レースの境界

たいら成子

 納戸を整理していたら、和美は見知らぬ紙袋を見つけてしまった。
 中身を確認することなく、捨ててしまえばよかった。にもかかわらず、つい気になって中を覗いてしまった。見知らぬとはいえ、今は懐かしい数世代前の老舗デパートの紙袋だったからであろう。高価なものが入っている期待はまるでなかったが、何か大事にしていたものではという思いからだ。
 白い糸の玉、それのカギ針。黄ばんだ婦人雑誌の切り抜きが入っていた。レース編みの道具と編み図だ。見つけた和美は、訝しげにそれを見入ってしまった。
 納戸の整理が一段落し、改めて紙袋を見やる。仕舞い込む気にはなれず、かといって捨てるのもどうかと。そもそもこんなものがこの家にあったこと自体、和美には意外だった。
 もう思い出すことも霞んでしまっていて、はっきりしない。ただ、おぼろげに見えてきたのは、自分の家ではなかったことだ。ここではないどこか。少しハイソな、誰かの家。ピアノがあって、大きなテレビがあって、リビングと呼べるような絨毯の敷かれた広い部屋があって、サイドボードのような家具のある家。土間の三和土でなく、引き戸でない鉄製の玄関がある、家の中にもドアのある家。
 そこにはレースがあった。黒ではないぼんやりした色の電話に、家の中のドアノブに、花瓶の下に。和美の家ではない、誰かの家。そこのイメージだ。
 納戸の奥で紙袋に包まれていただけあって、白い糸玉は白かった。何かの編みかけでもなく、かといって新品でもない。編み終わったのであろうか。しかしその完成品の記憶も作りかけの記憶も、和美の家の中にも頭の中にも存在しない。それがあるのは、他所の誰かの家の中である。和美の家にはないものにかけられ、敷かれたものだけである。
 自分の家に似合わないことは分かっていた。それでも、どこかに憧れがあった。今にして思えば邪魔なだけだ。いつの頃からかは、他所の家でもそれらは見かけなくなっていったからだ。
 築ウン十年の平屋で狭い庶民住宅。今時ではない波トタンの外壁に、誰かの家では家の中にあるレベルの玄関扉のついたほったて小屋。なのに小さく濡れ縁もある。其処に、世間から取り残されたように、ひっそりと暮らしている。昭和がそのまま残ったように。年老いていく母子が、ただ、ある。
 ほとんどが静かなものであった。時間だけが
ただただゆっくりと過ぎていくのをただ待つだけ。外の明るさがじんわり変わる。眩しければ昼。薄暗くなれば夕暮れ。暗くなれば夜。ただ、それだけのこと。時刻時刻で、炊事するくらいだ。
 とはいえ、ほんの時々、起こる。前兆もなく、ただ突然。
 年老いた母親の癇癪だ。
 その、ほぼ一瞬のために、和美は寄り添っていた。時の流れすらあやふやで分からないような空間に。
 やることもなく、そもそも入り用のある何かなどできるはずもなく、ただひたすらに其処にいただけであった。だからこそ、長年動かすことのなかったところを整理することにしたのであった。
 其処から出てきたレース編みの道具一式。
 なるほど、これはいいかもしれない。
 初期費用、導入費用はほぼない。いや、すでに揃っている。とりあえず始める分程度の糸もある。編み図もある。余りある時間を、和美はこれに費やすことにした。
 本当にいいのかもしれない。電源が必要なわけではない。いつでもはじめられ、やめられる。放っぽり出しても危険もなく、困りもしない。
 唯一の難点は、糸がこんがらがることがあるくらいだ。
 和美はそれに没頭した。縺れや絡まりは、母の癇癪に似ていた。普段は何もなく、むしろスムーズに進む。だがひとたび起こると、それが永遠に続くような苛立ちや憤りを覚える。そしてそれは、おそらく編んでいる時間よりも短いのであろうが、それでも底知れぬ泥沼のように、永遠ともがき続けるかのようだ。
 いつしか、そのスムーズに編んでいる一目一目も、このまま何事もなく過ぎ去ることを望む祈りの言葉なのか、それとも、この呪縛にも似た抜け出せない生活への呪いや怨みの言葉なのか、なにかそういうものを一緒に編み込んでいる気持ちになっていた。
 費やした時が、見えるようになった。
 レースで家中が覆い尽くされていく。
 はじめは電話機の下だった。それだけ編むのも四苦八苦で、どれほどかかったか、出来上がったときの達成感もあったはずだが、今では思い出せもしない。それがどんどん大きくなっていき、テレビの下や、上。テーブルクロス。下駄箱の上。花瓶の下に敷くどころではない大きさになっていった。糸は次々と継ぎ足し、継ぎ足され。それでも他の事よりはずっと安上がりであったろう。百円均一で見つけたときは、和美は心底ホッとした。必要最低限の、その日の量のみ、手に入ることに。
 ある日、それは突然やってきた。
 和美の母が、亡くなった。
 レース編みをはじめる前にすでに準備していたその時のための式次第に則り、相談も何もかも、済ませたそこにほぼ全てを任せた。和美はこの時が来るのを、レース編みで繋いでいたようなものだった。
 そんな母にも、長年ここで暮らしていたこともあってか、弔問客がやってくる。生前整理で妙にこざっぱりした家の中であったが、鯨幕の代わりとばかりに、祭壇の、そして棺にさえ、ここぞとばかりレースを敷き、かけた。和美にとっては母と過ごした無為ともいえる時間の証しだったからだ。不謹慎かとも思っていたが、どうも周りの様子は違った。
「あら、これは」
「和美ちゃんがつくったの?」
 言葉なく頷く和美に、やっぱり血には逆らえないのね、と、同行の顔見知りとそんなことを囁きながら、焼香して立ち去る者がいた。和美自身の同級生と名乗るものと、その親もきていた。レースのあった誰かの家の当人達ということを、記憶の片隅から引き出せた。
「懐かしいわ」
「昭恵さんの作ってくれたレースとおなじね」
「お手製を下さったのよ」
 あれは、母の編んだものだったのか。
 和美はようやく知ったのだった。
 あれは、誰かの家だったのかもしれないが、母の編んだものだったのか。そして、いつしか忘れられたのか。この家のように。仕舞い込まれたのだろうか。納戸の奥の紙袋のように。もしくは、捨てられたのか。
 そして人は引いていった。
 棺にレースを詰め込んだ。レースよりも白い、母の顔がある。母の全てを和美のレースで包み込むように、すべてのレースを詰め込んだ。
 焼き終わった後には、細く白い骨があり、レースは跡形もなくなった。一緒に燃やし尽くしてくれたようだ。
 残ったカギ針とほんの少しの糸玉、モチーフの編み図を小さくたたんで、世俗に疎い和美でも知っているブランドの紙袋に入れ、納戸の奥へと仕舞い込んだ。
 もう、誰も見つけてくれることはない。
 それでも和美の心は、薄いレースではあったが、世間とは遮断されていた閉塞的な世界から解放されたのだ。ようやく、澱んでいたそこに、どこかすがすがしくやわらかい風が駆け抜けた。

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