ムラサキハルカ

 機内アナウンスを耳にしながら、小鳥はシートに浅く腰かけ、分厚いガラス越しに外を眺めている。目に映るのは、数機の旅客機やその下にあるアスファルト、その上に広がる青空だった。
「なんだか、不安そうだね」
 隣に座る槙久に話しかけられて、窓の外を見たまま、首を横に振る。
「いいえ、そんなことはないわ」
 小鳥はそう答えはしたものの、本当になんの不安もないのかと聞かれれば嘘になる。とりわけ生まれて初めて飛行機に乗るという事実が、気がかりとしてあった。あんな鉄の塊が空に浮かぶという時点でおかしいという老人のような理屈が、頭の中にはある。
「そうかい。なにか、あれば言ってくれよ」
「ええ、そうさせてもらうわ」
「お父さん、これ見て。ついこの前までやっていた映画を見られるらしいよ」
 槙久の更に向こう側、通路沿いの席で椎子がはしゃぎ声をあげている。年相応の女子高生らしい可愛らしい声を耳にするのとともに、微笑ましさを覚える。それ同時に、心の中にあった重さが多少ではあるがほぐれていく気がした。
 こんなに近くに幸せがあって、そして自分もまたその輪の中にいる。そう実感したところで新たなアナウンスを耳にし、深く腰かけてからシートベルトを締めた。
 横目で窺うと、槙久と椎子はこれから見ようとしているアクション映画についての話しに花を咲かせているようだった。話しに加わるのも楽しいかもしれないと思ったが、予定ではもう少しで離陸だろうからと、この鉄の塊が地面から飛び立つまで待つことに決める。程なくして、のろのろと機体が走りだした。
 目の前を窓の外の風景が過ぎ去っていくのとともに、小鳥の頭の中には地上でこれまであった出来事が浮かびあがってくる。
 ごく普通の家庭に生まれた幼少時代にぼんやりと女性アイドルグループに憧れを抱いたこと。それから少し成長してアイドルになりたいとこころざしたものの、すぐに自分自身が彼女たちのように顔が整っておらず可愛らしくもないことに気付き、お洒落に手を出したりして小さな工夫を重ねてみたが、オーディションの類には全て落ちたこと。高校生になってバンドのボーカルになってみたものの、カラオケで上手いといわれる程度の歌しか歌えず、一生懸命歌ってもなんの魅力も自分的には感じられなかったこと。楽器ならばなんとかなるかもしれないと手を出してみたが、一向に上達しないうえに、さほど情熱が注げなかったため、どの楽器も長続きしなかったこと。大学生になって色々なバンドをふらふらとしていたものの、結局どれもこれもぱっとせずに終わったうえに、同じ軽音サークルに所属していたバンドがメジャー契約を掴んだ姿を黙って眺めているしかなかったこと。就職活動で業界研究をしていた芸能音楽関係の企業にことごとく落ち、渋々地元の化粧品関係の会社の受付係になったこと。いつまでも続く同じような生活に嫌気が差して上司の男相手に玉の輿を狙ったものの、関係だけ結んですぐに捨てられたこと。何度かのお見合いの末に妥協して捕まえた相手と結婚したものの、付き合いが長くなるにつれて微妙な相性の悪さが露わになっていき、憂鬱な気分ばかりが押しよせてきたこと。腹を痛めて一人娘を出産したものの、その娘は父親にばかりに懐き母親である自分には冷やかな瞳ばかりをむけてきたこと。産休をとり終えて元の職場に戻った際、さほど時をおかずに首を切られ、仕方なく地元のスーパーでパートとして働きはじめたものの、常に邪険に扱われ続けたこと。たまの休日に家族で外出をしてみても、夫と娘ばかりが仲良くしていて、どことなく爪弾きにされたような気分にさせられたこと。いつの間にか空き時間を一人で過ごすことが多くなり、懐かしさにかられて昔手を出したアイドルやらバンドやらの音楽を聞いたりライブに行ったりしたが、ある時は年を重ね以前以上の輝きを放つアーティストを妬ましく思い、またある時はすっかり萎れて声もでなくなってしまった往年のスターの姿を見てなんともいえないやるせなさをおぼえ、気分が沈んでいくばかりだったこと。仕方なく家のことをできるだけしてみたものの、夫も娘もそれを当たり前のように享受して我が物顔で居座り、なんの労いもしてくれなかったため、達成感などはなく無味乾燥さばかりが胸に巣くっていたこと。そんな生活を送っているうちに、暗い気分のまま徒に時だけが過ぎ、自らが枯れていくのを感じたままでいるしかなかったこと。
 徐々に早くなっていき残像を残しはじめる窓の外の風景を眺めながら、小鳥はしようもない思い出の数々にうんざりする。いつまでも与えられた名前の通り、飛べないまま人生を終えるのではないのだろうか、などという不安にかられていた。今思い返せば、それらの出来事もただただ馬鹿馬鹿しいことだと笑い飛ばせる。
 どうにもならないと思いこんでいた憂鬱を抱えこんで嫌々生きていたある休日、近所の公園に座っている時、その気付きはなんの前触れもなく訪れた。それがやってきた時、小鳥は自らが狭い卵のような世界に閉じこもっていたのだと、気付かされた。全ての苦しみは、自らの内面からやってきているのだと。幸せの種はどこにでも落ちており、それを見つけられなかったのはなにも落ちていないと思いこんでいたからだと。
 目が開かれたあと、小鳥は徐々に幸福が胸の中に満ちていくのを実感していった。もちろん、いまだに嫌なことの一つや二つで気分が沈むのも珍しくはない。しかし、そうであっても以前よりは遥かに、楽しいと思うことや嬉しいと思うことが増えていっていた。元々持っていた羽は、羽ばたけるだけの飾りだと思いこんでいたが、飛び立つだけの力があるというのがわかりはじめた。そして、ついに、
 その瞬間は驚くほどたやすく訪れた。ふわっとした感触とともに、飛行機が斜め上へと傾きながらまっすぐ進んでいく。少し遅れて、小鳥はこの鉄の塊がアスファルトの長い道から離れて、空に浮かんだのだというのを理解した。外に広がる風景に目を落としながら、大きな喜びが心に落ちていくのがわかった。
「ちょっと、小鳥さん。一人だけ外ばかり見ていないでくれますか。もう少し、私とお父さんと話そうとするとか。そういうところ、小鳥さんって、大人の癖に協調性がないですよね」
「こら、椎子。そんなに言わなくてもいいじゃないか」
「いいのよ、槙久さん。椎子ちゃんの言うとおり、私が空気を読めていなかったんだから」
 機が地面を離れたのを確認したあと、小鳥はにこやかな表情で隣にいる二人を見た。困ったように笑う槙久と文句ありげに頬を膨らませつつも注意深く横目でこちらを窺う椎子を見て、この二人がいることの幸福を噛みしめる。
 一瞬、小鳥は自らの背中に、地上に置いてきた数々のものが伸しかかってくるような錯覚にとらわれる。とりわけ、その中心にいる夫と娘の二人が、妻であり母親である自分を見る際のどことなく気だるげな視線が頭に浮かんだ。しかし、小鳥は笑みを深めて、つい数時間前に家の中に置いてきた、心にもない感謝の念をこめた事務的な手紙を書き終えたあとのすっきりとした気持ちを思い出し、二人でとりあえず仲良くやっていくでしょう、というどうでもよさにも似た感想とともに、過去に成りかわった幻影を振り払った。
「あっちについたら、ご近所さんへの挨拶を済ませて、届いた荷物を解いたりと、やることはたくさんあるんですから、しっかりしてくださいよ、小鳥さん」
「そうね。椎子ちゃんはしっかりしていて助かるわ」
 肩肘を張って精一杯に自己を主張する椎子の姿に、この上のない愛おしさを覚えながら、小鳥はいつかお母さんと呼ばれたいな、などとドラマのようなことを思う。
「とにかく、あっちに着いたら、みんなで頑張ろう」
 期待に満ち溢れた今の恋人の声を耳にし、小鳥は自然と頬が弛んでいっているのを感じながら、なんとはなしに手を繋いだ。そのごつごつとした感触にかつてない頼もしさを覚えつつ、これからやってくる目くるめく生活に思いを馳せてから、瞼を閉じる。とても、ふわふわとした心地とともに、エンジンが鳴る大きな音を耳にし続けていた。

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