この、ほぼ一年間を振り返る。

七人

 去年の12月26日、調子が悪いと言っていた親父がようやく医者に行き「肺に水が溜まりかけてる」と言われて入院する。その時は大した事はなく、年内には帰れる予定だった。27日、親父の容態が急変。近くの医科大学に搬送され、俺は姉からの電話で知った。見舞いに行った母親はそのまま親父と帯同して、医者から「親族を集めるように言われた」らしい。つまり、死ぬ可能性が高いから。俺は叫びながら病院へ車を転がした。近くに警察車両がいれば文句なく止められるような暴走運転で、よく事故らなかったと思う。親父は心不全だった。原因は、働き過ぎによる疲労の蓄積で体が弱っていたから。土建屋社長の親父の朝は早かった。朝三時に起きて、何かしらした後、会社に向かい。仕事に行き、大体七時か八時くらいに帰ってきて、早ければ十時に寝る。休みと言うものは基本無く、土日祝日も一人で仕事に行き、なければ家で農作業する。そして仕事を断ると言う事を知らず、遠方の仕事を受ける。仕事自体も、一人でこなす事が多かった。理由は従業員がいると規定の時間に帰らなければならず、満足行くまで仕事ができないからだ。そういう生活をほぼ一年間毎日送っていて、六十を超えた親父の体はすっかり参っていたのだ。次の日、親父の意識が戻った。主治医からは「心臓に機械を埋め込む事になるかも知れない」と言われたが、家族は安心していた。とにかく生きてて嬉しかった。それに親父が直接仕事はできなくても、親父がいれば仕事は入るし、会社が回るからだ。29日、主治医から電話で「家族を集める」ように言われた。発作が起こったためだが、何とか親父は乗り越えた。そして、翌年2日。また「家族を集める」ように言われた。ゆっくり来るように言われたので、多少楽観視していた。しかしそれは大した事ではない、という意味ではなく、立て続けの事で慌てすぎないようにという配慮に過ぎなかった。心臓にあった血の塊が脳に飛んだ。脳梗塞だ。その時の光景はたぶん忘れる事はないだろう。左半身だけで全力で駄々をこねる親父と、その左半身と同じくらいに動き続ける医者や看護師の姿は。結果を言えば、親父は軽度の右半身麻痺と言語障害になった。心不全と脳梗塞を併発した親父は二ヶ月ほど入院、その後はリハビリ専門の病院に移る事となった。俺は一度見舞いに行っただけでその後の事はよく知らない。俺自身が入院したからだ。異変という物を明確に自覚できたのは1月の中旬位だっただろうか。体がだるく、便秘になった。最初は胃腸が原因かと思い、医者に行った。しかし一時的に良くなったものの、症状は徐々に重くなり、飯があまり食えなくなり、スポーツドリンクやビタミン系の炭酸飲料などで栄養を補おうと試みる生活が続き、3月中旬には仕事ができないほど体がだるく、熱が出るようになった。俺は医者の所へ行き、以前からますますひどくなった症状を告げた。大量に水を飲む事と、頻尿だ。当時の俺は、布団の傍らに置いた二リットルの水を一晩で飲み干し、何度もトイレに起きるような状態だった。それを聞いた医者はすぐに血液検査をした。久しぶりに見た自分の血は、嫌にどす黒かった気がした。この時の血糖値は748。ちなみに健常者の値は80から110だ。文句無く重度の糖尿病だ。後にニ型糖尿病と判明する。懸念は前々からあった。しかし、そこまで引き伸ばしたのは親父のこと以外で家族を不安にさせたくなかったのと、俺が働いていた弁当屋(親父が始めた)が俺なしで回るのか不安だったからだ。俺は糖尿病専門の科がある病院への紹介状を書いてもらい、3月18日に入院した。その日、糖尿病専門の科はやっておらず(4月から本格稼動する予定だった)、俺は救急に運ばれてその日一日しこたま生理食塩水の点滴を左手(脂肪のせいで血管が浮き出なかった)からぶち込まれ続けた。理由は、栄養飢餓状態で脱水症状を起こした体に効率のいい水分補給と濃すぎる血液を薄めるためだ。その日の夜、俺のベッドに主治医が現れる。正直、第一印象はよくなかった。服装は派手な赤いシャツに茶色のロングスカート。背は低めなのに、髪は腰まで届くほど長く、大きな顔には厚化粧を塗りたくっている中年のおばさんだ。口調は少し間延びしてて軽く、その癖にズバズバと物を言う。白衣を着てなければ、医者とは思えない人だった。ともあれ、俺の入院生活はスタート。最初の数日は色んな検査を受けて、薬の打ち方や記録の取り方を覚え、糖尿病の勉強会へ行き、それ以外は飯食って持ち込んだ本を読むような生活だった。数日してリハビリに行くように、それ以外でも病院内を歩くように、その日から体重を量るように言われた(この時点で入院時とほぼ変わっておらず、少なからずショックだった)。一部では自業自得型とも言われるニ型糖尿病(決してそうとも言えない)という事もあり、俺は心を入れ替えて(半ば強迫観念で)頑張った。俺はほぼ病室にいない患者になった。用が無ければ、一階二階の外来の広いスペースを練り歩いた。歩いて歩いて歩き回った。外来の患者も不思議がってたし、迷惑に思ったと思う。けれど俺はそんなこと知ったことか、と歩き回り続け、とうとう一日に二万歩半以上歩くようになっていた。その努力の甲斐あって血糖値は下がり始め、糖尿病患者にしては真面目だったらしく病院から新しいリハビリプログラム(病院外の決められたコースの散歩)の試験モニターなどを頼まれた。今更ではあるが、俺の受けた薬物療法は強化インスリン治療+αだ。大量のインスリン(血液中の糖分を各細胞に送るホルモン)注射でインスリンを分泌するすい臓を休ませる療法と、その他にインスリンの分泌を促すホルモンの注射と、腎臓の機能を意図的に落として腎臓を休ませる錠剤を服用していた。とまぁ、色々やって一日帰宅経て入院から一ヶ月ちょっとで退院。この時点でインスリン注射はなくなり、インスリンを促すホルモン注射と錠剤だけ。一ヶ月後の検診で、錠剤だけ。更に一ヶ月後には、錠剤も無くなる。更に一ヶ月後に、主治医から「糖尿病ではない状態」宣告され、栄養士からは変なテンションで「いやぁすごい改善の仕方だねぇ。学会に発表できるよ!」と言われて若干引く。直近の検診では、主治医から「もう糖尿病じゃないけど、まだ検診来る?」と投げやりに言われる。当然、検診は続ける事にした。よくなったとは言え、調子には乗れない。後、一度やめると健常者扱いになってしまう。そうなると、血液検査は自己申告ではできない。糖尿病以外の病気の早期発見にも役に立つと考えた。体重の方は130キロ以上(もっとあった可能性もある)から73キロと平均まで下がった。この間に親父は退院したけど、今でも糖尿病のことは言ってない。親父が退院してしばらくして、弁当屋を閉店して、土建屋を縮小する事となった。やはり麻痺の残る今の親父の状態で仕事をするのは難しく、また業界からの信用も下がっていて仕事を取るのも難しいからだ。正直、借金も苦しいし、両親共に年金を受け取る年齢になったのもある。そして、先日25日。六年間努めた弁当屋は閉店した。パートさん達との別れも悲しかったが、集金や備品の処分など事後処理は年が明けてからも続くし、就職活動もあるので気は抜けない。そう思いながら最後の営業を終えて、家に帰る。戸を開けると母親が狼狽した様子で電話していた。その日、ご近所の幼馴染が死んだ。彼女とは高校が別な事もあり中学卒業から疎遠になっていて、それ以降の事はろくに知らない。11月頃に救急車に運ばれたのは知っていたが、そのまま亡くなるとは思ってなかった。次の日、正式な訃報が近所を中心に出され、連絡先を知る小学校の同級生に連絡した。組内だったので、親から聞いた式の日程を同級生に回す伝達役となり、その日の内に集まれる同級生を集めて線香を上げに行った。ほぼ中学以来に見た姿は昔とあまり変わってなかった。死人特有の肌色をしている事と首辺りの川が弛んでる以外は。彼女は死ぬ間際、体中がパンパンに膨らんでいたらしい。首の皮はその名残だと言う。ミトコンドリア脳筋症、それが彼女の死因で病名だった。二万人に一人いるかいないかの難病で、体中に存在するミトコンドリアが異常な働きをする病気らしい。17歳の時に発症し、十年間の小康状態を経て急変し死に至った。その間、彼女は懸命に働き、人生を楽しんでいたと彼女の母は語った。俺はその事を知らなかった。同級生の中で一番近所に住んでたのに、昔は仲良く遊んだのに。無力感が湧いて、少し悔しかったが、通夜でも泣けなかった。涙ぐんでいたかも怪しい。その事が今の俺と彼女の関係性の結果だと、少し絶望した。よかったら手紙書いて、と用紙を渡された何も書けず、棺桶に入れてもないのに入れたと嘘をついた。葬式にも出なかった。店の事後処理が残ってるから、と理由を作って。きっと後悔するだろうと思う。でも俺みたいな奴はその事を後悔した方がいいと思った。親父と俺は運はよかった。彼女に対し、運を絡めて書く資格は俺にない。ただ彼女の冥福を祈り、自分の幸運を噛み締め、新年を迎えたいと思う。

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