明後日

花田和子

 三島は明後日のことを考えていた。

 明日。
 明るい日と書く、なにやら前向きで、文字通り明るいモノを想像させる力がある。
 未来。
 やはりこちらもなぜだか光り輝くイメージがある。「好きな言葉」ランキングでも上位になるであろう、少なくともネガティブな印象はないのであろう。
 なのに。
 おそらく大概の場合、九割九分以上この「明日」と「未来」の間にあるであろう「明後日」。なぜだかひどく後ろ向きな雰囲気が漂う。
 このときの三島の頭の中は、こんな明後日のことでいっぱいであった。
 世間は、というより世の教育機関は夏休みなのであろうか、オフィス街の昼下がりだというのに炎天下には通常の雑踏に子供の喧噪や蝉のけたたましい鳴き声まで加わって、いつも以上に騒がしい。携帯電話の先の久瀬の声など三島の耳に届く前にかき消されるほどであった。ただ、聞き取れなくてもその中身は分かり切っている。クレームだ。担当案件が延びで延びて延びまくっていることは、誰よりも三島が分かっているのだ。見えない相手に必死に頭を下げ続けていた。
 明日は無理。未来永劫納期が延びればできるかもしれないが、その前に久瀬は手を引くだろう。では明後日は。というところから、三島の頭は明後日の方へといってしまった。
 意味をなす言葉はすべて周りのホワイトノイズにかき消されていた三島は、物理的な頭の上下運動も相まって思考が真っ白になった。自信の発している謝罪の言葉が周りに埋もれているのか、それともすでに口から出ていないのか区別が付かないまま、前のめりでどうと倒れた。


 目が覚めると白い天井が見えた。頭と目が回り、世界が回っているようであった。腕には点滴の針が刺さっている。
 腕時計を見ようとしたが、あいにくカレンダー機能は付いていないので時刻は分かっても日にちは分からない。そもそも、いつの間にか腕時計は外され、代わりにタグが巻かれていた。
 頭はまだ回っているせいか、回っていない。分かっているのはとりあえず生きているということだけだ。少し回ってきた頭で思い至ったことは、生きてはいても社会的には死んだも同然ということだけだった。
 医師や看護師が代わる代わるやって来て、ここに至る経緯を話してくれて、三島自身の話も聞かれた。何とか応えはしたものの、自分自身の境遇が未だ雲の上にいるような不安定な状態ではあった。
 救急車で運ばれたことは理解できたが、病院に駆けつけた関係者というのがどうも釈然としなかった。単身で思いつく人がいないのだ。
 外回りの勤務中で本来なら労災だろうが、三島の会社がそんなモノを認定するわけがない。きっと、ありもしない有給申請をされていて、休日中の出来事とされているだろう。連絡がいくならそこしかないが、では駆けつけ手くれたのは誰だろう。
 三島が倒れたことを知っていて、三島自身を知っている人物であることは間違いない。倒れたのはとある街中で人混みはあったが知り合いがいたかどうかも分からないはずだ。心当たりが無いわけでもないが、三島を気にかける筋合いのない人である。
 医師や看護師は、口々に「いい上司に恵まれましたね」と言っていた。
 それはない。


「ああ、目が覚めたって聞いたから」
 顔を見せたのはやはり久瀬だった。あからさまにほっとしたような表情で、入れ違いざまの看護師に会釈をして、三島の近くにきた。
「お前、丸一日気を失っていたんだぞ」
 がははと笑いながら本当に安心した様子であった。
 三島はベッドから降りて、土下座をした。が、久瀬に止められた。病人がそんなことしちゃいかんと窘めながら。
 久瀬は静かに、なぜか今三島が担当しているはずの仕事の話しをし出した。入院している病人に話すことではないが、丸一日以上過ぎているためすでに納期は超えているのだが。
 人体に適応した程良い冷房の中近で、徐々に三島はその話に乗り、これから先の現実はとりあえず頭から追いやって、目の前の事案に集中した。
 元々今の仕事が嫌いではなかった。むしろ好きだった。折衝を重ねてクライアントの要望に現実的な形に作り上げること。
 いつからなあなあで話を聞かずに頭を下げるだけになったのだろう。思考停止に陥っていったのであろう。
 グラスいっぱいの水が、表面張力でぎりぎりこぼれずにいる。もう一滴、もう一滴。意外と入るからまだまだ入ると思われてその一滴がどんどん増えていった。それが許容を超えて溢れた。溢れたはずなのに、受け皿が綻びながらも漏れは押さえてしまった。諸リス津こと鳴く受け流すことができてしまったのだ。ついにそれすら決壊したのだった。
 そして壊れた三島を、会社はすぐに切り捨てた。
「三島ですか? ええ!? 倒れて病院に? そういえば本日は休暇を申請しておりまして。休日中の出来事ですから……」
 所長の声が脳内で生々しく響く。幻聴に近いが、おそらくほぼその通りのことが起きたのだろう。ありもしない休暇申請のねつ造どころか、三島が在籍していたことすらきっとすでに無かったことになっているかもしれない。
「申し訳ありません、久瀬さん」
 土下座は拒まれたが、三島は頭を下げるしかなかった。
 とはいえ、久瀬は気にしている様子もなく、とある提案を三島によこした。
 三島の目の前が、突然開かれたようであった。


 あのまま三週間ほど入院し、体力も大分回復した。検査結果が良好で問題ないと言われ、二日後に退院と相成った。
 ホールの公衆電話で久瀬にそのことを伝え、返答を聞いたとき、三島は倒れたあの日を同じように、見えない電話の先の相手に必死に頭を下げた。
 もう月が替わる。来月から久瀬の口添えで別会社に行くことになった。その後年内には久瀬の会社に入ることになっている。
 受話器を静かに置いて、もう繋がっていないがその先にいる久瀬にもう一度また改めて深々と頭を下げた。

 三島は、明後日のことを考えた。

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