イカはホントに空を飛ぶ

檀敬

「あなたはイカが空を飛ぶのを見たことがあると、主人から何度も聞いていますが、それって本当なのですか?」
 金星定期往復宇宙船(ビーナス・シャトル)で、隣に座る若い御婦人が私に話し掛けてきた。私は《またその話をしなければならないのか》と人差し指をこめかみに当てた。
「本当ですよ、マリナ。私はこの目でシッカリと見ました」
 私はこの話をすることに閉口しているのだが、この『マリナ』という名の御婦人をむげにできない理由があった。
「それは見事な飛行でした。漏斗(ろうと)から海水のジェットを噴き出してヒレを広げ、さらに腕に付いている保護膜を広げて、それを翼の形にして悠然と飛ぶのです!」
「まぁ! それはなんてステキなことなのでしょう!」
 私の話に喜々としている『マリナ』という御婦人は、これから行く金星にある浮遊都市の市政官夫人なのだ。ただの「飛行学者」の私に『ついでにボクの女房を地球から連れて来てくれ』などと幼なじみで学友の市政官トムに頼まれなければ、イカの話などはしなくて済んだはずなのに。
「それで、その、飛んだイカはどうなったのかしら?」
 結局のところ、金星に到着するまで、親友の伴侶である『マリナ』にイカの話を延々と話し続ける羽目となった。
 ヒトが金星に定住するようになって二百年余り。幾多の犠牲を払いながら、硫酸雲の雲頂、気圧がほぼ一アトムで気温がセ氏十度程度である、高度五十五キロメートルにドーム形式の膜構造で浮島を建設、その浮島の中に造られた都市を、その高度に因んで『フィフティ・ファイブ』と名付けられた。この高度の気圧と温度が奇跡的に地球の地上と変わらないことが精神的また道義的に人々の進出を容易にしていた。しかし、浮遊都市『フィフティ・ファイブ』は硫酸雲と炭酸ガスにさらされているために構造物の腐食と硫化物の凝固が避けられない。絶えず構築物の補修をしなければならないが、その作業は同様の理由でロボットの使用が不可能なためにヒトに頼るしか方法がなかった。
「対策はいろいろと施しているさ。でも事故は一向に減らない。逆に『落下事故』は増えているくらいなんだよ」
 市政官執務室でトムは私に切々とその思いを告げる。
「それなら私の出番じゃない。事故調査協会とか……」
 私がそこまで言いかけて、トムは手を挙げて私を制した。
「アンディ、君を呼んだ理由はそこじゃない。これはあくまでも方便だ。それよりも問題になっているのは、下層大気にある硫酸雲から何かが時々現れるらしいことなんだ。多くの部下が目撃を報告している。幸いなことにボクはまだ見ていないし、そういうモノを信じてもいないしね」
 トムは報告書らしい書類を私の前にバサッと置いた。私はそれをパラパラとめくってからトムに視線を向けた。
「なるほど。これは何かがいるのかもしれない。しかしだ、私は『飛行学者』であって『生物学者』ではないのだが」
「オカルトめいた話だから正式な要請はできない。だが、君は『飛ぶモノを扱う』ことで有名だし、ボクの幼なじみで学友だから当然、親友でもあるわけだし、それにボクの世間知らずな女房をエスコートできるのも、アンディ、君しかいないと思ったからね。休暇申請はもう受理しているよ。金星で十分にくつろいでくれたまえ、ふっふっふっ」
 ニヤリと笑って私の休暇許可書を見せるトムを尻目に私は執務室の柔らかいソファにズブズブと身体を沈めた。
 浮遊都市『フィフティ・ファイブ』でのスペーススーツは軽装だ。呼吸装置はもちろん必要だが、地球の大気と同温度で同圧のために温度調節機能はなく、耐圧構造は最低限なので薄くて動き易い。ただし、腐食対策のために留め具や接続金具の類はすべてエンプラ製に換装されている。
「強い風で飛ばされないように、十分に気を付けてよね」
 ヴェネラが私に声を掛けてくれる。彼女は、私が外部活動を行う時にいつもバディを務めてくれる作業主任者で、金星でもっとも頼りになる姉御肌の女性だ。その彼女も気を使う風だ、私なんかはザイルを握る手を離しそうになる。
「時々強く吹き付けるこの風は、いったいなんなんだ?」
「金星で一番有名な『スーパーローテーション』がこれよ」
「なるほど。このビッグウインドならば飛行は容易だな」
「だからといって勝手に飛ばないでよ。そんなことをしたらあたしの責任問題になるんだからね。分かっている?」
 ニヤリと笑いながらも目はまったく笑っていないヴェネラの引き締まった顔が、とてもチャーミングに見えた。
「事故は作業中にこの強い風で吹き飛ばされてザイルが切れたという報告が一番多いけど、安全バーに切れたザイルが残っているだけでそれ以上のことは何も分からない」
 足元を見ると、硫黄イエローに染まった安全バーに残されているザイルの切れ端がすでに硫化物で固着していた。
「ということは、遺体の回収などは行われていないと?」
「誰がここから下に降りるっていうの? そもそも、下まで降りてここまで昇れる乗り物がどこにあるのかしら?」
「そいつはすまなかった。気に障ったのなら許してくれ」
 ヴィエラは「気にしていないわ」と笑って応えてくれた。
「ところでヴェネラ。経験豊富な君のことだ、きっと作業中に『硫酸雲からの何か』を見たことがあるのだろう?」
「そうね、白状すると一回だけ。けれどもチラッと見ただけなの。だから『白い』という印象しか残っていないわ」
 ヴェネラの正直な回答に、私も素直な考えを吐露する。
「この金星の大気なら、われわれの常識ではとうてい飛べないモノでも飛んでいるような、そんな気がするのだよ」
「飛べないモノ?」と不思議そうな顔をして尋ねるヴェネラに、私は意味あり気に「そうだ」とだけ答えを返した。
 私とヴェネラは手動式のロボットアームにたどり着いた。アームにはワイヤーウインチがセットされ、その先端にヒトが一人だけ乗れるゴンドラが取り付けられていた。
「だから、私はできる限り下まで降りて調べるつもりだ」
 それを聞いたヴェネラは態度を急変させて、粛々とゴンドラに乗り込もうとしている私を力ずくで引き戻した。
「ちょっと待ってよ! それ、本気で言っているわけ?」
 私を制止するヴェネラの手を、私は力強く握りしめた。
「死ぬつもりは毛頭ないよ。私は君のロボットアーム操作を十分に信頼しているし、君のことも十分に信じている」
「あんたはバカだよ、アンディ。ホントに大バカ者だ!」
 怒りながら目を赤く腫らしたヴェネラは、私をゴンドラに乗せてから安全ベルトをキッチリとセットしてくれた。
「あたしが危険だと感じたら、すぐに引き上げるからね」
 私はヴェネラの言葉にしっかりとうなずく。それを確認したヴェネラは安心した表情で私にGJサインを示した。
 降下して硫酸雲に突入すると、すぐに視界が悪くなった。おまけに硫化物だけでなく硫黄そのものまでフェイスガードに付着して黄色に染まり始めた。不思議なことに私の物質測定装置は炭酸ガスや硫化水素だけでなく核酸やアミノ酸、さらに高分子たんぱく質も検出していた。しかし、レーダーやソナーには何の反応もなく、残念ながら飛行しているらしい物体は一つも発見することができなかった。
「そろそろワイヤーの長さが限界だわ。引き上げるわよ」
 私が返事をする前にヴェネラはワイヤーを巻き取り始めたので、私は無言のまま彼女の操作に従った。しばらくすると硫酸雲の層を抜けたらしく、視界が良くなってドームが見えてきた。ロボットアームとその横で操作するヴェネラをしっかりと視野に捉えた時、ゴンドラが妙な振幅運動を始めた。それを見たヴェネラは何かを察して叫んだ。
「こいつは危険な状況だわ! 直ちに安全ベルトを解除!」
 ヴェネラはロボットアームを非常停止して、横に置いていた救命索発射銃(レスキューザイルショットガン)を私に向けて発射した。細い救命索が付いた赤くて丸い弾丸は私の胸に当たると弾けてクモの巣状に広がり、私の胴体を包むように覆った。クモの巣の中心に救命索が取り付けられていて、それをヴェネラがリールで巻き取り始めた時、ゴンドラを吊っていたワイヤーが切れた。安全ベルトが外れて救命索で確保された私をその場に残して、ゴンドラは滑るように落下し、硫酸雲をかき乱しながら沈んでいった。
「間一髪よ。張力がワイヤーの腐食を加速させたみたい」
「ありがとう。助かったのは君を信じていたおかげだね」
 経験に培われた勘を持つヴェネラに、私は感謝した。それに応えようとした彼女は、なぜか急にその動きを止めた。
「あれは何者なのかしら? アンディ、ちょっと見てよ!」
 ヴェネラはゴンドラが落ちた辺りを指し示した。そこにはたくさんの白っぽい円盤状の物体が飛行していた。その形は『ウィトルウィウス的人体図』のように見えた。私とヴェネラはしばらくの間、その光景にくぎ付けだったが、その物体は一つまた一つと硫酸雲の中へと消えていった。
「君はまた一つ、『飛行伝説』を手に入れたってことだな」
 トムはニヤニヤしながら、私とグラスを打ち鳴らした。
「どうやら君が言う通りにそうらしい、困ったことにね」
 私は苦笑いしながら、シャンパンを一気に飲み干した。

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