猫舌は嘘を吐かない。

蒲公英

 四月一日。僕はこの日を待ちわびていたのだろうか。クリスマスを待つ子供のように、カレンダーを塗り潰し始めた頃は自然と笑みがこぼれたものだが、三月の中旬も過ぎれば夏休み終盤の学生気分。それも宿題を終えていない。昨晩はもはや締切を間近に控えた作家にでもなったように、時計を見ては胃がきりきりと悲鳴をあげていた。
 かくして当日を迎えた僕のちっぽけな脳みそは、儚くも空白の中に溶けていた。
「冷めてる」
 喫茶店に入ってかれこれ一時間が経とうとしていた頃だった。テーブルを挟んで相対する彼女は唐突に、口をつけずに残していた僕のコーヒーを奪い取ると、それを一気に飲み干した。そうして眉間に皺を寄せ、一言だけ呟く。冷めてる。それはコーヒーに対してのものか、はたまた僕の態度に対してか。
 空にしたカップを静かに置くと、真正面に僕を見据えてくる。彼女を呼び出して喫茶店に連れてきたはいいものの、それからろくな会話も展開できない彼氏は詰られても仕方がない。バイトの頃に世話になったマスターが、カウンターの向こうから心配そうにこちらを見ている。
 虚空となった机上のスペースに視線を落として、震える心臓を撫でるように、深く長い呼吸を繰り返した。
「冷めてる」
 二言目は二度目の苦言。今度こそ本当に僕に向けたものだろう。
 少しだけ視線をあげて、それでも並べられた二つのカップまでが限界で、視界の端には決してつり上がることのない口角が見えていた。
 彼女のコーヒーも既に空となっていた。ウェイターが机に置いたと同時に手に取ると、やはり一気に飲み干した。ホットコーヒー。僕には到底真似できない芸当だ。乾杯のビールも、お風呂上がりの牛乳も、彼女はいつだって一気飲みだ。そんな男気に僕は惹かれていた。
「で、話ってなに」
 きた。ついにきてしまった。宿題をやってこなかった子はいますかと、そう問われた子供は、宿題はやったんですけど持ってくるのを忘れましたと返す。そして怒られる。
 僕は言葉を考えてきた。そのことに間違いはない。そしてその言葉がどこかへとんでいったことにも間違いはない。代替えの言葉も閃いてはいたが、それすらも言い淀むほどに僕の心は保守的に傾いていた。
 なにも猫舌だからコーヒーを飲めなかったわけではない。喉が乾いていなかったわけでもない。僅かでも確かにあった意気込みを飲み込んでしまわぬように。そして途中からはそれを逆手にとって、いざとなったら飲み込んで、またの機会にすればいいだろうと画策していた。逃げ道を用意した。したのだが、愚作が保ったのもたった一時間。背水の陣。
「大事な話って、なに」
 空のカップ。からからとスプーンをまわす。彼女の表情を窺おうにも、どうにも視線の稼働範囲は狭いまま。
 大事な話がある。そう言って呼び出した彼女が待ち合わせ場所に現れたとき、挨拶よりもまず先に安堵の溜め息が出たものだ。
 今日は四月一日。エイプリルフール。互いに疑心暗鬼になってしまう日。付き合って丁度七年。この日を迎える度に彼女に騙され、笑いのツボは今でも分からないが、楽しそうに笑う彼女をより愛しく思える日であった。
 そう、今日は特別な日。
「結婚、してほしいんだけどさ」
 逃げ道を作り女々しく粘ったわりにはあっさりと、口を衝いて出た言葉はあまりにも軽かった。口にしたところで、彼女の耳まで辿り着かないのではないかと思うほどであった。我ながら情けない。臆病にも震える心は、届かなければいいとさえ思ってしまっていた。
「そう」
 ふっと消え入りそうな返事だった。僕はそこでようやく視線をあげ、そうして彼女を捉えた。今日この日、視線を合わせるのはこれが何回目となるだろう。あの時、コーヒーを一気に飲み干した彼女は、どんな顔をしていたのだろう。繊細な、緊張の仮面を被った彼女だったのだと思い返す。
 いつから泣いていたのだろう。
「飲み物ってさ、言葉も一緒に飲み込めるって言うじゃない」
 彼女の口振りは変わりない。頬を伝う涙にも気付いていないようで。スプーンから手を離し、カップを両手で包む。自嘲気味に口角があがる。ああ、待ち合わせ場所で彼女の姿を見つけた僕は、きっとこんな顔をしていたのだろう。
「別れ話かと思ったの。最近ずっと思い詰めた顔をしていたし。今日だって、一度も笑ってない。ずっと冷たいまま。だから、別れ話かと思ったの。連絡があって、大事な話があるって。もし別れ話なら、言われる前に、嫌だって、叫びたかった。笑っちゃうよね。らしくないもん。だから、いざとなったらコーヒーと一緒に飲み込んでしまえって。最初の一杯で引っ込んだんだけど、だめね、堪え性がなくて。口元まで出てきたから、貰っちゃった、コーヒー。で、弱気な自分、嫌いだから。なんとか話だけでも聞かなくちゃって、思ったの。別れ話なんて上等じゃない。間髪入れずに、あんたなんて大っ嫌いって言ってやるつもりだったのよ。せっかくのエイプリルフールだもの。そしたら、なに。私はそうやって構えていたのに、いつもいつもずるいわよ、あなたは。逃げる準備していたくせに、私が手を掴んだら、いきなりだもの。流れとか、ムードとか、なんにもなし。喫茶店てなによ。ずるいわよ、ほんと」
 瞬き一つなく、揺れる瞳で僕を見つめたまま。緊張は溶け出して、紅潮した彼女の頬を濡らす。
 断られるのではないかと、そう思った僕は逃げ道に駆け込んだ。同じくそう思った彼女が追いかけてきた。袋の鼠は二匹。端から見れば雌雄の区別はつかないだろう。
 四月一日。エイプリルフール。だからとは言え、互いに互いを信じることのできない僕らは、上手くやっていけるのだろうか。客観的に見れば、その危うさに、早まるなと手を出していただろう。しかし、僕は信じている。彼女の揺れる瞳、涙を、主観的に。
 騙されたことは何度もある。その度に僕は落ち込み、彼女は笑う。そう、彼女は笑ってくれる。騙される理由としては上等じゃないか。
 気が強いけれど臆病な、矛盾を孕む彼女を僕は愛しているのだから。
「僕と結婚してください」
 きっとこれも、用意してきた言葉とは違うのだろう。だけどもうそんなことはどうでもいい。着飾った言葉よりもまず、彼女を落ち着かせることが先決だ。
 そこでようやく彼女は涙に気付いたのか、慌てて袖口で拭っていた。そうして赤く変わった瞳で僕を見返す。頷く。口を開く。
「もっと幸せにしてよね」
「するよ」
「嘘だったら怒るわよ」
「エイプリルフールなのに」
「幸せにするのは今日だけじゃないでしょ、馬鹿」
 四月一日。エイプリルフール。特別な日。僕はこの日を待っていた。同じように逃げ道を作った上での、人生初告白ももう七年前。来年からは自然とこの日を迎えることになるだろう。それこそ、永遠に。
「まったく、舌、火傷しちゃったじゃない」
 彼女の顔が赤いのは、照れかそれとも怒りからなのか。僕はそこでようやく笑って、カウンター向こうで同じく笑みを浮かべたマスターにお冷やを頼むと、ふてくされた彼女を置いて席を立った。
 トイレの前を過ぎて、更衣室へ。
 用意されていた制服へ早々と着替えを済ませて廊下に戻ると、マスターに肩を小突かれた。無理な頼みを快諾してくれたからこその今がある。冷やかしくらいは安いものだった。
 お礼を考えつつ、トレイの代わりに嘘を一つだけ持って席へと向かう。彼女は頬杖をついて窓の外を見ている。これは早急にご機嫌を取らなくては。
「お客様、お冷やをつがせて頂きます」
 振り替える彼女の手を取って、その薬指に僕の想いの真実を。
「......嘘つき」
 嘘じゃないよ。再び涙ぐむ彼女の頭をなで、僕はそう呟いた。

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