月に帰る

ムラサキハルカ

「私、これから月に帰らなくちゃいけないの」
 ある日の夕方、そう言われて貴志は呆然とした。正面には困ったように目を泳がせる近所のお姉さんがいる。
「もしかして、お姉さんはぼくを馬鹿にしてるの」
 小学五年生になったばかりの貴志には、まだまだ知らないことが多かった。そんな風に物事を知らないなりに、月に人が住んでいるという話が普通に考えればありえないことだと理解している。一方で例外もあるかな、という気持ちが沸かなくもない。そう思わされるのは、
「信じられないかもしれないけど、いたって真剣だよ」
 お姉さんのアーモンド形の目がいたって真剣な色合いを宿していること、そしてなによりも先程からぴょこぴょこと頭の上で動いているうさぎの耳が本物のようだったからにほかならない。
「もしかして、その耳って本物だったの」
 お姉さんがバイトをしているレストランには、貴志も母親とともによく訪れていた。注文を取り、料理を運び、レジ打ちをする彼女は、いつも長く伸びた耳をぴょこぴょことさせていた。物心が付くかつかないかといった頃、貴志はお姉さんの外見を当たり前のものであると思いこんでいた。常識のようなものが芽生えはじめたあとも、店の雰囲気が全体的に可愛らしいものだったことと、時々やってくる町の外のお客さん以外は気にしていなかったところから、店の方針かなにかでそういうものをつけているのだと理解していた。しかしよくよく考えてみれば、彼女は店の外に出る時、きまって野球帽を被っており、頭の上をまともに見せた記憶はなかった。
「そうだよ。よければ、確かめてみる」
 そう言ってお姉さんは貴志の身長に合わせて屈みこんでから頭を突きだす。貴志がおそるおそる顔を寄せると、ほのかなニンジンの甘い匂いがした。毎回、給食で残しそうになるそれの味を思い出して顔を顰めそうになりながら、耳の付け根の辺りを見ると、たしかに頭から生えているのがうかがえる。
「どうかな。気分が悪くなったんだったら謝るけど」
「そんなんじゃないよ」
 首を勢いよく横に振りつつも、貴志の心は落ち着かなくなっていた。
「お姉さんは、月に住んでいるうさぎさんなの」
「うん、そうだよ。驚いたかな」
 言うだけでも恥ずかしいような事柄に、あっさりと頷いたお姉さんの顔は、ただただ悲しげだった。それを聞いて、貴志はやはりたちの悪い冗談ではないのだな、と思う。
「どうして、月に帰らなくちゃいけないの」
 途方もない出来事が本当だと理解したあと、貴志の胸に落ちてきたのは、認めたくないという切実な感情だった。お姉さんはますます困ったように微笑んでみせる。
「元々、地球にやってきたのは私のわがままみたいなものだったから、前もって期限があったの。本当は月にいるのが自然で、今の方が不自然なのよ」
 不自然、と口にしたとき、お姉さんの顔が少しばかり歪んだように貴志には見えた。
「お姉さんは、なんで地球にやってこようと思ったの」
 なんとはなしに口にした言葉に、お姉さんは体を震わしたように見えた。もしかしたら、知らず知らずの内に彼女を傷つけてしまったのではないのかと、貴志は怯える。それに反して、お姉さんは愛おしげに目を細めた。
「幼い頃から、この星の話をお婆様から聞かされていたの。帝釈天様に身を捧げたうさぎさん、罪を犯してこの星で暮らしたかぐや姫様、羽衣を取られて帰れなくなりそうになった天女様。そんなお話しに泣いたりはらはらしたり笑ったりしているうちに、私もいつかそんな星に行ってみたいって思ったの。そして、幸運にも願いは叶えられた」
 その振り返り方は、今の話がお姉さんにとってなによりも大切なおもいでであることを示しているように見えた。
「短い年月ではあったけど、この星のこの町の人たちと暮らせて、とても嬉しかったの」
「お姉さんは今、月に帰りたいの」
 貴志は縋るように詰め寄る。迷惑をかけてしまっていると思ったが、お姉さんどこか遠くへと行ってしまうのは、なによりも耐えがたかった。彼女は名残惜しげに貴志を見下ろす。
「もう少しこの星にいたいとも思うよ。たぶん、一度帰ったら二度とこの星の土を踏むことはないだろうし、知り合った人たちの多くはとても大切だから。けれどね、これまで伸ばし伸ばしにしてきたけど、このままここで過ごし続けると、体がこの星に馴染んで月にも帰れなくなってしまうの。月にだって、置いてきた大切な生きものたちがたくさんいて、私の帰りを待ってくれてもいる。そうやって悩んで、月に帰ろうって決めたの」
 一度も目線を逸らさないようにしている貴志にも、お姉さんがいたって真剣に話しているのがつたわってきた。それでも最終的に、自分たちよりも、月にいるものたちが選ばれたというのに納得がいかず、唇を噛みしめた。
「嫌だよ。帰らないで、ずっとここにいてよ」
 気が付けば貴志は、お姉さんの小さく膨らんだ胸に顔を押しつけて縋っていた。悲しみとも妬ましさとも憤りともつかない感情に衝き動かされて、この星にとどまってくれるように訴える。彼女は優しい手つきで頭をなでる。その心地よさは、かえって貴志の不安を掻きたてた。
「私も貴志君ともっと一緒にいたかったし、連れて行けるのであれば連れて行きたかったよ。でも、ごめんね」
 時を置いて帰ってきた答えとともに、目頭が熱くなり雫がぼろぼろと零れだす。それが悔しくて悲しくて、貴志は顔を押しつけて恥も外聞もなくお姉さんを詰った。彼女はただ、ごめんね、と繰り返し口にしながら、頭を撫でてくれた。

 それから三日ほどして、月のうさぎであるところの彼女は、町の皆に見守られて、空へと昇っていった。一見するとなにもないところを足場にして、ぴょんぴょんと跳ねながら、長い時間をかけてまんまるいお月様へとまっすぐ向かっていき、やがて見えなくなった。その姿を貴志はふて腐れながら見つめて、とても綺麗だと思った。
 胸の中には、先日ぶつけた多くの汚い言葉で、お姉さんを傷つけてしまったのではないのかという心配が渦巻いたまま残り続けた。そのことを最後の最後まで謝れないまま、お姉さんは故郷へと戻っていってしまった。
 たしかにお姉さんが帰ってしまうのは悲しいことではあり認めたくはなかったが、お姉さんがそのことをお姉さんなりに悩んで決めたのは、貴志に向かい合った時の真剣さからも窺えた。それなのに、結局、自分の都合ばかりぶつけてしまって、辛い思いをさせてしまったのではないのか。こんな風にして気持ちが整理されたのは、お姉さんがいなくなってしばらく経ってからだった。もう、二度と時は戻せないのだ、と泣きそうになりながら、ただただ月を見上げる日々を送った。

 月のうさぎであるところの彼女が故郷に戻ってから長い時が経った。
 貴志は今、月面探査のための有人宇宙船に乗りこんでいる。ここにやってくるまで、随分と遠回りしてしまった。月に行かなくてはという衝動にかられて宇宙飛行士になろうと志してから、様々な困難があり、幾度も途方もない夢の前に躓きそうになっては、諦めようとした。しかし貴志は、幼い頃にできあがったと思しき小さな意地によって、幾度も歯を食いしばって立ちあがった。その結果、こうして月へと向かっている。
 果たして、苦労が報われるのだろうか。貴志の胸に宿っているのは小さくない不安だった。お姉さんはまだ月に生きているのか。そこにいたとして会えるだろうか。そもそも会ってくれるだろうか。もしかしたら顔も見たくもないと思われているかもしれない。そのいずれであっても、一目会いたいと願う。
 間もなく、月に降り立つ。貴志は瞼を閉じて、そこでぴょこぴょこと長い耳を動かしながら月の上を跳ねているお姉さんの姿を思い浮かべた。

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