生活

水野洸也

「じゃあ、あと一日。一日だけ、我慢して。そうしたら、あなたに浴びるほど本を読ませてあげるから」。美弥音による〈書物辛抱大会〉が開催されるのはこれが初めてのことではない。今回で六回目になる。第一回目は五ヵ月前の六月に行なわれた。彼女と出会って一ヵ月経った頃のことだった。あの時僕は本を二日間禁じられた。狭いアパート部屋のいたるところに監視員が設置された。これほどの人間をすぐさまほいと雇えるほどの人脈を持った人間に今まで会ったことがないとその時に思った。読書のできない最初の期間、彼女の人脈について、それが一体どの時代に始まりどの時代まで続きそうなのかを延々と考えていたものだった。明確な結論の出ることなく(今もなお出ていない)、二日間は鳥のように過ぎていった。三日目、毛布をとり除けた僕の横には美弥音が正坐をして待ち構えていた。細長い小さな顔でそのように笑われると、僕はどうしても座敷童を思い出さずにはいられなかった。だが彼女は座敷童ではなかった。彼女の手には一冊の分厚い本が収まっていたからだった。「二日間お疲れさま。これを読みながらゆっくり休んでね」。手渡されたのは筑摩書房から出ている世界文学全集の第六十四巻だった。ページをめくると三段組みの文字列がきれいに並んでいた。後で目次を調べてみると、ルキアノスの『本当の話』という作品らしかった。具体的な内容は今ではもう飛んでしまったが、もはや伝説的といっていいくらいの正直者が、奇想天外の出来事を、それを嘘と知りながら嘘であることを隠さずに淡々と「物語る」、そういう趣旨のものだったことは今でも覚えている。今からおよそ千九百年前に書かれたというこの物語に僕は熱中してしまい、ここに描かれている出来事と自分の日常と、どちらがより世界の真実らしいかといったことを大真面目に考察したものだった。読んでいる間、美弥音は僕の目の前から正坐のまま動かなかった。左右に長く伸びたぱさぱさの髪の隙間から浮かび上がる、見ようによっては化けて出そうな妖しい笑みを決して絶やそうとしなかった。作品の内容が判然としないのは、その笑みに気をとられていたせいかもしれなかった。
 二ヵ月目から四ヵ月目に何日間本を禁じられ、どういった本がそれぞれの次の日に手渡されたのかは覚えていない。しかし先月が村上春樹の『1Q84 BOOK1』だったことは記憶に残っている。というのもこれを読むのにずいぶんと手こずったからだった。僕は彼の書く小説の全てを避けていた。彼を初めて知ったのは『海辺のカフカ』で、フランツ・カフカを愛好する身にとってはタイトルで惹かれてしまい、三日くらいかけて一気に読んだものだった。しかしそれから彼のものを収集し読んでいくにつれ、一種の「倦怠感」に陥ってしまったのだった。そこで僕はある時に覚悟を決めて、彼のすべての小説を友人に贈呈しようとした。彼もまた読書家であり、春樹の小説ももちろん所有していたのだが、こちらの言い分を聞くとあっさり受け取ってくれた。今も大事にしてくれているかどうかはわからない。保存状態が良かったから、既に現金に成り換わり、他の書物に支払われた後かもしれない。こういう事情だから、彼のこの長編小説に僕はどうしても良い気分を向けることができなかった。けれどもこれを読了しない限り、彼女の雇った大勢の監視員は僕の部屋から退いてくれないだろうし、彼女もまた、僕の前から正坐のまま動かないだろうということがわかっていたので読まざるを得なかった。以前にこのことで厄介な事態になってしまったことがあった。第何回目のことだったかは忘れたが、ついに読めなくて投げ出してしまったことがあった。その時彼女は、まるで悪魔が憑いたかのように激怒したものだった。「どうしてそんなことするの。あんなに読書を切望していたのに。見損なった」。彼女に見損なわれるのは鷲に心臓をえぐり奪られるのと同等の致命傷だったために、僕はうんうん唸りながら、それをまる三十八時間かけて読み終えたものだった。その間僕も彼女も飲まず食わず寝ずの状態だったので、読み終えた途端に僕たちはそのまま布団に倒れた。十一時間ぐっすりと眠った後、僕はまだ眠っている美弥音に気づかれないよう忍び足で部屋を抜け、その日はちょうど燃えるゴミの収集日だったから、台所に集積するあの偉大な可燃物のついでにやってしまおうかと決意したものだった。幸い、というべきか、あるいはもともとその気がなかったのか、良心の呼び声が心の内から響いてきて、その本は今でも本棚に並べられている。一生とり出されることがないのだということを思うと悲しい気持ちになる。けれども本棚のどこにしまったのかを全然覚えていないために、悲しみをぶつける術を僕は持っていない。

「どうしたの。なんだかうわついた顔だけれど」。僕は机の上に平積みになっている本の束を指差して、いや、あれをいよいよやれるんだと思うと嬉しくなってしまって、と説明する。その後で、美弥音の前で他のものに対する高揚した感情を示すのは褒められた行為ではないと考え直し、口角を少し下にずらす。彼女の反応が予想していたよりも薄かったため、僕はわざわざ立ち上がり、机の上に平積みになっている本の束の中から『若い芸術家の肖像』だけを抜き出して彼女にその表紙を見せつける。その際期待に満ちた気持ちを全面に表すことなく、さりげない感じで。彼女は親指を唇に当てながらじっと見つめるが、やがて僕からこれを奪い取ってしまう。
「駄目よ、それじゃ。これを読む前に、私があなたにとびきりの本をくれてやるのだから、まずはそれを読まなくちゃ。そうしたら『若い芸術家の肖像』はあなたのものよ。でも読み終わるまで、これは私のもの」。わかったと僕は返事をする。その後で、平積みの本のバランスが悪かったため、手の平を使って上手に整えていく。その間、彼女からの視線を後ろから感じ続けている。彼女はさっき僕がしていたみたいに、『若い芸術家の肖像』の表紙をこちらに見せつけている。岩波文庫版で、そこには小さい文字でちょっとした文章が書かれており、ジェイムズ・ジョイスの当時の写真も載せられている。僕は美弥音が、その肖像にキスをするのではないかと危惧してしまう。本を整す間も心配は続く。目を離すと彼女の顔は常に、ジェイムズ・ジョイスの肖像に近づきつつあるのだ。僕が手を突き伸ばして、彼女と肖像との接近を妨害するたびに、彼女はこちらにいたずら好きの栗鼠みたいな目を向けてくる。そのせいで本の整理にいつもの何倍もの時間がかかってしまう。
「彼らは不眠不休よ」。休憩中、美弥音は僕の隣でふとつぶやく。彼らって誰のこと、と僕が聞くと、彼女は言葉の代わりにある方向を指差す。そこでは二人の監視員がベランダに続く窓を新聞紙で拭き掃除している。罪滅ぼしなのか、彼らは僕の監視以外にもさまざまな用事をこなしていた。イヤホンの調子が悪いのを彼らのうち一人に説明すると、わざわざ家電店に行って丈夫なやつを買ってきてくれたほどだ。だが彼らにできるのはそんなことくらいで、専門的なこととなるとまるで駄目だった。エアコンの修理だとか、夕飯の献立の立案だとか、節約術などに関してはとんちんかんなばかりの連中だった。窓掃除にしても同様で、彼らは二人して何かひそひそ言い合いながら(こちらにその声は届かない、なぜなら彼らはベランダ側にいるからだ)、不器用に手を動かしている。そのくせ、素人目から見てもすぐにわかるほどの単純なミスを彼らは犯し続けている。つまり、汚れは窓の内側に存在しているのに、それがいつまでも落ちないとばかりに外からその箇所ばかりこすっているのである。
「私がここにいる時はいつも、彼らは休まないの。本当は四十日くらい断食で生きていけるのだけれど、それじゃあさすがに哀れだから、食事の時間くらいは確保してやっているわ。その間は代理が駆けつけるのよ」。彼女の説明は続く。タフな世の中になったものだと僕は監視員を見ながらしみじみ思う。今でさえそうなのだから、十年後にはどうなっているかわからない。何も食べずに生きていける時代がそのうち到来するのかもしれない。そんな時代になっても本は生き残っているだろうかと想像しないではいられない。もしそうなったら二日読まないだけで死んでしまう僕みたいな人種はどうなってしまうのか。その頃にはもう自分は死んでいるから問題ないが、後に残された人たちを思うと涙が出てくる。どうしたのと美弥音が寄り添ってくるので、僕は黙って監視員たちを指差す。
「あれでも彼らは必死なのよ。でも、許してあげて」。慈悲深い彼女の声に、僕は泣きながら頷く。明日、彼女がどんな本を与えてきてくれるのか、それをさしあたりの楽しみとしよう。

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