真琴の行方

かみたか さち

 からり
 入り口上部の鐘が鳴った。扉に掛けられた札が翻る。
 外気の冷たさと共に、女が入ってきた。長い髪を乱し、頬から血の気が失われている。息が荒かった。
 カウンターで、グラスを磨いていた男が顔を上げる。女の姿を認めると、手を止めた。
「いらっしゃいませ。柚羽さま」
 女は返事をせず、室内を見回した。視線が落ち着かず、しかし強い意志を持って動く。
 椅子に囲まれたテーブル。カウンターに置かれた装飾ランプの裏。アールヌーボー調のランプに明かりは点っていなかった。爪先立ち、カウンターの後ろも覗き込む。
 男は、整った顎鬚を撫でた。しばらく女の動きを見守り、やがて壁際のカウンター席を勧める。女の定位置だ。
 女は答えず、二度三度口を開け閉めして、唾を飲み込んだ。次に口を開いてようやく、声が絞り出された。
「真琴は」
 かすれている。
「シフトは入ってなかったはずです」
 男は再度席を勧めた。女が背の高いスツールに腰を下ろす。
 布巾を片づけると、男は改めて女に向き合った。
「真琴が、どうかしたのですか?」
「昨晩、家を飛び出して。それっきり」
 女は、上着のポケットから携帯電話を取り出した。指が震えている。マコトの文字を表示させると発信する。スピーカーから、つながらない旨を知らせるアナウンスが、無機質にもれてきた。
「だめだわ」
 液晶画面の端で、電池マークが残量僅かを告げていた。女は携帯電話を膝に置いた。カウンターにかぶさるように肘をつき、両手で頭を抱える。
「真琴の友達に聞いても、みな、知らないって。心当たりもないって」
「ご実家は?」
「分からない。昔の話を聞いた覚えがないわ」
 だめだわ、と再度呟く。
「真琴のこと、何も分かっていなかった」
 男が棚から缶を下ろした。蓋を開けると、焙煎豆が芳しく香った。
「いつものでいいですか」
「ええ、アメリカンで。いえ、いつもより濃いめに」
 乾いた音に続き、ミルが回る。豆の砕ける音に、女は息を吐いた。
「気がつかなかった。半年、同じ六畳の空間にいながら」
「男性だと?」
 男の言葉に、女ははじかれたように顔を上げた。
「マスター、ご存知だったの?」
「バイトの目的を聞いたときに」
 合点した様子で、女は肩を下ろした。細い肩からストールがずり落ちる。
「ええ、思い込んでいた。どうして真琴なら平気なんだろうって、不思議に思っていた」
 両方のこめかみに指を当て、軽く揉む。
「養父の一件で、男なんて大嫌いだったのに」
「最初にここへいらしたときも、ひどかったですね」
「同じ空気を吸うのも嫌だったもの」
 女はうつむき、口を尖らせた。
「教えて欲しかったわ」
 男は、カップを用意した。乳白色のシンプルなものを選ぶ。ミルクや砂糖はつけない。
「世の中は、冷たいですから」
 男は言いながら、ポットを手にした。水を注ぎ、火にかける。
「冷凍庫よりずっと」
「でも、マスターには」
 男は小さく肩をすくめた。
「同じ側にいますから。それを知っていて、バイト先に選んだのでしょう」
 男はタオルで手を拭いた。屈んで下の棚から物を出すと、カップの横に並べた。
「冷たい視線にさらされ続けると、臆病にもなります。真琴も、あなたに知られるのが怖かったのかもしれません」
「信用されていなかったのね」
 苦笑して、女はストールを引き上げた。強く体に巻きつける。
「性別なんて関係ない。私はただ、真琴という人に惹かれただけ」
 自分に言い聞かせる口調だった。
「真琴と、共に歩んでいきたいだけ」
「厳しい道ですよ」
「一晩考えて、覚悟は決めたつもり」
 女は、乾いた唇をかんだ。
 携帯が鳴った。野生動物の速さで、女が動く。手早く画面をタップする。声が裏返っていた。
「真琴?」
 次の瞬間、女の顔がゆがんだ。憎悪が溢れる。画面に穴を穿たんばかりに指を押し付けた。
「こんなときに、迷惑電話だなんて」
 涙を浮かべ、観葉植物の脇に飾られた写真へ目を向けた。女と真琴、髭をたくわえた男が映っている。
「置いていかれちゃった」
 細い指先が、写真の真琴をなぞる。
「やっと、温かな場所に迎え入れられたと思ったのに」
 細いポットの口から湯気があがる。女が顔を上げた。
「この香り」
 差し出されたカップに、顔を近づける。甘酸っぱい香りが立ち上った。女の頬が緩む。
「元気、出せないわ」
「真琴が淹れなくては、意味がありませんか」
 女はしばらく、淡い液面を見るともなく見つめた。呼吸に合わせ、湯気が揺れる。力なく、女は首を横に振った。
「ありがとう。いただくわ」
 薄く笑い、女はカップに口をつける。熱い蜂蜜レモンをすすった。目を閉じ、ゆっくり味わう。
 次にまぶたを開いたとき、表情から生気が薄れていた。目元にふんわり薄布を被せたように、焦点がおぼつかなくなる。
 男は、つめていた息を静かに吐いた。
 女の細い手が、カップを包み込む。
「いつも、美味しいわ」
「それは良かった」
 髭の内側で、男は老いた伴侶に微笑んだ。
 寂しくなると、伴侶の心は過去へ戻る。突然恋人が失踪した事件は、後の幸せを押しのけて女を若き日に連れ去る。その度に男は、伴侶を連れ戻すべく過去を演じる。
 老女は懐かしそうに壁の写真を撫でた。若かった女、真琴、共通の友人。
 コーヒーを淹れ、カウンターを回ってきた男に微笑む。
「あなたの髭、マスターにそっくりね」
「付け髭だけれどね」
「似合っているわ、真琴」
 老いた二人は、並んでカップを手にした。 

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