歴史の終わりと最後の呪術師

諸林 瓶彦

 人は空を飛ぶことはできない。少なくとも、厳密なる法則に支配される物理空間において、機械に頼らずには、鳥のように、天使のように大空を舞うことはできない。
 俺は、原住民の村の長老にそう言った。人種差別するつもりはないし、原住民の文化をバカにしているつもりもない。独自の装身具や土器や日用品には、俺たち植民者が独力では決して発見できなかったであろう、不思議なオリジナリティに溢れている。だが、どんなに独自の世界観を持つ部族であっても、人は人だ。地球上に生まれた二足歩行の毛無猿に過ぎない。飛ぶための器官は備えていない。どんなに願っても、神話に根拠を求めても、飛べないものは飛べないのだ。だから、人は道具を使って飛べるふりをするのだ。だが、長老は鼻で笑った。お前たちは、精霊の森を壊し、機械の乗り物を使役し、川をせき止めて湖を作ることができるのに、肝心の人間自身については何も知らないのだな。原住民と俺たちは、今や敵対しつつあった。彼らは頑なに太古の暮らしを守り、生活を支援しようとした医者やその他のボランティアを拒み、時に殺したりした。原住民は俺たちの狙いを的確に把握していたのだ。都市なしでは生きられない存在に彼らを堕落させ、底辺の奴隷としよう、と。植民者の誰一人としてそんなこと口にしなかったけれど、誰もが暗黙のうちに望んでいた。一見親切な援助者のふりをして、原住民を支配下に置く手腕は次第に巧妙になり、今や森の半分は俺たちの支配下に入っていた。だって、俺たちに従えば薬や食料が簡単に手に入るんだから。なのに、目の前の長老は俺たちを拒んでいた。我々の生活にこれ以上立ち入ってくるのなら、大空へ飛び立ち、お前たちの住処を焼き払うだろう、と。もはや80歳を超えているであろう老人は、若者のように筋肉質な体と、長年の思慮が刻まれた皺だらけの顔を両立させていた。確かに、こんな目で睨まれたら信じてしまいそうだ。だが俺は、和睦の使者としてここに赴いている、決して気圧されてはならない。
 お前たちは知らないのだ。いや、忘れてしまっているのだ。心の中には、宇宙よりも広い天空が広がっているのだ。だが、多くの人は愚かにも心の内側に飛翔する術を失っている。だから、死を、静寂を受け入れることができない。お前たちの頭の中は、生への執着と、死をごまかすための音楽で溢れかえっている。確かに…確かにその通りだ。俺たちの都市は、下品な、幻覚パウダーのような雑踏と、死にたくないと叫ぶ声ばかりだ。死を恐れるあまり科学技術を発達させ、だが心はとうに死んでしまっているのかもしれない。この村の生き生きとした子供達の姿を見ると、そう思う。それでも、俺は長老の言うことを受け入れてはならないのだ。心の中を飛びまわれるというのなら、その証拠を見せてくれ。見せられるはずがないと確信していたから、そう言った。老人は俺の目をまっすぐに見つめてきた。まるで瞳孔の奥のかすかな動揺を見透かしているように。
 見せてやろう。わたしは誰の心でも解き放ってやることができるのだ。地響きがした。続いて、細かな石が地面に打ち付けられて跳ね回るような音。老人の目から、何か磁場のような、空間の歪みが生じたような気がした。その歪みが俺の眉間にまで迫ってくる。慌てて体勢を仰け反らせるが、逃れることができない。それは、俺の前頭葉から侵入し、脳の全体に広がった。ハッカのような冷たい何かが全身を駆け巡る。目の奥で火花が爆発する。周囲の風景が、囲炉裏が、老人の姿が、果てしない彼方へと遠ざかると同時に、重さが感じられるほど接近してくる。火花は大きくなったり、シャボン玉のように色が変化したりしながら、世界を侵食していく。唸り声が聞こえた。老人が、歌っている? 俺の体の質量がなくなった。
 真っ白な地面、果てしなく青い空。俺の影だけが黒い。遥か彼方の地平線付近は彩度が落ち、赤い粒のようなものが波打っている。驚愕のあまり、体が麻痺したように動けなくなってしまった。どこだ、なんだここは、俺は死んだのか、幻覚を見ているのか?
「ここはお前の心の中の世界だ」
 老人の声がした。だが、俺の眼の前に立ちはだかったのは灰色の衣服を身にまとった正体不明の人物だった。顔を隠しているわけでもないのに、すりガラスの向こう側にいるような感じで表情がわからない。笑っているようにも、怒っているようにも見える。灰色の人物は、俺の背後を指差した。心臓が高鳴るのを堪えて振り返る。漆黒の、手のひら大の玉が浮かんでいた。それは泡立っており、ツルツルした表層のすぐ下を、金魚が泳ぐように、何かの群れがうごめいていた。その泡の一粒一粒が、芽ぶくように表面からのびあがり、キノコの傘のように膨らんでいく。泡の一つが弾けた。さらに次々と弾け、茹でて皮がむけたトマトのようにぐちゃくちゃに崩れていく。
「な、なんだあれは」
「あれは、怪物の卵。普遍界につながる時空の破れ目でもある」
 現れたのは、8本の足を持ち、瓜のような形の顔、ライオンのようなたてがみ、トカゲのような体を持つ怪物だった。黒い皮膜を打ち払い、やがて銀色に輝く全身が出現した。怪物は、雄叫びをあげた。それは、ハッカの匂いのする世界に重く深く響き渡り、すぐに時空の揺らぎをもたらした。
「わたしの手を握れ。さもなくば帰ってこられなくなるぞ」
 俺の右手に、何か柔らかい感触がした。それが老人の手なのか、得体の知れない何かなのか確かめる勇気はなかった。白い地面は絨毯のように波打ち、ほつれ、破れていく。破れ目から見えるのは、紫色の光。光の奔流は、まとわりつき、すべてをのみ込んでいった。怪物の雄叫びはまだ続いている。俺は、歯が割れるのではないかというぐらいに食いしばった。目を瞑る。自分の体が落下しているのか、上昇していくのか、それすらもわからなくなる。
 体の重さや、自分の呼吸の音が戻ってきた。原住民の村落独特の、饐えた匂い。俺は目を見開いた。褐色の肌をした老人が、何の感情も表出させないまま、俺を見ていた。
「無事、帰ってこられたようだな」
「あ、ああ……」
 何か意味のある言葉を発する気力すらなくなっていた。激しい疲労と、不思議な恍惚感が襲ってくる。
「お前たち、”文明人”が失ってしまったものだ。今やあの世界は我々だけのものだ。もし、これ以上森を破壊するなら、あの怪物がお前たちの都市に舞い降りるだろう」
 結局、俺は原住民との交渉役を退くことになった。俺が腰砕けで帰ってきたのを知った上司は、もはや懐柔策は通用しないと考えたらしい。次に送り込まれたのは、開発を主導する企業が雇った傭兵たちだった。虐殺が行われた。もちろんニュースにはなっていないが、確かな情報だ。あの老人も、傭兵たちの銃弾の餌食となったのだろう。どんなに不思議な力を持とうとも、マシンガンに石器では太刀打ちできない。あの老人は、あの部族は滅してはならなかった。だが、企業を弾劾する気力も、社会的地位も、何より勇気がなかった。森は開拓され、やがて広大なプランテーションが出現した。テレビニュースのキャスターが、わが国のGDPの成長率を高らかに叫んでいる。俺はもう、まともに現実を受け止めたくはなかった。チャンネルを変える。子供向けの、可愛らしいモンスターがたくさん出てくるアニメが映し出された。たわいもないが、現実逃避には丁度いい。だが、そこに映し出されたものを見て俺はリモコンを落とした。モンスターの一匹、可愛らしくデフォルメされてはいるが、あの怪物そっくりだった。どういうことだ。怪物は、液晶モニタの向こう側で主人公の少年と戯れている。吐き気がしてきた。電源を落とす。頭を搔きむしる。アニメを制作している奴らが、あの幻を知っているはずがない。ただの偶然だ。関係ない。俺には関係ない。関係ない音楽を聴くのが一番だ。携帯情報端末を起動した。インターネット上に配信された動画を視聴できるものだ。ハードな、ノリノリのものがいい。全てを忘れられるはずだ。軽快なリズムがイヤフォンから流れ出してくる。だが、背後に流れる重低音。あの怪物の雄叫びに聞こえる。一度そう思ってしまうと、俺の脳内にさざ波のように反響する。あの、空恐ろしい風景が頭の中をよぎる。俺はイヤフォンを外した。目から涙がこぼれ落ちた。
 老人たちは、先進文明の前に滅びた。だが、彼らの崇拝した神々は、装いを新たに、我々の目前に甦りつつある。いずれ、密林に暮らした原住民たちのモチーフが、何の関係もないカフェの装飾や車のデザインの端々に姿を現すかもしれない。彼らと一度も接触したことのない”文明人”の脳内に密かに卵を産みつけ、密林の住民たちの深く重い復讐の意思を携えて。

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