Beyond

朝森雉乃

 助走。
 手から肩に伝わる衝撃。
 跳ね上がる力に置いていかれまいと、熱く躍動する全身の筋肉。
 一瞬にして広がる大空。
 身を翻せば、はるか下にあるフィールド。
 そして、宙を翔るため、棒を思いきり突きはなす右手。
 僕は飛ぶ。
 たとえつかの間であろうとも、その瞬間はたしかに、僕は翼を持って飛んでいる。

「ふうん。それで、なぜこれがうちで役に立つと思ったの」
 机の向こうで履歴書をあおりながら、面接官が口ひげを揺らした。
「あのねえ。うちは食品会社なの。そりゃ、インターハイの銀メダルも、インターカレッジ入賞も、立派な記録だよ。でもね、飛びこみ営業って言うけど、うちは取引先の会社の二階の窓に直接飛びこんでいくわけじゃないの。そんな役に立たない能力を、得意げに自慢されてもね」
 メガネの奥から、心底退屈そうな視線が俺を刺してくる。
 この視線を受けるのは、四月に就活を始めてからのひと月で、もう五回目だった。歯ぎしりをこらえて、俺は唇のすき間から声を押し出す。
「私が申し上げたいのは、棒高跳の直接的な能力ではなく、むしろインハイやインカレへの切符を掴んだという――」
「ああ、はいはい。根性ありますよ。努力できますよってやつでしょう」
 口ひげ親父は半笑いで俺の言葉をさえぎった。
「でもね、だったらなんで優勝するまで努力してないの。優勝したかったんじゃないの。中途半端に我を通して、努力したつもりで、結果残せてないじゃない。一番困るんだよ、そういう部下」
 最近の子は皆そうなんだよね、と、あからさまにため息を吐かれると、圧迫面接と分かっていても、ついむきになってしまう。あとは、今までとなにもかも同じ、しどろもどろに口答えの応酬を重ねて、気づけば椅子を蹴っていた。
 そしてエレベーターで階を降りていく間に、頭に上っていた血が下がっていって、そのまま血の気が引くところまで行くのも、今までとまるで同じだった。
 なにをやっているんだ。就職する気あるのか。
 気落ちしながらカフェに入り、テラス席に座る。頼んだコーヒーは冷めるに任せて、道を歩く人々を眺める。冴えない男も、頭の悪そうな女も、スーツを着て歩いているからには、採用面接を通過したことがあるのだろう。余計な考えでさらに気が滅入る。
 しょげていても得はない。俺は次の予定を確認するために手帳を取り出した。品川の貿易会社で、十六時から面接。志望動機は、世界を繋ぐ仕事をしたいから。学生時代には、国境を越えるコミュニケーションであるスポーツに打ちこんだ。スポーツを通して培った国境関係なしのコミュニケーション力を、貿易にも活かしたい。
 昨夜考えた面接対策だったが、あまりの脈絡のなさに、目を疑わざるを得なかった。自分でさえ疑いたくなる志望動機に、面接官が感銘を覚えるわけがない。
 頭を抱えていたら、声をかけられた。
「紀本くんかい?」
 顔を上げると、そこに黒いスーツと赤いネクタイ、右手に就活用かばんという格好で、左手を振って挨拶する男がいた。顔つきは精悍で見覚えがあるが、どこか違和感があって、記憶と合わない。
「久しぶり」
 名前を思い出せないまま、俺もあいまいに挨拶を返した。彼は俺の向かいに腰を下ろすと、「紀本くんも就活なんだね」と、親しそうに目を輝かせた。
「てっきり、実業団に行くのかと思っていたよ」
 実業団、という言葉から、棒高跳の関係で知り合ったはずと推測して、ようやく違和感の正体に気づいた。ウェア姿しか見たことがない相手がスーツを着ているだけで、こうも印象が違うのだ。
 俺は苦笑いをもらした。今、最も会いたくない相手かもしれなかった。
「インハイで、お前に負けて金メダルを取れなかったんだ。実業団なんて行けやしないさ」
 鹿田朋輝。彼は、高校の時も大学の時も、陸上大会が開かれるグラウンドでだけ顔を合わせた、積年のライバルだった。いつも俺より数センチ上を跳び、三年次のインハイでは日本の全高校生のトップに立った天才だ。
 俺にも優勝経験があれば、さっきの面接も少しは違った展開だったと思うと、どうしようもなく情けなかった。
「鹿田こそ、オリンピックでも目指したらどうだ。インハイ金、インカレ銅の実力者なんだから」
 彼と話すと必ず憎まれ口を叩いてしまうのも、そんな劣等感からだった。
 それに比べて、鹿田は俺と話す時、いつも笑顔になる。俺がどんなに傷つけるようなことを言っても、そら恐ろしいくらいに穏やかな声が返ってきて、こっちが恥ずかしくなるのが常だった。
 今日返ってきた鹿田の言葉も、その冷静な口調だった。
「僕は脚を壊したから、もう棒高跳はできないんだ」
 風が吹いた。近くの街路樹から、テーブルに青いイチョウの葉が一枚落ちてくる。
 喉元で声が詰まった。突然の告白に戸惑って、気まずい沈黙をごまかそうとすすったコーヒーは苦かった。鹿田がイチョウの葉をつまみあげて、指でくるくると回す。俺はその動きを目で追うことで、鹿田の顔を見ないことにした。
「知らなかったよ」
「去年のインカレの後、練習の時にちょっとね。普段通りの生活には問題ない」
 雰囲気はいつも通りだった。しかし、それがかえって無理に平静を装っているように思えた。俺はもう一度コーヒーを口にした。
「だから就活してるのか」
 俺の声が震えているのは、コーヒーがぬるくて苦いせいだ、と思った。俺はカップの中に立つ黒い波紋をにらみつけた。鹿田は、大変だけどね、と、イチョウを持ったままの手で頭をかいた。
「航空会社に行きたいんだ」
「どうして」
「どうしてって、決まってるじゃない。飛ぶのが気持ちいいからさ」
 鹿田の口調が上調子になった。楽しくてたまらないといった風情だった。
「紀本くんなら分かるでしょ、棒高跳の一番高いところで、ぐーんって伸びて、ぱって手を離した時の、空を飛ぶ感じ。青空に向かって、まるで翼が生えたみたいでさ!」
 腕を広げて、声のメリハリを利かせながらまくしたてられた言葉は、俺の使う日本語と同じとは思えなかった。その指先で、イチョウはちぎれんばかりに速く回っている。
「もちろん、棒高跳と飛行機じゃ、細かいところは違うかもしれない。だけど、やっぱりあの感動、飛ぶっていう最高の嬉しさを、僕はたくさんの人に味わってもらいたくて」
 鹿田がイチョウの葉を投げた。葉は地面に落ちる前につむじ風に乗って、頭上に舞い上がった。それを見上げる鹿田の顔は、いつも通り穏やかに笑っていた。
「パイロットにでもなるつもりかよ」
 俺が皮肉を言うと、鹿田は明るく笑い声を上げた。
「そろそろ行かなきゃ。紀本くんは、就職してどうするの?」
 鹿田が席を立つ。俺も腰を上げることにして、手帳をかばんの奥にしまいこんだ。
「今、決まったところだ」
 そして、冷めたコーヒーを一息に飲み干した。苦さは腹の奥に消えた。鼻に通り抜けた芳香はさわやかだった。

 正直、あの時鹿田が言っていた感覚は、俺には分からない。結局、一番高いところにたどりついた人間にしか見えない景色がある、ということだろう。
 俺にとっての棒高跳は、いつだって、情け容赦のないバーを跳べるか跳べないか、その数センチの戦いをするものだった。
 だからこそ――
「本日の陸上部セレクション、合格者は一名のみ。紀本高志!」
「はい!」
 ――決めた。俺は飛ぶ。

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