六白について~準備稿

多田 燈

 木々高太郎という作家がいる。本名・林髞。探偵小説作家ではじめて直木賞を受賞した人物であるが、表向きは大脳生理学者で、犬の実験で高名なパブロフの下で条件反射の研究にも携わった異色の経歴の持ち主である。
 日本探偵小説史の中で彼の名が刻まれる重大事項が二つある。一つが先に挙げた直木賞受賞。もう一つが探偵小説芸術論の提唱に始まる探偵小説芸術論争である。木々の論は探偵小説こそ純文学にも勝る最も高尚な文学であり、その完成を望むというものであった。戦前、木々は江戸川乱歩と並んで著名な作家で、日本探偵小説界に「本格」と「変格」の概念を植えつけた甲賀三郎に論争を仕掛けている。甲賀が探偵小説と文学を異なるという主張を雑誌上で行っていたからである。戦後、亡くなった甲賀から相手が乱歩に代わり、本格派・文学派と推理小説界を二分することとなる。論争は芥川賞作家でありながら『点と線』『ゼロの焦点』で頭角を現した松本清張の登場をもって下火となるが、今尚結論は出ていない。
 探偵小説芸術論に関する研究は、先に挙げた清張によって完成されたという一般的な認識が強く、内容を深められることは稀で、僅かに触れられることがあっても論戦の内容そのものに関するものばかりで、論争以前について触れられることは皆無といっていい。
 「鬼の説法」という木々の随筆がある。雑誌の企画で、出版社側から指定された作家へのリレー形式によるもので、木々は森下雨村に宛てている。木々はその中で、新聞に掲載された匿名批評で、未だ文芸世界における探偵小説の地位が低く扱われていることを嘆き、大正期探偵小説界の牙城となった『新青年』の創刊に、初代編集長として携わり、江戸川乱歩をデビューさせた森下に、探偵小説の地位向上のために旗を振り、作家たちを鼓舞して欲しいと記した。この随筆の翌月、探偵小説芸術論に関する随筆を発表、甲賀との論戦に発展していくわけである。
 つまり、木々を煽った匿名批評こそ探偵小説芸術論の切っ掛けであり、批評家はキーパーソンとなる。前フリが長くなったが、この謎の人物を明らかにしようというのが、論の目的である。

 該当の匿名批評コーナー「蝸牛の視角」からみていこう。東京日日新聞に掲載された、六白なる人物の「局外小説家よ出でよ」である。
 日本探偵小説文壇は専業作家よりも非職業作家が多いのに対して、純文学文壇は専業作家ばかりで多様性が乏しいので、嘗て漱石や鴎外がそうであったように局外小説家を求める、というのが筋である。続いて、当代で小説家としての活躍を希望する人物として、吉村冬彦=寺田寅彦、羽左衛門、木々高太郎=林髞の三人を挙げている。特に木々高太郎には精神分析の知識を娯楽ではなく、文学に活かして欲しいと付け加えられている。
 木々の気に触ったのはコラムの最後の点にあったと思われるが、ここでは触れまい。内容から判るのは、局外小説家を求める持論、名を挙げた人物について詳しいこと、そして六白という匿名を用いていること。中でも吉村冬彦と木々高太郎両名の面の顔を把握していることは特筆に価する。
 吉村冬彦=寺田寅彦は、X線や統計物理学の基礎研究に尽力した学者である一方、夏目漱石門下の最古参に位置し、俳句や西洋音楽の造詣に深く、

  天災は忘れた頃にやってくる

は、寅彦の作とされている。
 この事から夏目漱石門下と係わりのある人物である可能性が高い。同時に木々=林の繋がりを知る術はあるか。実は『現代』昭和十一年十月号掲載の作家略歴には、「本名土橋浜次郎、明治三十一年十月山梨県に生まれる」と本名を偽っており、当時木々=林が広く広まっていなかったと考えられる。
 しかし、匿名批評が掲載された東京日日新聞には木々=林を繋ぐ線がある。昭和十年一月十七日から「露はなるロマンティーク」なる文章が五回に亘って林髞の名で掲載されている。ロシア滞在時代と、ドストエフスキー『罪と罰』に思いを馳せた懐古譚である。
 木々高太郎の探偵小説作家としてのデビューは、『新青年』昭和九年十一月号への「網膜脈視症」発表から。大学入学以前、詩人の福士幸次郎に師事し、入学後も同人誌を中心に詩作や論文の発表も継続しており、文壇との繋がりが推測され、東日のコラムはその関係によるものであろう。木々高太郎としてのデビュー直後の接触していたのである。
 漱石門下として吉村冬彦を詳しく知り得、且つデビュー当時から木々高太郎の作品を追跡できた東京日日新聞関係者が一人いる。それは久米正雄である。久米は三汀という俳号で俳句を志したところから文学に目覚め、東京帝国大学に入学後、第三次『新思潮』を創刊し、漱石門下となる。第四次『新思潮』にも芥川龍之介・菊池寛と共に参加しており、微苦笑という造語を生み出したことでも知られる。東京日日新聞との繋がりとしては、昭和三年十月より特別契約社員となり、昭和十三年四月から十五年九月には文芸部長に就任している。
 これら久米を取り巻く環境から、彼が六白であると推測されるが、さらに六白の側から検討を試みてみたい。
 問題となった「局外小説家出でよ」以降、昭和十一年九月三日の「蝸牛の視角」終了までの間に、六白は九回寄稿している。高浜虚子の俳句や、真船豊の戯曲、満州国における翻訳など、内容は多岐に渡り、多くは個人を特定するものとして情報が乏しい。その中で一つ眼を引くものがある。昭和十年十一月二十三日掲載の「死身の芸と旦那芸」だ。
 この評論は、水上瀧太郎の「世継」という作品に対する批判から、文芸時評家の態度を批判するものである。この文章の中には「局外小説家出でよ」と同様局外局内といった言葉が出てくるが、もう一つ、

 水上瀧太郎の文学は、会社の重役の余技であるが、この余技の年月が随分と長い。

とあり、この後も余技という言葉が二回登場する。
 この別に生業を持ち、余技で小説を執筆することを肯定する立場、この思想と久米正雄が結びつく。
 久米正雄は昭和十年四月「純文学余技説」を発表している。純文学を職業とすることが問題であるとするこの随筆は、私小説に関する内容も多く含まれており、当時文壇を賑わせた私小説論争に関連する資料として知られているが、この中で余技という言葉が登場する。

 (前略)「書生気質」は早大教授の余技であり、「多情多恨」 は読売新聞記者の余技であり、「猫」「坊ちゃん」は帝大教授の余技であり、(後略)
 
 前後同じように当時名を馳せた作家と余技を結び付けていくのであるが、ご覧の通り、二つは全く同じ思想で綴られている。
 以上の点から私は東京日日新聞匿名批評欄「蝸牛の視角」における六白は久米正雄であると断定する。
 最後に、第四回直木賞で選考委員に名を連ねた久米正雄の選評を紹介して終わる。僅か三行であるが非常に興味深い。

 率先して木々高太郎氏の「人生の阿呆」を推薦する。これに就ては芥川賞以上に云ふ事もあるのだが、相憎病気で何とも仕様がない。(談)
 

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