Fの叶えた夢

水野洸也

―本当の戦争の話をしよう、と言ったのは誰だったっけ。
―おいおい、きみはぼくの貸した本のことを忘れたのかい。本当の戦争の話をしよう、と言ったのは、疑いもなく、ティム・オブライエンというアメリカの作家であり、そう翻訳したのは、誰がどう口を挟もうと、村上春樹意外に存在しないじゃないか。きみは一体、ぼくの貸した本についての記憶を頭のどこにやってしまったんだい。
―ははは、ごめんごめん。ぼくは忘れっぽい性格でね。重要なことほどよく忘れて、どうでもいいことは、それこそトンボの見る世界のように、いやにくっきりと捉え、記憶してしまうんだ。
―いやはや、まったく。
―それで、ぼくたちは何の話をしようとしていたのだっけ。何かを話そうとしていたのだが、どうしてかぼくは、本当の戦争の話をしようという非常に愉快なタイトルを思い出してしまったんだ。きみはぼくに、ぼくが一体何を話そうとしていたのかについて思い出させてくれるかい。
―きみはぼくがついていないと、一切を置いてけぼりにしてしまうんだから、まったく。
―すまないね。
―きみが何を話そうとしていたのか、それは、空を散歩することを夢見て、実際にそれを実現した人の話以外に何もないじゃないか。
―おや、ぼくはそんなことを話そうとしていたのかい。そんなどうでもいいことを。
―きみがそう言うのであれば、それはたいそう、きみにとってどうでもいい話なのだろうね。きみの覚えていられることは、重要でないことばかりなのだから。でもぼくとしては、その空を散歩した人の話はやけに聞きたいと思ってしまったんだ。空を眺めていたら、きみが突然、そういえば、空を散歩することを夢見て、実際にそれを実現した人がいたなぁ、と呟いたのが始まりさ。それさえなければ、ぼくはこれほど、きみに詰め寄る必要は出てこなかったわけだからね。何もかもきみの責任さ。
―おいおい、きみはぼくに、どうしてほしいと言うんだい!
―簡単なことさ。きみはぼくに、その、空を散歩することを実現した人について話してくれさえすればそれでいいんだ。それでぼくはきみを解放するだろうし、ぼくも満足するだろう。きみのその忘れっぽい性格についても、話の内容如何によっては、それさえも許してしまうことだってあり得る。
―それじゃあ、ぼくはぼくのその性質をきみに認めてもらい、これからもぼくへのサポートをきみに続けさせるためには、これからする話を、うんと力を込めて話して、きみをおおいに満足させなければならないわけだね。
―そういうことだ。
―じゃあ、話すとしよう。ちょっと長くなるだろうけれど、時間の方は、大丈夫だろうね。
―もちろんさ。むしろ時間が余ってしまうかもしれないね。きみがやる気を出さないと、その話はおそらく十秒ともたないだろうから。
―それは失礼というものだ。ぼくだって、やるときはやるさ。
 では、話すとしよう。ぼくがこれから話すことは、誇張もなければ、虚偽ということもありえない。すべて現実に起こったことだ。そのへんは、あらかじめ納得していてほしい。あとで言われても困るだけだからね。なにせこれは、事実であり真実なのだから。
 ぼくには一人の友人がいた。彼のことは仮にFとしようか。Fはぼくより二つ歳下で、背の低いちょこまかした男だった。よくはにかむのが癖で、ぼくがFを見るとき、Fはいつも微笑みを浮かべていたものだ。けれどもその微笑みは、どこか不安をあおるようなものだったことを覚えているよ。それは幸福から出る笑顔じゃない。もっと何か、人には言いづらい不幸な理由によって、Fはそうやって微笑んでいるんだ。ぼくにはそう思えてならなかった。結局その理由はわからないまま、Fは空に旅立っていったんだけどね。
―おいおい、話の本題に移る前に、ぼくをどうか、居眠りさせないでおくれよ。
―まあまあ、落ち着いて聞いているといいさ。それにこの話は実際のところ、つまらないありふれたものだから、あるいはきみは居眠りしてしまうだろう。そのときは仕方がないと思って割り切るしかないさ。
―たとえぼくが、それできみをみくびったとしても、かい。
―それでも、さ。
 じゃあ、話の続きに戻るとしよう。Fはぼくとよく遊んだよ。ぼくとFは無二の親友だったんだ。どうやらぼくたちの間には、うまく説明のつかない特別な因縁が存在していたらしいんだ。親同士のつながりがあったとか、そういうことじゃない。ぼくたちは偶然街の片隅で出会い、仲良くなったんだ。それはごく自然ななりゆきだった。
 Fには夢があった。それがさっきからさんざん言ってきた、空を散歩したい、という夢だった。最初にそれを聞いたとき、ぼくはFが寝ぼけているんじゃないかと思った。けれどもどうやら、Fは本気で、自分がいつか空を散歩できると信じていたらしかった。ぼくは言ってやったよ。それは思うに、飛行機に乗りたいだとか、ロープウェイを楽しみたいだとか、その手のものを指しているのだろうか、とね。Fはそんなことを言っているのじゃない、Fが言っているのは、まさしく、F自身が、外的な力なしにF自身によって空を散歩したいということだ、ということがわかっているにもかかわらずね。するとFは、案の定このように答えた。いいや、ぼくはそういうもののことを言っているのじゃないよ。ぼくが叶えたいものというのは他でもない、ぼく自身が、ぼく自身の力に従って実現されるべきものだ。つまり、生身の体で、文字通り空中を散歩したいというただそれだけのことさ。ぼくはちょっとした衝撃を受けたね。Fの実生活というのは、勤勉を絵に描いたようなものだったから。おとぎめいた話はFには最も似合わないように思われた。しかしぼくは、次第に納得していった。Fは本当に、その途方もない夢を叶えたいのだろうとね。そしてぼくは、Fのその夢を実現すべく、Fを手伝うようになったんだ。
 ぼくの手伝ったFの作業というのは、何かこのようなものだった。まず、前準備として、空に向かって伸びる階段を造る。誰かに見られて撤去されるようなことがあってはならないから、透明な材質を使用したよ。それはガラスによく似た材質のもので、アイルランドにしか生えていない特別な木から造られたものなんだ。地上から百メートルほどのところにまでそれを伸ばし終えたら、次は空を安全に散歩できるよう、その地上百メートルの場所に、一キロメートル四方になるよう床板を張り付ける。これもまた、アイルランドの特別な木からできているよ。パズルみたいに、いちいちぺたぺたと透明な板を並べていかなくちゃならなかったから、この作業は最も時間のかかるものだった。それから、F自身を透明にする作業を行なった。これは特に時間はかからなかった。これで作業のすべては完了だ。あとは実際に空を散歩するだけ、という段階となった。何もかもを終えたあとでぼくはこう言った。これでもう、きみは空を散歩できるね、と。するとFは、そうだね、と言った。Fはおそらく、いつものような不幸な微笑みを浮かべていたのだと思う。なにせ透明になってしまったから、それすらもわからないんだけどね。それからFは、その小さな体で、階段を勢いよく駆け上っていった。足音はするから、そのことだけはよくわかった。やがてFの足音は、聞こえなくなってしまった。あとのことは知らない。きっとFは今も、空を一人、自由に散歩していることだろうね。
―それで、きみの話は終わりかい。
―ああ、終わりさ。これがぼくとFとの最後の付き合いだった。
―ぼくは終始不安だったよ。この話がぼく以外の誰かに聞かれていやしないか、とね。だからぼくは、きみの話に耳を傾けながら、たえずあたりを警戒していなければならなかった。おかげですごく疲れてしまったよ。
―それはそれは。でも、どうしてきみはそのようなことをする必要があったのだろう。
―誰かひどく酔っぱらった男がきみのところまで走ってきて、手に持った一升瓶できみの頭を勢いよく殴りつけることが起こるかもしれないと、ぼくの頭にはそれしかなかったからだよ。
―へぇ。

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