空飛び鯨の旅立ち

七瀬 亜依香


「本当にいいのかい、ここで?」
「はい、場所を貸していただきありがとうございます」
 そう言い丁寧にお辞儀をするのは、まだあどけなさが抜けきらない少年だ。大きなリュックサックを背負っていたが、後ろから見ればリュックサックが歩いているように見えるだろう。
「にしても、もの好きだねえ。この時期にやってくるなんて。しかも目当てがあれとは」
「ここでは珍しくないんですか?」
「どっちかって言ったらそりゃあ珍しいかもしれないが、あれが始まると漁に出れなくなっちまうだろ? 災害みたいなもんだが村の漁師連中はピリピリしてやがるよ」
「ああ、なるほど」
 少年の脳裏にここに着くまでの道程が早回しによぎる。確かに働き盛りの男たちが昼間だというのに大勢港に集まって暇を持て余していた。目的のことについて訊ねた時、全員の顔に浮かんでいた怪訝と困惑の理由に遅まきながら思い至った。
「まあ俺にしたら今日は年に一度あるかないかの休日ってことになるから、怪我の功名ってやつだな」
 案内人の視線に釣られて少年も頭上を仰ぎ見る。立派な灯台だ。白く塗られた壁には微細な亀裂が走るが、倒す要因となるには程遠い。村を見つけるより遥か前から少年の瞳に映っていたほどの巨大さは、確かに陸からでも海からでも目印として相応しい風格を醸し出していた。
「『この日だけは、灯台に光を灯してはいけない』でしたっけ?」
「そう。おかげで久々に羽を伸ばせるってもんだ」
 灯台守の仕事が嫌いなわけじゃねえんだけどなあ、こればかりはなあ、と続く声に混じる顔の緩みと落ち着かなさに、少年も思わず頬を綻ばせた。

 終わった頃に迎えに来るから、と言葉を置いて降りて行った案内人に頷きを返し、少年は階段に背中を向けた。灯台の頂上、夜標を灯すための部屋とその周囲を覆う柵との間にある廊下に腰を落ち着けると、眼前に広がるのは果てしない大空と海原。背後に沈みゆく夕陽が浅瀬の波を赤く染め上げ、しかし水平線へ近づけば近づくほど先走りの闇が空の端からじわりじわりと滲み出している。顔面へ吹きつける潮風は夜の気配がした。
「少し早すぎたかなあ」
 少年は独りごち、上着の襟元を肌に引き寄せた。暦の上では春を示していても、日が沈めば一晩中を外で過ごすにはまだまだ厳しい。防寒の用意は怠っていないが、ここで夜明けを待たなければいけないとなるとやや心許なかった。
「仕方ない。とっておきにご登場願うか」
 横に置いたリュックサックを開けて、しばらく荷物を漁る。紙の束、食糧を入れた袋、水筒、望遠鏡、毛布。そして少年が取り出したのは、一抱えほどの青い石。
 それはとても美しい石だった。星を散らしたような光の粒が全体に散っていて、輝く青は吸い込まれてしまいそうなほど深い色合いをしている。もっとも厳密に言えば『石』ではないのだが。
 床に組んだ足の間へ抱き締めるように石を置く。そうすると石の内側から発する穏やかな熱が身体を包み、人心地ついた安堵に少年の口から溜息が漏れた。
「これなら夜明けまで保つかな」
 毛布で石ごと身体を覆いながら、食糧を入れた袋を引き寄せる。漁師飯だと聞いた揚げた魚を挟んだパンを齧りながら、少年は闇の天蓋を下ろされていく空と海を眺めていた。

 穏やかな声が聞こえる。耳に懐かしい昔語りは今となってはもう遠い過去のもの。それが記憶と結びつく前に泡沫となって消え失せたのは、遠くから押し寄せた激しい波飛沫の音で現実へ引き戻されたからだった。
 いつの間にか眠っていたようで、少年は毛布を蹴飛ばす勢いで跳ね起きた。勿論足に抱えた青い石に傷一つつけることはない。
 望遠鏡を引っ掴み、手を滑らせてしばし手の中であたふたと宙を舞う。なんとか落とさずに済んだそれを覗きこんだ少年は、レンズに映った光景へ一瞬にして目を奪われた。
 星座を残したまま白み始めた空の下、沖合で白く霞むほど泡立つ海原の間に黒い影が見え隠れする。一つ二つ、どんどん増えていく勢いは数を指折る時間すら与えない。やがて一頭が蠢く闇の中から飛び出す。身体を水面から空中へ投げ出し、その助走のまま再び海中へと戻っていく。その衝撃を受け止めた高波が灯台の立つ崖下に打ち付け、轟音が鳴り響く。その響きすら少年の笑みを阻むことは出来なかった。
「始まった……!」
 少年は望遠鏡に視線を置いたまま、手探りで紙の束を開く。何度も開いて記述の全てをすっかり覚えてしまった指は迷うことなく、目当てのページを探し当てる。古ぼけたインクで綴られた文字と、巨大な鯨の絵がそこに存在していた。
 少年が見つめる間にも、鯨たちは定められた通りに動き続ける。背中に傷を持つもの、まだ小柄なもの、一切の区別なく彼らは空中を舞う。何度も繰り返されて、その度に水面は溢れ高鳴り波を起こす。灯台の一番上にいるはずの少年が飛沫を頬に受ける錯覚を起こすほど、それは凄まじい迫力だった。
  気付けば空から闇は消え失せていた。一筋の光が海に矢を放つ。少年が慌てて望遠鏡を下ろした刹那、世界は太陽の恩恵を取り戻した。
「来るぞ……!」
 片手で青い石を抱えて、少年は柵から身を乗り出さん勢いで鯨たちの演舞へ目を凝らす。そして待ち焦がれた瞬間はやってきた。
 不意に一頭が水面から飛び出した。そしてその身体を空気に乗せ尾びれを一扇ぎすると、まるでそこもまた海原が広がっていると言わんばかりに上空へと身を翻した。その後を追うように一頭、また一頭が母なる海へ別れを告げ、新たな世界へ飛んでいく。太陽の光を浴びて、鯨たちの黒々としていた体表は次第に今この空を映したような美しい青色へと転じていった。
 少年は息をつく。いつの間にか呼吸すら忘れていて、意識して吸いこんだ空気で胸の内すら青く染まっていく気がした。
「間違いない……! 『空飛び鯨』の旅立ちだ!」
 吐き出した息は歓喜の言葉となって、再び世界の空気の一部となった。

 海を故郷とし子供を育み、そして空で一生を過ごす鯨がいる。彼らは春の朝日に導かれて空へ昇り、空気に含んだ水滴を身体に貯め込み、雨を降らせる。年老いた身体はやがて骨すら雲となり、今度は彼ら自身が水となり世界を潤す糧となる。
 祖父が語った世界の秘密の数々を、村の誰もが大嘘だと嘲笑った。竜の背中に乗り旅をしたと話したその瞳が、寂しさに揺れていたことを今でも覚えている。
 ふと、腕の中で身じろぐ感触に少年は視線を下に向ける。青い石に陽光が当たり、丸まっていた身体を伸ばしたのは小さな竜だった。欠伸を零しながら少年の肩によじ登ると、小さな竜は甘えた声を上げて少年の頬に頭を擦り寄せた。
 祖父から託された青い石が眠りにつく竜だと信じたのは少年だけで、少年が触れた途端目覚めた小さな竜を見た瞬間、旅立つことを決めた。祖父によって生前記された世界の秘密を一つ一つ確かめるために、大好きだった祖父は嘘つきなんかじゃないんだと証明するために、少年は果てしない道のりを踏み出したのだ。

 朝の風に髪を遊ばせながら、少年は小さな竜の頭を優しく撫でる。視線の向こうではいよいよ最後の鯨が、青空の中へ溶けようとしていたのだった。


Fin.

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