クラウドゲイザー

キュムロニンバス=サン

 空を飛んでいた。良い青空である。
 横を見ると、同じスピードでハヤブサが滑空していた。
 ハヤブサはライトという名前で、その名の通りいつも私の右側を飛ぶ。右目が潰れているので、常に私を視界に入れられる右側を飛ぶのだ。今も、その目が刹那に私を見て、すぐに前を向いた。
「夢は見れたかよ」
 私は、下らない夢を見ていたと答えた。ライトはくちばしを鳴らすと、それではもう少し先まで飛ぼうとさらに答えた。私はうなずいて、そこでようやく尻の下にあるのが、ペルシャの絨毯ではなく夏用のタオルケットであることに気づいた。絨毯は不甲斐ない後輩に貸していたのだった。
 タオルケットは麻の透かし織りだった。下を覗き込んだ拍子に、ワイシャツの胸ポケットに挿してあったペリカンの万年筆がこぼれ落ち、織りの隙間をすり抜けていった。あっという間に小さくなっていくワイン色のペンを、ライトに取ってきてもらうよう頼んでみたが、まだらの翼はひくりとも動かない。
「あいにくインクを狩る趣味はない」
 仕方がないので先を急ぐことにしたが、私は未練がましく腹ばいになって万年筆を目で追っていた。もはやワイン色の芥子粒よりも小さいなにものかに成り下がったそれの、更に下にはフラミンゴが群れを成していた。珍しいフラミンゴで、赤みが強く、立っている池の水まで赤く染める種類だった。あんな池に万年筆が落ちて、赤い水と黒いインクが混じったら途方もなく不吉な気がしたが、ライトがくちばしをうるさく鳴らすので、私はしぶしぶその顛末を見届けることを諦めた。
 少し進むと雲が出てきた。かなとこ雲はまだ先にあるが、さば雲の一群が下に広がり始めていて、じわりじわりとライトと私の体温を奪おうと画策を始めていた。いつもならば気にするべくもないが、今日は夏用のタオルケットだから、くるまっても大して効き目がないので困った。ライトはまたくちばしを鳴らした。
「今日のウィスキーはまだかよ」
 もちろん、雲が出始めたら、ショット一杯のウィスキーをライトに飲ませる必要があった。ライトはうるさいハヤブサで、スコッチウィスキーの十年物以上でないと風切り羽から氷が落ちない。私がザックを漁っているうちに、ライトは私の右肩に爪を突き立てて留まった。もう翼に氷がついて畳めなくなっていた。今日は寒い。
 マッカランはあったがショットグラスがなかったので手のひらに汲んでやった。ライトが貪るようにくちばしを突き出すものだから、私の手のひらは血だらけになった。思わず血も飲めたものだから、ライトは興奮して、また飛び立つ時に珍しく私の周りを一周旋回した。
 私もマッカランをちびちびとやりながら、どうせならもっと癖のあるラフロイグでも飲みたいと思った。しかし、私が一番好きな酒はペールエールだから、空の上で飲むよりも酒場でやった方が旨いのだ。それもアイリーン嬢に注いでもらえれば格別の味というものだが、残念ながらもう死んだ。
 私はアイリーン嬢に恋をしていたが、彼女が死んだ時も今のように雲の上にいたのだった。きっと、ライトがあのショットグラスをくちばしで打ち壊した時に、アイリーン嬢の命の灯火も砕け散ったのだ。私はライトを恨みもしたし、ライトはそれを知っている。だが、仕事のパートナーとしてこれほど信頼のおけるライトを、いつまでも恨み続けるのは無理だった。それもライトは知っていて、アイリーン嬢のことについてはくちばしを鳴らしたことがない。当然そういった心意気を私も知っているからこそ、こうして隣を飛んでもらっているのだった。
 マッカランが血に乗って全身を回り始めた頃、ようやくさば雲の海を抜けた。すると今度は、眼下に砂漠が広がっていて、その上を蛇が埋め尽くしていた。変温動物どもが体温を上げるものだから草の一本も生えなくなってしまった、特殊な砂漠であることはよく分かった。さっきまで寒かったのに、今度は暑くなるのだからたまったものではない。ライトも早速羽ばたき始めて、急ぎ砂漠を抜けようとしていた。
「行く先も気が進まんが、蛇どもはもっと嫌いだ」
 なにより味が悪い、とぼやくライトをなだめながら、地上で折り重なる蛇を見ていた。蛇は餌がないものだからお互いに困りきった顔をしていた。しかし、そんな顔をしながらも、とぐろを巻いてその場に留まることをしないところが変温動物の知恵の限界で、ある時は上になり、ある時は下になり、とにかく前へ進むうちに草の生えたところに偶然到達しては、その辺の蛙を食べ尽くし、また体温を上げて草を枯らしていくのだった。そんなことをしていては、当然味も悪くなろうというものだ。
 ライトの頑張りもあって砂漠を早々に抜けると、今度は緑の雷結晶が肌に当たり始めた。私はザックからこの間買ったばかりの耳当てを取り出した。緑雷結晶同士が擦れると雷鳴がするのである。もっとも、一帯は緑一色だったからまだ安心できた。うるさいだけで害はない。ライトものんびりしているから、近くに雷光の黄雷結晶や帯電の赤雷結晶は発生していないのだろう。そう言えば、緑雷結晶はアクセサリーとして最近人気らしい。私は良い形をしている雷結晶を一つ拾って、土産にすることにした。
 そうして少し寄り道をしていると、見たこともない青い結晶を見つけた。緑色の中に紛れていたが、目の端で気になったものをよく探したらあったのだ。そっと近づいてつまんでみると、その雷結晶はたしかにリンドウの花のように青かった。
 しげしげと眺めてみても、初めて見る色の結晶で、これはもしかして大発見をしたのではないかと心が躍った。その時、肩に痛みが走ったので見ると、物凄い形相をしたライトと目が合った。耳当てをしていたので、くちばしの音が聞こえなかったのである。耳当てを外して謝罪すると、ライトはことのほか大きくくちばしを鳴らした。
「それは逃がしてやりな。可哀想だろう」
 お前だってガキの時にいきなり見知らぬ馬鹿に拐かされたら不安だろう、と諭されて、私はようやくそれが雷の子だと気づいた。まだ進路を決めていない雷結晶を初めて見たが、色が青だと誰も教えてくれなかったのはなぜだろうかと思った。ライトは、そんなの青いに決まっているからだ、と小馬鹿にして、私の疑問に取り合ってくれなかった。仕方がないのでそっと手を離してやると、青い雷結晶はまるで狼に怯える山兎のように、あたりを飛ぶ緑雷結晶たちの機嫌を伺っていた。こんなことならばあのまま持っていった方が良かったのではと思ったが、目で追ううちに緑色に染まり始めたので、失望してもう見るのを止めた。
 結局一つも良い形のものが見つからないまま雷結晶の波を越えると、ようやくかなとこ雲が近くになってきた。うなり声を上げる雲が目の前に来ると、さすがに緊張して体がこわばってきた。万年筆は落としてしまったから、いつもより手間がかかりそうだし、タオルケットでは存分に動けるかどうかわからない。普段と同じ条件なのは、ライトが右側を飛んでくれていることだけだ。
「それで充分だろうよ」
 ライトが敢然と鳴き声を上げた。それだけで、随分勇気づけられるものだった。私はマッカランをザックから取り出して、景気づけに一滴残らず地上へ振りまいた。琥珀色の雫は下の赤黒い川に降り注いだものだから、川はうねり上がって龍になった。よく見ると、龍の鱗は一枚一枚がとぐろを巻いた眠り蛇である。ライトが少し嫌な顔をしたが、龍が私の左側に従ったのを見てすぐに機嫌を直した。
 さあ、良い夢を見ようか。
 私はライトと龍へ檄を飛ばした。ライトはくちばしを鳴らし、龍は鱗を逆立てて熱をおこした。蛇が各々目覚めて鎌首をもたげた。龍が一気に上昇して、天空を突き破った。降ってきた欠片はリンドウの花のように青かった。それらがいっせいに、緑や、黄色や、赤に染まる。太陽の光の反射で万華鏡のようにきらめいて、私の目を奪う。その中で、ライトが美しい黄色の結晶を二つ、爪につかんで打ち鳴らす。閃光が広がって、かなとこ雲の土手を射抜いた。
 私も両手を伸ばして黄雷結晶を手に取った。色が決まったばかりの雷結晶は温かかった。思いがけない温もりに、アイリーン嬢のことが思い出された。死んでみるのも悪くないと思ったが、ライトの潰れた右目が前を向いていることに気づいて思い直した。私は雲を狩らねばならなかった。それが私の使命だった。
 帰ったら酒場に行くことにした。今度こそペールエールの本来の味を味わえると思った。

感想を投稿する
ログインする※ログインしなくてもコメントできます!
コメントするときにログインしていると、マイページから自分が付けたコメントの一覧を閲覧することができます。

名前は省略可。省略した場合は「匿名希望」になります。

感想の投稿には利用規約への同意が必要です。