天使と妖精

檀敬

 自室に入ると同時に天井が明るくなった。ヴェネラは、明るすぎる照明を少し暗めの青い光に調節した。ベッドに腰を下ろす時に右手がデスクに触れた。その勢いで積み上げられた書類から小さな紙切れが落ちた。拾い上げてよく見ると、ヴェネラと男性のツーショット写真だった。
「一年前の写真……ボブはどこへ召されたのかしら?」

「今日も残業なの、ボブ?」
 俺に声をかけたのはヴェネラだった。彼女は俺に気があるようだが、俺にとって彼女は『頼りになる後輩』で『かわいい妹』でしかない。それに俺には女房と娘がいる。
「稼ぎがないと家族を養えないからな」
「ジョブ・ルールに違反していないでしょうね?」
 彼女は心配そうに尋ねる。俺は首を横に振ったが、実際は『作業時間の上限なんてクソくらえ』だった。それ以外で金を稼ぐ方法を俺は知らないから、仕方がないのだ。
「だから、あの女(ひと)との結婚は止めた方が……」
「ヴェネラ、そこまでにしてくれ」
 言葉をさえぎりながら俺がにらむと、バツの悪い顔をした彼女はそれ以上のことは言わなかった。
 そうだとも、ヴェネラ。君に言われなくても、あの女(おんな)と結婚したことが、間違いの根本的な原因であることくらいは承知している。それでも俺はあの女と結婚したかったのだ。だから後悔はしていない。
 結婚前からひどい女だと分かっていたさ。金遣いが荒い道楽女だ。だが、あの女が時々見せる寂しい表情は本物だと俺は信じている。それ故に離れられないのだ。それに三歳になる一人娘のジュディがかわいくて仕方がない。たとえ俺があの女を捨てたとしても、ジュディだけは絶対に手放さない。そのためにも俺は稼がないとダメなんだよ。
「心配をさせて申し訳ない」
 下を向いて小さくもらした俺の言葉に、ヴェネラは明るいトーンで返してくれた。
「くれぐれも気を付けてね」
 俺はフェイスガードを閉じてエアロックへと向かった。

 今日の作業中に起きたアンディとのアクシデントを思い出しながら写真を見るヴェネラの心に、やるせない気持ちと安堵の気持ちが複雑に入り混じる。
「アンディは生還したわ。今日は上出来よね、ボブ?」
 ヴェネラは苦笑いしながら作業服を脱ぎ、シャワーカプセルへと向かった。

 ここは、金星の高度五十五キロメートルに浮遊している『フィフティ・ファイブ』というドーム型都市だ。この高度には硫酸雲が漂い、都市の部材は腐食して硫黄が付着する。その保守には部材の交換と硫黄の除去が不可欠なのだが、今現在は人間が手作業で行うしか方法がなかった。
「大丈夫か、ボブ?」
 エアロックを出た途端にふらついた俺に、仲間が声を掛けてくれた。俺はすぐにGJサインを出して返答した。
「今日のスーパーローテーションは激しいようだぜ」
 仲間は俺に失笑を浴びせながらも仕事の指示をくれた。
「俺たちはもっと先のアンテナで作業を行う。ボブ、君はエアロック付近の腐食した部材の交換を行ってくれ」
「了解した。ピッカピカのエアロックにしておくぜ」
 俺の個人的事情を理解した上で、今まで通りに俺を扱ってくれる仲間の気遣いがうれしかった。
 俺は、安全ベルトに取り付けられた二つのカラビナの一つ目を、腐食がかなり進んだ安全バーに取り付けた。
「二つ目のカラビナを……ん? どこにあるんだ?」
 カラビナを手探りで探して体をよじったと同時に無意識で左足を踏み変えていた。踏み変えた時、左足の靴の裏に層状になった硫黄の大きな塊が付着してしまった。
「しまった!」
 口にした時には遅かった。硫黄の塊が靴の磁力効果を相殺する。磁力効果がない靴は床面に密着しない。密着しない脚は俺を転ばせる。転んだ俺は床面を滑る。滑った俺の体と取り付けたカラビナとを結んだザイルが伸びる。ザイルが伸びてピンと張った時点で全ての動きが停止した。
「危なかったぜ」
 一本のザイルで俺の体を十分に支えられる規格だったことに感謝した。俺はザイルをグッとたぐり寄せたが、妙に手応えが軽く、俺の体にも踏ん張りが効かなかった。
「どういうことだ?」
 言葉にした時点で、俺は自分の体が宙に浮いていることに気が付いた。冗談のつもりで仲間に言った「激しいスーパーローテーション」に吹き飛ばされていたのだ。
 俺はザイルをたぐり寄せようとするが、スーパーローテーションの激しい流れがそれを阻止する。俺の体は何度も床面に打ち付けられ、その度にザイルが安全バーとこすれ合っていた。腐食してギザギザになった安全バーがヤスリの役割を果たし、打ち付けるザイルにほつれができていた。そして、ザイルのほつれはみるみるうちに広がっていく。
「ヤバッ!」
 そう思った時にザイルがプツリと切れた。同時に床面やエアロックが視界からズームアウトした。次の一瞬でフィフティ・ファイブのドーム全体が視界に入り、有無を言う間もなく豆粒になり、点となり、ついに視界から消えた。
 しばらくの間、俺はスーパーローテーションとともに硫酸雲の中を飛んでいた。しかし、揚力や推進力を持たない俺は次第に下降し始めた。下降に伴って加圧と加熱が俺を襲い始めた。与圧服を容赦なく締め付け、また与圧服がトロトロと溶け出した。悶絶を超えた圧力と蒸し焼き地獄の温度の中で、俺の耳にこんな会話がかすかに響いた。
「何かが落ちてくるわ、イシュタル」
「アフロディーテ、放っときゃいいのさ」
「このままだと死んじゃうよ。どうにかできないの?」
「ラーダ、今回も特別よ」
「仕方がねぇ。例の【妖精】にしてやるぜ、ラーダ」
「イシュタル、アフロディーテ、ありがとう。」
『最期に美女たちのささやきを聴けて良かったぜ』などと考える俺の意識は、かなり『もうろう』としていた。
 長い時間を『もうろう』と過ごした俺は、地獄に行き着くと考えていたが、少し違うようだ。意識は人間の『俺』だったが、姿は人間ではなかった。与圧服はキレイに消失し、腕が四本で脚が四本の体になっていた。ピンと伸ばした八本の手足の先から頭、胴体までを白い半透明の膜が包み込んでいた。その膜が翼面となって硫酸雲に浮かび、同時にそれで飛行も行い、硫酸や硫黄から体を守っている。手足が増えたのはこの膜を制御するためのようだ。
 俺は、この体でスーパーローテーションとともに金星を周回した。どのくらい周回したかはもう分からない。人間としての機能が低下しつつあるために記憶が不鮮明で、記憶すること自体の必要性を感じなくなっている。
 つい先ほど、硫酸雲に衝撃波が伝わった。近くにいた俺は様子を見に行った。硫酸雲の中を落下するモノは『ゴンドラ』ではないのか? 俺は上昇して硫酸雲の上に出ると、そこに巨大な風船があり、目を凝らすと二つの人影が見えた。その一つは既知の人影だと、俺の直感がささやいた。
「ヴェネラ!」
 発音する寸前に『俺』の意識が消滅した。苦くすえた雲の中で、ふんわりと浮いて漂うだけの生きものに……。

 シャワーを浴びたヴェネラは、緩いナイトウエアを着てベッドに潜り込み、アンディとの仕事を振り返る。
 外部活動を終えて、ヴェネラとアンディはエアロックに入る。気圧調整中、アンディは、ヴェネラに接近してアンディ自身のフェイスガードをヴェネラのそれにぶつけた。
「ヴェネラ、私を助けてくれてありがとう。感謝のキスを君にしたいのだが、与圧服がこんなに邪魔だとはね」
「アハハ、アンディったら!」
 ヴェネラはアンディの言葉に笑いながら胸が熱くなった。そして、アンディは緊張した声で言った。
「突然だけど、ヴェネラ、私と一緒にご飯を食べないか?君とゆっくり話がしたいんだ……うむ、女性を誘った経験がなくて上手に言えないのだが、どうだろうか?」
 エアロックのサインがグリーンを表示した。
「返事は与圧服を脱いた後でね。それでいいでしょ?」
 ここまで思い出すとヴェネラは一人、顔を赤くしてブランケットを被った。ブランケットの中で照れながらも「アンディとのディナーは何を着て行こうかな?」と、心をふんわりと天使のように漂わせているヴェネラだった。

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