帽子を手にした魚の試み

ミスター・アンピチリン

 朝、目覚めるときネズミ四号の身体は決まって痙攣する。血流停滞による足の痺れといったドライアイス的なものではなく、雪原に降り立った瞬間に深呼吸をしたときのような、サファイアの如き浮上だ。映画館御用達の遮光カーテンに覆われ、スモッグ染みた根城は、時計の針を指で止めなくとも味わい深い。それでもどうしようもなく鳴り響くルビーの鼓動に急かされて、部屋をとび出さなくてはならない。
 普遍に塗れた住宅街のど真ん中、九龍城が聳えている。コンクリートの歪な増殖と、不安定な接合の果て、半世紀が経過した場末の工場は、所々亀裂が目立ち、内部が斑模様に赤茶けている。申し訳程度に開けられた窓から中を覗けば、暗がりの中に人影が蠢いている。
 「おはよう」声をかけると、特に背の低い古ぼけた椅子に腰掛けたネズミが、首だけをこちらに向けて会釈をする。グレーの作業着に“長”の字が書かれた腕章をはめている。奥に他のネズミが数匹うろついているが気づきもしない。歯車に油をさすのに夢中なのだ。お粗末なほどに失敬な最年少ネズミであるところの四号は、始業すれすれにとび込む常習犯。大小様々の先輩ネズミがベルトコンベアーの上で走り始めても、どこ吹く風で油を刺す。持ち込みのバンホーテンのココアを飲みながら準備に勤しむ。これも油の一つさ、ね。
 従業員たる下っ端&中堅ネズミさんは、程々の残業を余分にこなしながら、コーヒーを(もちろんインスタントだ)楽しみながら仕事をしている。
「歯車の精度が重要だ。手作業でもってコイツを修理しなければなんネェ。生憎お前さんには無理だ」といってろくに教えることもなく去っていったOBさんがいたが(しかも三人)、忍耐、この言葉が手中にあれば、お客様がご要望のクオリティ以上でそれなりのものが出来る。それは勿論最年少ながら他の下っ端さんよりは三年多くの経験があるだけの、OB様に教えていただく機会に恵まれたからなのだけど、しかし、しかし……四号は毛の生えていない手首にピッタリの腕時計をはめた。
 (ネズミ一号さんは割愛、頭の薄い度量のあるおじさん)
 二号さんは一昨年やってきた、片道十キロをロードバイクで通勤する肉体派。仕事に対する姿勢や態度は大雑把だけど、結果を求める姿勢は丁寧で、妥協がない。嫌といえない性格にも整理をつけることの出来る真面目な方。
 三号さんは昨年やってきたおじさん。世界的大手自動車会社Tの期間工として、我が社とは比べ物にならないハイスピードなコンベアーを回していたという。この頃が身体に馴染んでいるのか、とにかく整理整頓に力を入れる。第一位を追い求めて常に最新式を導入していくが故に仕込まれた一大システムは、半世紀前のロートル回路においても効果覿面。一休みが後の効率を得る。
(四号さんはといえば……腕時計が鼓膜に響いて仕方がない)
 ちなみに工場長さんは鼻唄が得意で、頻繁に電話相談を受けている。不思議なのは雌ばかりという点か。一時間に一回は会社に電話が掛かってくる。
「工場長の妻です」「工場長の妻でございます」「うちの工場長いますかね? 」「うちの工場長出して! 」……うん? 鼻唄が聞こえるね。
 
 先日から工場がギスギスしている。と、いうのも先日うちのハムスター様が事務所から身体をフリフリ降りてきて(光るものを撒き散らしながらまさに降臨するのだ)、
「みなさんの努力が、このささやかなポチ袋になりました」予期せぬ温情は均等に配分されたが、二号さん三号さんは、納得がいかない模様。早々、世界一周旅行に旅立った工場長を見送った現場は、火山をひっくり返したようだ。曰く、
「製鉄場のチャーリーはよく働いたね! 」「市会議員になれそうだ! 」「ドモホルンリンクルを見つめる眼は偉大だ! 」云々……。
 四号は徐に手を挙げた。「ちょっと詩を作ってきたんで読んでみていいですか、読みたいんです、お願いします、プリーズ」

 雪をんなの鼓膜を飾りたい あの穴は鉛筆削りみたいだ 
 半熟玉子を食べ終わったところで有刺鉄線を巻きつけ 寝るときは死体のようにならず 口を乾かして暮らせ
 泥棒は泥棒に 乞食は乞食に 第四歩をすすめて 白鳥の器官の一部
 病烏(ヤタガラス)のように深夜の鐘の音(カリヨン)に打ち叩かれ 
 エーテルのような女神と悔悟と理性を道連れに二ペンスの交通費をくれ! 「ばれちゃったのか」 
 失業中のある男が 上等の素晴らしいバターの如く アルコールのレヴェルを上げて 私の肋骨(あばら)の森の奥
 Adieu pour toujours(再会の期なき別れ)

 四号はコーヒーのシャワーを浴び、芳ばしい香りをさせながら足元に転がったマグカップの破片を撤収した。遺骸は三体に及んだ。体は黒いが心は明るい。
 どれだけ極上なディナーを求めても、可能性は太平洋に消えた。陰湿で不毛だ。だから再び全てのコンベアーが回る。グルグルと、軋みながら始まり、不満も踊る。だが、どれも皆他所の子だ。叩く足音もあれば(グルグル)一歩一歩に内臓を抉られるものもある(グルグル)二号さん三号さんは一年前入社したものの、当時免許皆伝者もこの地を去り、レクチャーも僅かだったが(グルグル)コンベアーの上で必死に走り続けている。みたことのない工夫をしている。四号は金属アレルギーの手首を嬲りながら、腕時計の居場所を定めるのに逡巡していた(グルグル)。
 基本的に黙々と、あれこれ囚われることなくコンベアーは回る。黙々の中に長短様々な時間があって、パッと見、法則性のない玉石混合の集団なのだけど、どれが宅配されるのか、何カラットになるのかはお客様次第、当店では如何なる理由でも返品は応じかねます、という代物。脊髄的だけど、脳味噌的で、プルプルというよりは、バッサリ切り捨てられるようだ。
 最初に詩の作り方を教えてくれた背の低いおじさんは、いつも帽子を被っていた。帽子で詩を作るのだと教えてくれた。これは時間と手間さえ惜しまなければできた。彼の弟が教えてくれた方法は、そうもいかない。彼は呼吸もせず、ひたすらに走り続けて、何処かにいってしまった。その真似をするのは「素晴らしい」と聞いてはいたけど、しり込みするものだった。でも、重い腰を上げてみようと思う、今すぐに。 
 
 私は走りたい 泊まることなく走る無尽蔵のエンジンが欲しい きっとタルホの星の気ぐるみを着たらわかると思ったから この道を眺めてみた 
 それだけじゃあない ライフの洗礼を済ませたZ・Kに憧れた  彼の芸術に対する一方的な信仰を 現代にも通じる真の宗教と信じて それでも酒には溺れまい 酒はいけないよ酒は 酔うてしまうではないか 私ははっきりと目にしたいんだ 
 星を 星を 星を 早々を眺められるもんじゃない 誰にだって眺められるもんじゃない 憧れもある しかし内なる衝動 血の衝動 吐き気をもよおす時もある 歌うことに激痛を感じ ああ謳いたいなぁ という漠然とした声と 漠然でしかいられぬよ、という 歪な装置に唾を飛ばし 詩を感じ 死を感じ 感じつくして欲に戻る  私は贅沢ものだ どこまでも求め続けて 言葉だけ 体の動きは指だけだ 贅沢病だい 不幸な贅沢だ この不幸な贅沢が栄養になるのが この道だけだと信ずる 信じたいから信ずる 根拠はない 信仰なんてそんなもんだ 理屈などない 如いていえば屁理屈だ そんなことは知っているんだよ
 この果物野郎 立つな 這い蹲れ 血反吐はけ 匍匐前進し 空から舞い落ちる無数の瓦礫を浴び 飲み込み ひき潰されながら進め 
 きっと光が見えてくるよ 星の光が
 
 夜の帳に沈んだ九龍城が佇んでいる。誰もいない。お星様が綺麗、瞬いている。ふと、風の匂いがしたので振り返ると、羽の生えたライオンが私を見つめている。痙攣する頭を揉みしだきながら、無性に報われた気がした。

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