午前

ムラサキハルカ

 中庭の桜の木から薄桃色の花弁がひらひらと舞い落ちるのを、弘二はアパートの一階のベランダの縁に寄りかかってぼんやりと見上げていた。そうして、午前中の青空からゆるやかに降りそそぐ穏やかな日差しを浴びていると、猫のように丸まって眠りたい気分になってくる。つい三十分ほど前までは布団に包まっていて、たっぷり眠ったあとだというのに、まだ寝たりないのかと自らに呆れたあと、ふと隣を見やった。
 そこには同じように桜の木を見つめる久子の姿がある。弘二の視線に気が付いたのか、女は丸い目を合わせてきて無邪気に微笑んでみせた。直後に、肩の辺りまで伸びた髪が春の風で僅かにはためくのが見える。弘二もまた微笑み返してから、庭の方へと視線を戻した。まだ、僅かに肌寒い空気が衣服からでた肌を撫でていたが、その分、日の温かさが感じられる気がする。
 せっかくの休みの日なのになにもしないでいいのだろうか。そんな疑問が静かに浮かんできていたが、弘二はすぐに、いいだろう、と自らに言い聞かせる。遠出するほどの金もなければ、近場でこれといって行きたいところもない。せいぜい、近場の牛丼屋に行くくらいが関の山だろう。
 ふと、久子はどうしたいのだろうかと考えたところで、今のところ何の素振りも見せていないところからして、少なくともどこかに行きたいと思っているわけではないようだと判断する。元々、自らの意思を口にすることが極端に少ない女であり、ともに通っている大学内の人付き合いでもほとんど聞き手に回っている。今日にしたところ、気が付けば同じ布団の中にいた久子と目が合った時から、朝の挨拶もかわしていない。そんな言葉一つかわさない状況は、久子が弘二の住むアパートの一室に半同棲のような形で居つきはじめてからというものずっと続いている。弘二も一緒に暮らすようになった当初は、変だ、と首を捻っていたものの、そういうものだと受けいれたあとは、特に気にしなくなった。少なくとも簡単な日常生活に関しては、言葉などかわさなくともことが足りる。むしろ、無理やり喋ろうとする方が場の空気を乱すこともあり、それに気付けば二者の間では音と音のやりとりが消えるのも自然な流れといえた。今日も今日で、庭先で戯れる雀の鳴き声だとか、微かな風の囁きだとか、通りがかる車が横切る音だとかが聞こえるくらいで、弘二と久子の間では言葉はかわされない。せいぜい、距離の近さゆえに、相手の呼吸が耳に入ってくるくらいだろうか。その混ざった小さな気配だけで、目を離したあとも久子がここにいるということがわかり、弘二は小さく胸を撫でおろす。
 とりたててやることもないせいか、弘二の目は散りはじめた桜の花弁がゆらゆらと地べたに落ちていくまでの動きを追いはじめた。花弁はおおむね複数片落ちていくというのもあり、その全てを追うというわけにもいかず、おおむね、落ちている花弁の一片を選んでということになる。一片の花弁が落ちたあと、また一片の花弁を選ぶために視線を上げ、また下げるという動作を機械的に続けていると、元々あった眠気がより強まっていった。欠伸をしようと弘二が手で口を覆おうとした時、それよりも早く隣から気の抜けた音がする。間を置かずに音の出どころを見ると、久子が大きく開いた口の前に片掌を添えていた。女はすぐさま視線を合わせたあと、少しだけ照れくさそうに目尻を弛めてみせる。弘二の方もつられるようにして笑ってから、なんとはなしに目を合わせた。そうしたあと、久子が目線で部屋の方を示しながら身を翻す。弘二も少しばかり肌寒さを感じはじめていたので、女の背中を追って室内へと戻った。
 畳の上には二つの並べられた布団が敷きっぱなしになっている。こんな陽気なのだから干せばいいと弘二も思うのだが、まだ眠気と気だるさが残っているのもあって、どうにも気が進まない。その気持ちは久子も同じだったらしく、真っ先に布団へと吸いこまれるみたいにしてゆっくりと転がっている。それに合わせるようにして、弘二もまた膝を敷布団の上に下ろしたあと、後方に倒れこもうとした。その直前に、やや固い感触が太ももの上にのしかかる。見れば、久子が弘二の足を枕にしているところだった。弘二は呆れ混じりに、重いなどと考えながら、予定通り後方に倒れこむ。久子は動かないどころか、身を更に擦りつけてきそうですらある。いったい、男の太もものどこが良いのだろうかなどと思いつつ、弘二は天井の木目に浮かんだしみをいくつか数えたあとに瞼を閉じた。視界を遮るのと同時に、女がすぐそこにいるということがより強く感じられるようになる。こうしていると弘二は、人以外の動物を相手している気になった。というよりも、あまり、人といるという感じがしない。大学のサークルで知り合って、ほとんど言葉もかわしてもいないのに一緒にいる機会が多くなり、気が付けばこの家に居ついていたという経緯を振り返り、あらためて猫のような女だと思う。
 なんとはなしに、瞼を開いて僅かに身を起こすと、久子もまた丸い目で不思議そうに弘二の方を見つめ返していた。その無邪気な瞳をぼんやりと眺めていると、ただただ心が穏やかになっていく。直後に、再び身を起こした弘二は、自然と女の頭の上に掌を伸ばしていた。久子が目を細めてそれを受けいれたため、弘二は髪がぐしゃぐしゃにならないようゆっくりと手を動かしていく。その動作を繰り返していくにつれて、女の体から力が抜けていき、しばらくすると小さな寝息をたてはじめた。女の寝息を耳にして手を止めた弘二は、いまだに微かな眠気を覚えてはいたものの、再び転がる気にはもうなれず、自らの太ももに寄せられた女の顔を見下ろす。ともすれば、死んでいるような寝顔は、起きている時の健やかさこそ感じられなかったが、いっそいつまでもこのままの表情を浮かべたままでいて欲しいと思わされるようなやすらかさがあった。呼吸や電化製品の立てる微かな音、外からの遠い鳥の鳴き声などの微かなざわめきを耳にしながら、動かさなくなった掌で女の髪の細かさを感じほくそ笑んだ。
 静かな寝顔を見つめているうちに、ふと弘二の頭の中で、いつまでこんな生活を続けられるのだろう、という問いかけが持ちあがる。こんな疑問が浮かぶのも、女との始まりの唐突さゆえにほかならない。いつの間にかできあがっていた付き合いは、同じようにいつの間にかなくなってしまうのではないのか。もちろん、今ここにいる女は別れの気配など微塵も漂わせていないが、その逆にいなくならないという根拠もなかった。普段の行動を振り返ってみても、女は多分に気まぐれであり、内心でなにを考えているのかさっぱりわからない。身振り素振りで、その時々の快不快と、おおまかなしたいことはさっせられるようになったが、逆をいえば、弘二と女の間にあるのはそれだけの繋がりだった。こなしていることの多くを照し合せてみれば、付き合っている、といっても差しつかえないのだろうが、一度もそのような約束をかわしたおぼえはなく、なんとなく、それっぽいことになっているだけである。果たして、どれだけこうしていられるのか。そう問いかける傍らで、だからといって、なあなあになったものをはっきりとさせたいわけでもなく、むしろ、今の関係はそれなりに気に入ってもいる。
 とりあえずもう少し続いて欲しい。現在の願いを頭に浮かべたあと、弘二は思考を打ちきった。どのみち、なるようにしかならないのだから考えるだけ無駄なのだし、今、こうしているの快いというだけでいい。そう思い直して、女の顔をしげしげと見やる。眠りこんだ久子は起きる気配はなく、規則的な寝息を立て続けていた。弘二は女が起きないようにと注意を払いながら、掌を優しく動かしていく。髪の毛、頬、唇。部分部分をたしかめるように触れつつ、たしかに今女はここにいるのだと思う。
 次第に増してくる眠気に瞼を細めていきつつ、弘二は柔らかな春の日差しを浴びた女の寝顔を見つめ続ける。できるかぎり、面倒にならない範囲でこうしていられたら、と思いながら。

感想を投稿する
ログインする※ログインしなくてもコメントできます!
コメントするときにログインしていると、マイページから自分が付けたコメントの一覧を閲覧することができます。

名前は省略可。省略した場合は「匿名希望」になります。

感想の投稿には利用規約への同意が必要です。