てんてん

みなと こなつ

男は捷疾鬼を追っていた。
本来の彼ならば、讃えられたその俊足ですぐに捕らえられたろう。しかし、彼はかつての彼ではない。病を得て長くは走れない。
病さえなければ。
今も胸を突く痛みを憎み、膝をつき胸を抑えながらも、彼は前を向く。捷疾鬼から、かの舎利を取り戻さねばならぬ。そして、その役は己でなくてはならぬ。
かつて韋駄天と呼ばれた者として。

女はひとりウィンドウショッピングをしながら、思案顔であった。
意中の人の真意をつかみかねていた。電話でも、外出の間も、どこかそぞろなのが気にかかる。夢中なのは自分だけなのかもしれない。彼の心に他の誰かの影を感じる。
先に電話をかけてきたのは彼の方だ。食事に誘ったのは彼の方だ。確信が欲しくて行動に必死に理由を求めている。
女はいつしかうつむきがちになっていたことに気づき、ウィンドウに映る自分の顔を見上げた。
そこには妬婦がいる。

人通りの多い休日、男と女は、街で互いの肩がぶつかる。そこまではよくある話だが、男が急にうめきながら膝をついてくずおれたので、女は驚いて彼を介抱した。
「大丈夫ですか?」
「すみません、持病の癪が」
「え?」
「いや大丈夫です、行かなくては。ウッ!」
また疼痛に声をあげる男を、女は制止して、
「そんなに苦しそうなのに行かせるわけにはいきません。救急車を呼びましょう」
だが男は苦しみながらも前を向く。
「捷疾鬼を追わねばならないのです」
「しょうしつき?」
「舎利を帝釈天さまから盗んだ者です」
「たいしゃくてん?」
柴又の方から来た人かな? 女は、話が全く見えないながらも男を放っておけない。
「ご事情は私にはよく分かりませんが、病院に行ってお体を治してからでは間に合わないんですか?」
「一刻も早く!」
血気走った目で男は即答したが、実際のところ、あるいはその方が早かったかもしれないくらいの年月を経ていた。だが男はそこには考えが及んでいない。前しか向けない性分であった。
「ハッ! 捷疾鬼の気配が」
「分かるんですか」
「この邪気は間違いありません、この通りの先からこちらへ向かってくる」
立ち上がろうとして、しかし男はまた痛みに苦しみ出す。女は男の体を支えながら、男の指さす先を見た。注視すると、その者の異質さは女にもすぐ推しはかることができた。周囲の人ごみに姿は見え隠れしても、その存在は確かに近づいてくるのが判る。
それはスレンダーで切れ長の目のクールな美女の姿をしていた。
女は思わずその姿に見とれた。人の姿をしていながら、人あらざる美をまとっている違和感に男はむしろぞっとするのだが、女にはそこまでの差異は見て取れない。羨望のまなざしで見つめた。
あの人の心にいるのも、きっとこんな美しい人なんだわ。
と思うと胸に焦げたような黒い染みが広がってゆく。
「何にせよ、泥棒はいけません!」
女は立ち上がる。捷疾鬼の口の端がニッと歪んだ。
「韋駄天。いや、もうその名ではないか。無様なものだな、今は人に介抱される身とは。いっそ殺してやろうか」
「ひ、人殺しも駄目ですよ! 通報しますよ!」
不穏当な言葉が捷疾鬼から発せられ、女は驚いてスマホを鞄から取り出そうとするが、それより早く捷疾鬼がこちらへ駆けて向かってくる。とっさに女は男の前に立ち塞がり、両手を広げて対峙する。
恐怖に全身は震えるが、きっとあの人ならこうする、という信念が力なくか細い女を唯一支えた。
女が恋に落ちたのは、電車の中で暴力をふるう老人を制した彼の姿だった。彼を尊敬し、愛している自分がここで男を見捨てるようでは、彼の理解者たり得ないではないか。
彼にふさわしい女性になる。
その一念であった。
「いけない! お嬢さん、あなたを犠牲にするわけには」
男が制するより捷疾鬼が攻撃するのが早かった。
女は無意識に目を閉じ、顔を手で交差して攻撃を防いだ、つもりだった。が、来ると思った痛みがない。おそるおそる目をひらくと、手のひらと手のひらの間に、捷疾鬼がふるった刃があった。すんでのところで女は捷疾鬼の攻撃を防いでいたのである。
「バカな!」
捷疾鬼が刃を再度ふるおうとするも、女はそのまま刃を両手で握り抵抗する。当然両手からは鮮血が滴り落ちている。傷口から走る激痛は今まで味わったことのないものであった。男は目の前に流れる血に青ざめる。
「お嬢さん!」
「今です!」
その声に我に返り、男は携えていた宝棒で捷疾鬼の腕を打ちすえ、刃を弾き飛ばすと、その流れのまま捷疾鬼の胴を天上へひと突きした。
宝棒の賜った護法の威力により捷疾鬼は成敗され、あとには舎利が残された。
地に落ちた舎利をうやうやしく拾い上げ、懐紙に包んだのちに懐にしまうと、男は女の両手の傷を止血した。
「私のために、このようなことに。申し訳ありません」
肩を落として男が詫びると、あとで病院に行きますから気にしないでください、と女は告げながら、
「事情はよく分からないままでしたが、何にせよ盗まれたものが取り返せて良かったです」
目の前で宝棒に突かれるなり、捷疾鬼が光に包まれたかと思えば消失したのをどう解釈すべきか見出せないまま、それでも女はどこかすっきりした顔をしていた。自分の中で何がしかの答えが見出せている顔であった。
「あなたのおかげで舎利が無事に取り戻せました。なにか礼をさせてください。あなたの勇気にふさわしい礼を」
「別にお礼だなんて。手当てしていただいたので充分です」
「そういうわけにいきません。今の私があなたに与えられるものといえば、これくらいですが」
そう言うと男は、女の足元にひざまずいて、手を差し伸べる。と、その手のひらには「゛」があった。
「これは?」
「見ていてください」
すると、男の手の中の「゛」が女の履いている靴の左右それぞれに付着した。かと思うと「゛」は大きく広がり、白く光放つ翼となる。
男は病の体をいたわるようにゆっくり立ち上がり、名乗った。
「私の今の名は韋駄苦天。いえ、委濁点。濁点を委ねる者。病のためにかつての自慢の俊足は長く保ちませんが、これをあなたに授けられるなら本望です」
女は妬婦である。いや、妬婦、「とふ」であった。
今は「゛」を授かり、「とぶ」となった。
靴の翼はゆっくり優雅に羽ばたき、女は目の覚めるような青空へ昇ってゆく。
「こんなことってあるんでしょうか」
我が身に起こったことが未だに信じられない女は、地上の委濁点に問いかける。
「ええ、とてもよく似合っていますよ」
委濁点は知らなかったが、この女にこれほど似合いの姿があるわけもなかった。
女の名はエルメス。嫉妬や疑心で自縄自縛になり、いつしか翼を失い地に降りた者である。しかし、本来の己を取り戻した彼女には、もはや迷いはなかった。
「わたし、彼に会いに行きます!」
委濁点に言うが早いか、エルメスは翼を翻す。
彼の心にいる誰かを気にするより、彼を愛している私を、誇れる私になる。
二度と揺るがぬ決意を胸に、エルメスは上空へと翔け昇ってゆくのだった。

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