いた。
「どうしたの?」
 足を止めてそれを見ている僕に、紀子が不思議そうに聞いてきた。
「いや、あれ、なんだろうと思って」
 紀子が僕の視線の先に拘泥を探す。でも彼女にはそれを見つけることができない。
 石段を昇り切ったぎりぎりのところに小さな建物が建っている。それが僕の違和感の正体だ。薄汚れた木造モルタルの、くたびれたただのアパートのようにも見える。しかし絶対アパートなどではないと一目で看取することのできる拠所がそこにはあった。あまりに日常的な景色だったために、その違和感に今まで気付かずにいたのだ。
「あの建物がどうかしたの」
「何か変じゃないか」
 紀子にはその奇妙さがわからないようで「どこが?」といって僕の意図を探るような目で見つめてきた。
 例えばそれは、食卓の味噌汁が左側に配膳されているような、そんな違和感だった。気になる人は気になるし、気にならない人は気にならない。僕は前者で、紀子は後者なのだ。
「ほら、あの扉」
 正面に扉が七つある。建物なのだから扉があるのは当たり前だが、それがすき間なく連続していた。
「ずいぶんくっついてるね」
「あれじゃあ中の部屋は扉の幅しかないってことだよね」
 扉の間口は大体五〇センチから一メートルほど。その幅で人が生活するのは現実的ではない。
「倉庫かなんかでしょ」
「あれじゃあ狭すぎて倉庫としての使い勝手も悪いだろ」
「中で一つに繋がってるんじゃない」
 確かにそうであれば中には十分なスペースを確保できるだろう。しかし、それでは扉があれほど密着している疑問を解消することはできない。
「確かめてみよう」
「え?」紀子はうろんな表情でいう。「何のために? そんなことしてもしょうがないじゃん」
 何のためにと問われても、ただの好奇心としか答えようがない。そんなことしてもしょうがないといわれたら、何としてでも中を確かめずにはいられなくなった。
「ちょっと見てみるだけだって」
 躊躇している紀子を伴って扉の前に立った。そこに表札の類はかかっていない。部屋番号もない。窓がないので中の様子は窺えないが、人の気配は感じられなかった。
「やめたほうがよくない?」
 頭上の街灯が照らし出したのは、紀子の呆れ顔だった。僕はそれにそれに気づかないふりをして、七つある扉の一つ、一番手前のドアノブを握った。夜気に晒されたそれは想像以上に冷たく、心臓をきゅっと掴まれたような気がして僕の気持ちを萎えさせた。僕は動揺を悟られないように、思い切りドアノブを引いた。
 ガツンと錠前のデットボルトが受座にぶつかる音が響く。
「鍵かかってるね」
 冷めきった紀子の一言に、僕のモチベーションもかじかみそうだ。だがもう後に引くことはできない。
「一応もう一つ確かめてみよう」
 僕は隣の扉を同じように引いてみた。やはり結果は同じだった。もう一つ、と更に隣のドアノブを握ったとき、突然中から物音が聞こえた。まるで巨大な時計の秒針が時を刻んでいるような、低く規則的で、不吉な音だった。
 人の足音だ。中に誰か人が居たのだ。それがこっちに近づいてきている。
「逃げよう」
 言うが早いか、二人で駆け出した。
 運動靴でアスファルトを踏みつけ、一歩、また一歩と加速度を増して前へと進む。身体は驚くほど軽く、どこまででも走っていけそうに思えた。気がつくと僕たちはお互いの手を握り合い、しっかりと一つに繋がっていた。あれほど越えることが難しかった一線をあっさりと越えてしまうと、今まで思い悩んでいたことの空疎さに堪らず噴き出してしまう。さっきまで呆れていた紀子も、今は一緒になって声を出して笑っていた。もう戸惑いや恐怖などは必要ない。あとは真っ直ぐ前に進むしかないのだ。僕はその時、大人になる踏ん切りがついたような、そんな気がした。

 あれから四半世紀が過ぎた今、俺はまたこの場所に立っている。あの謎の建物はもうここにはない。街並みも、ここで暮らす人達も、随分と様変わりをした。東京に情景を抱いて他所からやってきた人達が、今のこの街の住人だ。彼らに押し出されるようにして、少なくない数の友人が地元から離れていった。人も、街も、昔のままではいられない。
 今にして思うと、あの時に感じたほど道は平坦ではなかった。あの日に見つけたはずの明日は、いつの間にか見失ってしまった。でも、あのドアノブの冷たい感触が、硬く堅牢な鍵の存在が、今でもこの手のひらに残っている。
 俺は思う。あの時の一瞬、一秒が砂のように重なり積もって、今の俺に繋がっているのだと。それを手にすくうことはできないかもしれない。けれど、少しずつ堆積したそれが、今の俺を支えていることを感じることはできる。そして、この瞬間も明日のお前に繋がっていくのだと、今も俺に訴えているのだ。

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