転勤談論

地下猫

  事業本部長:
 よく来てくれた。今日は君に大切な話がある。……そんなに緊張しなくとも大丈夫だ、さあ、そこに座って。
 君も知ってのとおり、我が社は頭打ちにある国内市場からの脱却を目指し、積極的に海外への販路拡大を進めている。その一環として、中東のS国にも事業所を構えたばかりだ。
 そこで話というのは、君にS国事業所の所長になってもらいたい、ということだ。
 というのも、今の所長が急病にかかってしまい、後任を探しているところだが、私は君が適任だと考えている。
 さすがに驚いた様子だな。まあ当然か。我が社でも前例のない大胆な人事だからな。しかしこれにはちゃんとした理由がある。会社としては若い社員に早いうちから機会を与えることで様々な経験を積ませ、将来、会社の中核を担う人材になってもらいたい、という思いがあるのだ。その点、君はこの前のZ社プロジェクトをリーダーとして見事に乗り切ってくれた。
 ……なに? 買いかぶりすぎだ? そんなことはない、君には十分な素質があると思っている。
 とは言え、急な話だからしばらく考える時間を与えよう。だがこれは君のキャリアとって、またとない飛躍のチャンスだぞ。東南アジアへの投資が一通り終わった今、次なる狙いは中東ならびにアフリカ、というのが上層部の共通した認識だ。君はその最重要経営課題の一角を担うわけだからな。
 良い返事を期待している。

  同期:
 ケン、すげぇなその話。
 海外事業所の所長っていやあ、部長から本部長に昇進する前の中間ステップだぞ。それを、まだ係長ですらないお前が任命されるなんて、確かに信じられねえ。
 あっ、店員さん、ビールお替り!
 でもケンならいつかこんな話が来るんじゃねえかって思ってたんだぜ、俺は。お前は俺たち同期の中でも飛び抜けてたからな。でなきゃあ、Z社のプロジェクトに決着をつけられなかっただろうさ。何人ものエース社員と管理職を長期休職に追いやった無間地獄とも呼ばれたあのプロジェクト、お前が担当になった途端、きれいさっぱり終わっちまったんだからよ。あの時は夢でも見てるんじゃないか、と俺自身の目を疑ったほどさ。
 おっ、この寒ブリ美味い。ケンも食え。海外へ行ったら日本が恋しくなるだろうから、今のうちに味わっておけよ。
 って、ところで、行き先はどこの国だっけ?
 ん? 中東の……S国……?
 あー、なるほど。社長もこれからは東南アジア以外にも積極的に売っていくぞって息巻いているからな。 
 当然引き受けるんだろ、その話? まあ、会社命令だ、実質拒否権なんてねえからな。
 よし、今日の飲み代、本当なら出世頭のお前が払えって言いたいところだけど……、ケンの記念すべき日だ、しようがねえから俺が奢ってやる。
 ちょっと、店員さん。日本酒追加、熱燗で!

  恋人:
 ちょっとケンちゃんさ、なに言ってるの?
 中東S国の事業所に長期転勤? 中東って日本からどれだけ離れてると思ってるの?
 冗談でしょ。ねえ、冗談だって言ってよ。
 わたしとはどうなるの? 無理よ、国内ならともかく、そこまでついて行くなんて。
 S国っていうのがどういう所か、わたしには分かんないけど、きっとそこ、年中暑いんでしょ? それに、現地の言葉なんて喋れないし。そんな所でやっていく自信なんて、わたしにはないよ。
 遠距離恋愛? それはね、いつか戻ってこられることを前提にしてるの。でもケンちゃんさっき言ったよね。期限は事業が軌道に乗るまでって。
 それはいつ? 一年後? 五年後? それとも十年後?
 答えられない? それってつまり、いつ帰ってこられるかは分からないってことでしょ。
 わたしには無理、待てない。
 そりゃあ、ケンちゃんにとってはまたとないチャンスだってことはわたしにも分かるけどさ、わたしのことも考えてくれると嬉しいな。
 ねえケンちゃん、仕事とわたしのどっちが大切?

  母親:
 それ本当なの?
 S国って確か、時々テレビのニュースに出てくるよね。ほら内戦とかテロとかがずっと続いているんでしょ?
 えっ、それは別の国? S国は大丈夫なの? そう……、えっと、母さんにはよく分からないけど、似たようなもんじゃない?
 もちろん、ケンちゃんが行きたいって言うなら、母さんは止めないけど、でもやっぱり危ないんじゃないの。別にそんなところへ行かなくても、今の生活に不自由はしてないでしょ。だったら、無理して行かなくてもいいのに。
 違う違う、だから、反対しているわけじゃないわよ。母さんは心配してるだけ。ほら、あんたが幼稚園の頃、デパートで迷子になったことあるでしょ。だから母さん、やっぱり不安なのよ。
 そんな古い話を持ち出すな? そうよね、もうケンちゃん大人なんだし。
 でもケンちゃん、独り暮らしもしたことないでしょ、なのに、そんな所で生活していけるの?
 えっ、独り暮らししたかったけど母さんが反対した? そうだったかしら?
 とにかく、母さんは心配なの。もう一度よく考えてみたら?

  父親:
 母さんはああ言っているが、気にするな。あいつはまだ子離れが出来ていないからな、自分の目の届く範囲にケンを置いておきたいんだ。鬱陶しいと思うかもしれないが、それでも母さんにとってはたった一人の大切な息子だ、邪険にだけはしないでくれ。
 父さんからは特になにも言うことはない。ケンはもう大人だ、自分のことは自分で決めればいい。
 ずっと海外で働いてみたいと思っていたんだろ。良かったじゃないか、夢が叶って。
 もし、父さんと母さんを残していくことを気兼ねしているのなら、それは大丈夫だ。定年間際とはいえ、体は元気だし蓄えもそこそこあるから、なんの問題もない。まだ子供に老後を心配してもらう歳じゃないぞ。
 自分のやりたいことしなさい。息子の夢を応援しない親がどこにいる。母さんだって分かってくれる。
 S国は日本よりも気温が高いんじゃなかったか? 体に気をつけて頑張ってきなさい。
 ただ、別に母さんの肩を持つわけじゃないが、父さん……というよりケンと同じく資本主義社会の中で働く者の立場として、どうしてもこれだけは聞いておきたいんだ。
 そんなところで、暖房器具なんて売れるのか?

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