壺を割る(前編)

立花招夏

 壺を割ろう、と思った。
 一抱えもある大きなその壺を、木っ端微塵に割って、そうしたら、何かを変えられるんじゃないか、と……。そう思った。

 壺は桐の箱に入っていた。白地に青い絵柄。樹下に人がいて、犬らしき動物がいる。共に戯れている風景は、和やかで少しユーモラスだ。
 私に割られることも知らずにのんきな壺だと、私は薄く嗤う。

 私はこの壺を、とあるお婆さんから百万円で買い取った。
 百万円。リッチな人にとっては端(はした)金かもしれないが、私にとっては結構な大金だ。たぶん、そのお婆さんにとってもそうだったんだと思う。
 病に倒れて入院したご主人の看病帰り、年輩の女性に呼び止められた。べったりと塗られた赤い口紅。馴れ馴れしく笑いかける口元からのぞく歯にもこびりついた紅。しゃがれた声の、押しが強い女だったという。あれよあれよという間に、怪しげな事務所に連れ込まれ、数人のつり上がった目の人たちに囲まれ、祟られているだの、先祖が怒っているだの、恐ろしげな言葉を浴びせられたのだそうだ。お婆さんはすっかり怖じ気づき、気づいたらこの壺を買うことになっていたという。
 いわゆる霊感商法というやつだ。
 私が初めて見たとき、そのお婆さんは駅のホームのベンチに座っていた。
 うつろな瞳。丸めた背中。膝の上には濃い紫色の風呂敷包み。それを抱き込む手はしわだらけで、小刻みにふるえていた。
 はじめ私は、それが骨壺なのだろうと思った。風で吹き乱れた白髪が、灰になった骨を連想させたからかもしれない。
 幾人かの通行人が、気になるそぶりでお婆さんの様子をちら見していく。一度目は私も通行人のひとりとして通り過ぎた。
 用事を済ませて駅に戻ったとき、お婆さんはまだそこに居た。気になって声をかけ、その身の上話を聞くこととなった。
 どうしたらいいのか分からない。家族に申し訳ない。このまま死のうかと思っていると、お婆さんは言って泣いた。
「あなたこれ、買ってくれない? 本当は百五十万だったんだけれど、百万でいいから」
「……」
 困惑する私に、お婆さんは泣き笑いの顔で首を振った。
「……あぁ、ごめんなさいね。虫のいい話だわよねぇ。本当にごめんなさい。今のは聞かなかったことにして頂戴」
 その時、私は手元に百万円の札束を持っていた。手が切れそうな、帯のついた札束だ。
 お婆さんの話は、実際タイミングが良すぎた。霊感商法と同じくらい胡散臭かった。まるで私が百万円を持っていることを知っていたかのようなタイミング。

 にもかかわらず、いかにも縁起の悪そうなその壺を買うことにしたのは、私が持っていたその百万円も、その壺に負けず劣らず縁起の悪いお金だったからだ。
 だから、どうでも良かったのだ。
 お婆さんの身の上話が本当だろうと、巧妙な詐欺だろうと、私は構わなかった。
 ただひたすら、どうでも良かったのだ。
 むしろ、買いますと言ったときのお婆さんの顔。信じられないこの娘、頭は大丈夫なのかしらといいたげな顔が、一見の価値ありだったと思う。
 人生で初めての壮大な無駄遣い。無駄は敵、ケチは美徳、ぼられるなど愚の骨頂、がモットーの私にしてみれば、気がふれたとしか思えない所業だった。
 実際、私は気がふれているのかもしれない。割るためだけに壺を買うなどと……。

 しかし勢いで壺を買い取ったものの、いざ割ろうとして私は途方に暮れた。
 これ、どこで割ろう。
 そこらの路上で割れば、不法投棄になってしまう。こんなことで法に引っかかるなど真っ平ごめんだった。
 しかし室内で割ろうにも、一人暮らしのアパートは解約済みで、もうない。
 仕方なく両親に相談した。
 怒られるかなと思ったけれど、百万円で壺を買ったことに、父も母も驚きはしたものの特に咎める言葉はなかった。ただ、家の玄関で割るのはやめてほしいとだけ言った。
 さもありなん。
 そのお金は、結婚式当日に、やっぱ無理。すまない、というメモ切れ一枚をペランと残して逃亡した結婚相手から慰謝料としてもらったものだったから。
 だから、すべてうま○棒になろうと、酒になろうと、それこそ壺になろうと、どうでも良かったのだ。
 両親もそうだったに違いない。

「割るのはやめて、リサイクルにでも出したら?」
 痛々しいものを見る目で、そう言ったのは妹だった。
 彼女は、私の結婚未遂以来、かつてないくらい優しくなった。とても親切にしてくれる。
 昔から私とは正反対、自由奔放で勉強が嫌いで反抗的で、両親を困らせてばかりいた妹は、もうすぐ母になる。結婚式は産んでから。いわゆるできちゃった婚。
 両親は困った困ったと言いながらも、初孫の誕生を心待ちにしている様子だ。
 笑顔で迎えられる未来の予定。
 まだ見ぬ初孫の一報は、真っ暗な夜空に浮かぶ月のようだった。
 いくら暗くて見えなくても、道はちゃんとそこにあって、続いているのだと私たち家族を照らしてくれている。
 お陰で、ショックのあまり呆けたようになっていた両親の目に光が戻った。
 妹がいて良かったと、私は生まれて初めて思った。
 しかも、妹は試着を含めて二度袖を通しただけのウェディングドレスを引き取ってくれるという。
 結婚式当日、嘆き悲しむ両親や、いたたまれない表情で慰める親戚や友人の言葉を聞きながら、こんなことなら、ドレスはレンタルにすれば良かったとガッカリしたものだが、妹がリサイクルしてくれるのなら、まぁ、買って良かったんじゃないだろうか。
 ついでに、私も誰かリサイクルしてくれたらいいのに……と、そう考えたところで、私はひどくショックを受けた。
 突然の婚約破棄に何のショックも受けていない自分に、ショックを受けていた。
 結局、私は彼を愛していなかったんだろう。

 だけど、この壺はちがう。リサイクルする気はこれっぽっちもなかった。
「リサイクルじゃ、意味がないんだよ」
 私は肩をすくめてみせる。
 どうでもいいお金で買ったとはいえ、どう扱ってもいいわけじゃなかった。
 だから、友人が提案した壺をゴミ袋に入れたまま割るというのも、なんだか違う気がした。
 私は木っ端微塵になる様を見たいのだ。
 そこで、私は壺を割る場所を探す旅にでた。
 貯金はある。時間もたくさんあった。
 私は職も辞していたから。

 ところが、私の旅はひどく難航した。
 どこで割るか、私は拘り過ぎているのかもしれない。
 最早、そんな場所など日本にはないのではないか、と思い始めたころ、さらに旅を厄介なものにする同行者が現れたのだった。

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