やさしくて痛い

丘せつひ

8月の雲はメレンゲのかたさ。
握れば指から、あふれて落ちる。
彼が見上げた空も、そんな塊がぶかぶか沢山連なっていて。
「こりゃ降るな」呟きながら早める足音。丘を越え、海へと続く一本道。
きつい日差しのコントラスト。
色の境界に曖昧さは無く、何もかもがそこに有ると主張する、視界の中。
濃い影をつくるのは体の真下だけで、ずっと一緒に旅してきたこの相棒も、乾いた地面へ吸い込まれそうに、彼には思えて仕方が無かった。
周囲の、しなびたクローバー達は、枯れる寸前。なぎ倒れ、風よ雨よと瀕死の声が聞こえるよう。
彼だけが歩く丘。
緩やかな傾斜がメレンゲの雲を目指して昇っている。
照り返しに目を細めて眺めると、湧き立つ陽炎。まだ先か。
「いや……もう、いっそ降ってくれていい」
滴り落ちる先から、汗は蒸発しているようで、長袖のシャツは乾いて素肌に心地は良かった。

それにしても、暑さと眩しさが彼にはこたえた。
北から歩き始めた頃には、まだ雪が残っていたのに。
半年。
いくら何でもかかり過ぎた。
残してきた妻や子や、家畜を思って、一寸、早めた足が鈍くなる。
少しの後悔。
それは今に始まった事ではないけれど。

母親の訃報が彼へ届いたのは、年の暮れ。あと3日で新年という、雪の深い夕方だった。
若い頃、飛び出して来た故郷。
夢は前にあると見誤った甘い若者。
年老いた両親は、ずっと元気でいる筈と何故だか信じていた。
辿り着いた北の果て。
「腕一本、剣一本で、英雄になれると思ってたっけ」
愛した女を手に入れて、子ができ、両親と同じ生き方をしている事に、今更気づく。そういえば、最初に剣を教わったのは父親だった。
『男が泣くな!顔を上げろ!しゃんと立て!』思い出すのは、厳しく頑固な父の笑わない目と大きな拳骨。大きな声。
今日帰ったら、父はどんな顔をするだろう。

ほんの気紛れ、子が生まれた時に一度だけ出した手紙は、届いていたらしい。返事は来なかったが訃報は着いた。

それにしても遠い。自分はこんなにも離れて遠くへ。どういうつもりだったのか。自問して息を吐く。
北廻りの船が、6月最後の新月まで運休するのをすっかり忘れて、春節早々家を出発してしまったのも失敗だった。
しょうがない。歩くしかない。そして半年。
8月の空の下。
登り着いた丘の頂上。開ける視界は、決して忘れない故郷の匂い。

何もないところだった。
牛と馬と鶏。羊とヤギだけ。豚はいない。
点々と散らばる、白いの黒いの。ブチのやつ。
あと少しで辿り着く、懐かしい家は一番向こう。
空は大急ぎで、雲を持ち上げにかかっている。遠くで地響きに似た音も聞こえ始めた。
「急ごう……」
坂を下れば、もっと歩きやすい道に出るけれど。慌てて転がり落ちる姿が見えて、わざとゆっくり踏みしめる地面。
近づく家々。まばらに三軒。お隣さん、お向かいさん。そしてやっと彼の家。
「……え」
荷物を置いて、扉の前で。違和感にうなじが、ざらりと産毛立つ。
打ち付けられた扉。
人の気配が無い窓。
「オヤジ?」
裏に回っても同じ有様で、夏草だらけの庭で立ち尽くす。
そのゴツいブーツの爪先で、トカゲが一匹、干からびて死んでいた。
「どうして……」
蓋された井戸を開き、つるべさえ無い事にも呆然とする。

「おい!!」
背中へかけられた聞き覚えのある声。
お隣さんで幼なじみ。子供のままの面影が、彼の強張った肩を溶かす。
「何だお前!今頃帰ってきやがって!遅えっ!遅えんだよぉっっ……!」
言葉の最後が、号泣になっていく。
その大きな手が、彼の頭を抱え込む。
「オヤジは……俺、手紙貰って……」
「そうさっ!オバさんが仲秋祭ん時に亡くなって、先月オヤジさんもっ」
育てている家畜と同じ臭いの体が、しがみ付いて泣きじゃくる。
「急に弱っちまって……村の……みんなっで…っ看取って……」

思わず体を捩って、彼は扉を蹴破った。弾け飛ぶ蝶番。巻き上がる埃。
部屋の中は、記憶と殆ど変わらない。
古い暖炉の前まで五歩。しゃがみ込み、立てなくなる。饐えた臭いも覚えている。なのに。ここに誰もいないなんて。
「う……お……」出るのは呻き。固まる感情。途切れる思考。

ーー 突然
何も見えなくなる完全な光。轟音。
飛び上がる程の衝撃で、ガラス窓が枠ごとビリビリ軋む。
とうとう弾けて破れた空。
「うっうおおっ!ヤベエ!こりゃひでぇ!おい!後でうちに来いよ!羊を入れてやらなきゃヤベエ!」
慌てて走り去る声が、彼を少し呼び戻す。
「……こん…な…」
フードを外し、何もない先。宙を見る。
外は雷鳴。
溺れそうな雨音。
一気に暗くなる部屋の中。
蹴破った入口から流れてくる、湿った風の匂いが、彼の鼻の奥を刺激する。
ふと。何かに顔を撫でられた気がして、手をやると。
ふわり。
指にからむ細くて白い髪の毛が3本。
「……んだ?……これ」
思わず見上げた、頭上に冥く被さる天井に。
何かが束ねて吊り下げられて、いた。
「……っ」

母はプラチナブロンドだった。
父は黒髪だった。
2色に編まれた三つ編みの束が、風に揺らぐ。

「……オヤジ……かあさ……ん……」

ーー 待っていた

不器用な父が、どれほどの根気で編み上げたのか。自分と妻の髪を、きっと帰ってくるだろう息子へ遺すために。

やさしく頬を撫ぜたのは、先に逝った母だった。
彼は指へ絡んだ髪を握りしめ、やっと流れ始めた涙に任せてむせび泣く。

ーー 顔を上げろ。しゃんと立て

天井の束からは、父の声が聞こえた気がした。

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