灰色の輪

沖田灯

 アキラは子どもを産んだ。月曜の夜に仕事から帰って、朝起きたらもう産まれていた。夕べ、上司に駆り出された飲み会の帰り道、学生時代の友人のユミに酔っぱらった勢いでラインして、軽く飲もうという話になった。渋谷で落ち合って学生が入るような安い居酒屋に入った。ユミも仕事関係の飲み会の後だったらしく、二人とも一瞬だけジャングルに解放された虎のようなもので、妙にテンションが高く、どうでもいいことでやたら大きな声で笑った。
「オリンピックってさ、何のためにやるの? よく分かんないけど、すごいテンション上がるよね」
 ユミはそう言ってハイボールに口を付けた。アキラは妙な気分になった。夜中なのにユミは甘いような酸っぱいような、いい匂いがした。アキラはユミの二の腕を掴み、身体を壁に押し付けて顔を近づけた。右手でユミのスカートから伸びる太ももの内側を撫ぜた。ユミは一瞬、悪夢から目覚めた人のような短い呼吸をすると、うるさい店内でも分かるくらいの大きい音を立てアキラや机の脚を蹴飛ばし、睨んだ。アキラは吐き気がしていた。ユミは5千円札を机に置くと出ていった。しばらくしてアキラも帰ることにした。店を出るまで、他の客や店員が発する言葉が全て「にくしみ」と言っているように聴こえた。
 外へ出ると、夜霧のような、雨雲のような、黒いもやもやした何かが空を覆っていた。みんな空を見上げるのとスマホに目を遣るのを交互に繰り返している。ツイッターを開くと「謎の黒煙が東京の空覆う」「テロか、大気汚染か」「人体への影響については調査中……」等々、既視感のある言葉たちが、慣れた演目を披露するみたいに踊っていた。
「どうでもいいよ。本当、どうでもいい」
 吐きそうなアキラは呟いた。何に対して言っているのか、自分でも分からなかった。
 子どもは枕元で跳ねていた。少なくとも人間ではなかった。アキラの精液と思しきぬるぬるした固まりの上で、そこから逃れようともがいている。魚のように何を考えているか分からない眼で、どこを見ているかも不明だ。身体の表面は豚のような色で体毛に覆われているが、かろうじてヒトのような手足が付いている。アキラがそれを自分の子どもだと思ったのは、口の形が人間の、とくにアキラの口と似ていたからだ。
 アキラはまず、子どもを隠すことを考えた。洗面器にぬるま湯を貯めてそこへ付けた。触れてみると、表面は不思議とスマホに張り付ける保護シートのようにつるつるしていた。「お前の名前は『ユウキ』にするから」と言い残して着替え、出勤した。
 外へ出ると、夕べの霧が、身長約170センチのアキラが手を伸ばすとちょうど届くくらいの高さまで接近していた。近くで見ると黒というより灰色だった。ネットは避難を始める人の姿や、「人体に直ちに影響があるとはみとめられない」という政府発表を報じていた。ある人はそれを穢れだと言った。ある人はそれを、ふわふわして可愛いと言った。政府は通常の霧と区別するために、それを「ふわ」と名付けた。「あえて可愛らしい名前にすることで、人々に危険なものではないというイメージを植え付けようとしている」と、良識ある賢者とされる人たちは非難した。
 夜、アキラが仕事から帰ると、玄関の前にユウキがいた。アキラは目の前の光景にくぎ付けになった。ユウキは虫を捕って食べていた。自分に似たユウキの口から、ゴキブリらしきもののまだ動いている下半身が見えた。その感覚は、興味本位で初めてピンク映画を観た時に抱いたおぞましさに似ていた。
 ユウキを隠しておくことは無理だと考え、行動を共にすることにした。そう決めてしまうと、あるものをないとしていたことの方が倫理的にとても良くないような気もしてきた。外へ出たユウキは同じように跳ねたが、活き活きしているように見えた。道を歩くと、行き交う人にジロジロ見られた。改札を通る時は子どもだと主張したが、ペット料金を払いケースに入れないと通してもらえなかった。満員電車の中で、5歳くらいの子どもがケースを覗き込み、「お母さん、変なのいる。すごい気持ち悪いやつがいる」と、よく通る声で言った。つり革につかまっていたおばあさんが「嫌だ、何これ?」と狂人でも見るように憎しみのこもった目をアキラに向けた。次第に車内がざわつき、アキラの周囲には人が避けた分だけ小さな空間ができた。「ふわのせい?」と誰かが囁いた。
 不思議なことにふわは、室内へ入っても、そこが何階だったとしても、ちょうど大人がジャンプすると首を突っ込めるくらいの高さにあった。人々は次第に、あいまいなことやどちらかに決められないことがある時、あるいは何かをごまかしたい時、ふわに首を突っ込んで話すようになった。すると聞いている方は、その迷いをまるで自分のことのように感じてしまうらしかった。「口論が減った気がする」と笑う人もいた。ユウキを産んだことと、ふわが発生したことに関係があるのかどうかは分からない。ネットで調べても、似たような事例は見当たらなかった。ただ、アキラにとってふわは都合がよかった。会社でユウキについて面倒なことを聞かれたら、ふわに首を突っ込み、相手の気持ちなど考えず自分の思いだけを語ればよかったから。
 アキラはユミに「謝りたい」と、ラインを送った。返事はなかった。
 隠しごとや都合の悪いことを、ふわの中に隠したり捨てる者が出てきた。いなくなれ! と叫びながらふわの中へ物を投げ込む(つまり上に投げる)と、落ちてこなかった。これが問題になった。死体だろうが生きた人間だろうが、その気になれば消せてしまう。人々は外を出歩かなくなった。
 アキラがテレビをつけると、首相の会見が始まっていた。
「そもそも、ふわが発生してから国民は、はっきりした物言いをしなくなった。物事が決められなくなった。問題は解決されなければならない。たゆまぬ努力によって、答えは探されなければならないのです」
 政府はアメリカの力を借り、ふわを除染すると発表した。巨大な掃除機のようなもので吸い込むらしい。ネットには「首相会見に称賛の声」や「本当に除染できるのか疑問の声」など、テレビを見ていただけのアキラでも書けそうな記事がたくさん出ていた。アキラはそれらに目を通した後、ユウキを掴んで「いなくなれ!」と叫んで天井へ投げた。
 翌朝、除染作業が始まっていないのに、ふわは消えていた。人々は何日かぶりに抜けるような空を見た。「なんか、すっきりした」という道行く人の声がテレビで流れた。
 夜、「遅くなってごめん。ファミレスとかだったらいいよ」とユミからラインの返事があった。
 仕事が終わり会社を出ると、あちこちでケンカが起きていた。アキラも見知らぬ人に怒鳴られ、胸ぐらを掴まれ「お前、気に食わねえんだよ」と言われた。
 ユミはアキラの姿を見ると、アキラが普段だったら気付かないくらい少しだけ顔を強張らせ、その後笑みを浮かべた。ファミレスで向かい合って座った。
「こないだはごめん。本当にごめん」
 ユミは運ばれてきたコーヒーに口を付け「あれから、何考えてたの?」と言った。
 いや、あの次の日起きたらすげえグロイ生き物が隣にいてさ。多分、俺が産んだんだけど。勝手に外出るし生きた虫は食うしで、人目が気になって仕方なかった。俺、ふわがなかったら自殺してたかも。ふわをなくすっていうから、思い切ってそいつ、消したんだよ。でも、やめとけばよかった。子ども殺す親とかアウト過ぎるじゃん、人として。
「辛かった」
 頭の中に浮かんだ考えを、叩かれない程度にマイルドに翻訳して言おうと思ったが、アキラの口から実際に出たのは、その一言だけだった。は? とユミ。窓ガラスが割れた。誰かが石を投げたらしい。その次の瞬間、トラックが突っ込んでガラスは全部割れ、壁は破壊された。客も店員も避難していく。でもユミはアキラを睨みつけたままだ。
「ちゃんとこっち見ろよ。辛かった、じゃなくてなんか言えよ」
 もっともやもやして、心の底の部分でユミと分かり合えるはずの何かがあるはずなのに、何も言えなかった。行き場のない言葉の成り損ないたちが宙に浮かんで不発するのが見えた。アキラが口ごもり、頭を抱えて目を硬くつぶってもう一度開けると、ガラスも壁も人も元のままだった。ユミの表情も穏やかに見えた。
「……オリンピック、楽しみだね」
 ユミはそれを聞くと笑った。そして席を立ち、そのまま戻ってこなかった。アキラはもう二度と、ユミに会えないと思った。

感想を投稿する
ログインする※ログインしなくてもコメントできます!
コメントするときにログインしていると、マイページから自分が付けたコメントの一覧を閲覧することができます。

名前は省略可。省略した場合は「匿名希望」になります。

感想の投稿には利用規約への同意が必要です。