ケセランパサランの憂鬱

七瀬 亜依香

 足跡の凹みに沿って湿った枯れ草が地面にへばりつく。道なき道を行く歩幅はまだ子供のものだ。
「も、もう少し平らな道はないんでしょうか」
 膝に手を置き荒く呼吸を繰り返す少年は、背筋を伸ばしざまに額の汗をぬぐう。夏の余韻を充分に残した空気は重く肌にまとわりつき、遥か高みから降り注ぐ木漏れ日はその日差しの強さにむしろ隙間を縫って突き刺さる錯覚を起こしそうになる。
「まーーだだよ」
 少年の少し前を行く影が振り返りながら笑う姿に、少年は一つ深い息を吐き出した。
 ふわり、ふわり。そんな項垂れた背中で踊るのは、綿毛のような雪虫のような不思議な存在だ。顔を上げて、疲れを滲ませながらも少年はその優雅な舞に頬を緩ませる。
「ああ、ここにもいるんですねえ。ケセランパサラン」
「もちろん」
 引き返してきた少女が大きく頷く。葉影を模様の如く映した長い髪が動きに合わせてよくなびく。少年は木々の間から透かし見える空を見上げて、蒼穹の色を吸い込むように大きく息を吸った。

 少年が数刻前にこっそり後にしたのは、山間にある村々の一つだ。綿花の生産が盛んだという土地の一角にあり、場所こそ僻地だがここ一帯で収穫される綿花は不思議な特長を持っている。
 それは再び歩みを始めた少年の周りに漂う、ケセランパサランたちの姿を見ればすぐに判る。
「本当に色とりどりですね、この子たち。綿の色は白だけだと思ってました」
 体の前に手を出せば、すうっと滑るように手のひらへ降りてくる。そんな彼らの体毛は陽光に照らされて、赤や黄や緑にと艶やかだ。
「向かい山の向こうにね、海があるの。そこで採れる貝殻を肥料にしてるからよ。貝殻の光沢とお日様の恵み、そして土の齢。その違いがそのまま色の違いに変わるの」
「へえ」
「何をどれくらい気をつければどの色になるのかまでは、まだ分からないそうよ。だから、年ごとに作られる色にはバラつきがあるのよ」
「へええ」
 どこか自慢げに語る少女を見ながら、その説明が数刻前に村人から聞いたものより詳細なことに少年は気づいていた。気づいていながら、今だけはと瞑目した。
 それより今何よりも優先したいことが、この山道を進む理由なのだから。
「それより」
 少年の思考に重なって、少女の声が耳に届く。顔を向けた先で少女は不思議なものを見るような瞳で、それでいてとても楽しそうに少年を視線に捉えた。
「どうして、あなたはあれが見たいの?」
 なんだそんなこと。少年は笑って答えた。
「約束なんです、僕と祖父との」


 息を詰めるようにして、少年は草陰から辺りを窺う。先ほど微かに聞こえた話し声に慌てて隠れたのだ。数人の声が遠ざかり、地面を伝ってくる歩行の振動すら完全に消え失せても少年は充分な時を置いて、その時を待つ。
「もういいわよ」
 少女の囁きに身を起こし、そろそろと少年は藪から離れる。
 細心の注意を払い物音ひとつ立てぬよう歩く二人の周囲は、傾き始めた太陽が照らす色彩に沿って空気の温度も変わっていく。影の長さはそのままに端から徐々に藍色を成す柔らかな闇に滲み消えていく。
 そうして、足を止めた少年の眼前に二つの海が広がった。
 一つは、谷間の村のそのまた向こうで紅を広げてたゆたう遥かなる水の鼓動。そしてもう一つは山の斜面を埋め尽くし溢れんばかりに青く波打つ綿花の群れ。異なる色彩が少年の瞳を鮮やかに染め上げた。
「すごい……! 本当にあったんだ……!」
 思考は呆然とその景色に奪われたまま、無意識に手は下ろしたリュックサックから目当ての品を探し当てる。すっかり端がよれた紙の束をめくる手つきは迷うことなく、目的のページを開いてしまう。古ぼけたインクで綴られた文字と、紙の下半分を塗り潰された青。そして。
 ふわふわと、少年のそばをケセランパラサンが漂う。その体は祖父の記述そのままに青い毛を纏っていた。
「間違いない、『ケセランパラサンの憂鬱』だ……!」

 貝殻の肥料と日照時間、そして土地の熟成具合。この土地で栽培される綿花がどの色を持つかの重要な条件は、たった一種類だけ他より多く情報が判明しているものがある。それが今ここにある青色の綿花だ。
 この色は通常の栽培では作り出すことが出来ない。そのためひとたび市場に出品されればその価値は他の数倍に跳ね上がる。そして青色を産んだ土地は、数年は休ませなくてはならない。青色はその土地が最後の力を振り絞って生み出す涙の色だからだ。
 故にこの畑を漂う青色のケセランパラサンは、自身の価値への喜びを待ち焦がれつつ次に同じ色の仲間に会う機会など無いことを知っているがための憂鬱を味わっているのだと、そう記録には記されていて。
「それは、ちょっと違うわ」
 少年の思考を遮ったのは、可憐な声。読み耽っていた記録から顔を上げると、太陽がその光を水平線へと閉じ込めていく間際の暗闇に少女は立っていた。
「この青色はケセランパラサンの涙の色じゃない。憂鬱でもないわ。人の噂ではそうらしいけど、ちょっと違う」
 少年は少女を見つめ直す。その視線に一瞬混じった険は瞬きの間に薄れていく。顕示欲より未知への欲求が少年の瞳に強く映り込んだ。
 少女はその全てを見ていて、そして白いワンピースの裾をふわり舞い上げながら踊る足取りで回った。それはまるで、辺りを漂う青の舞踏を体現したかのようだった。
「ケセランパラサンは綿の花とともにある。遥かな昔、海を渡ってこの土地に根付いた最初の花の記憶を、ケセランパサランはずっと覚えてる。年老いた土地はけれど、ここにずっとあったもの。遥かな昔の記憶を共に辿って、波の揺り籠に眠った在りし日を覚えてる」
 少女は笑った。その華やかな笑顔を、青に染まった長い髪が縁取った。
「だからこれは憂鬱じゃなくて、白昼夢。”私たち”の微睡みなの」
 その言葉を残して、少年が次に瞬きした時にはもう少女の姿はどこにもなかった。


「……ほら、見てごらん。お祖父ちゃんの絵そのままだよ」
 リュックサックから顔を出した小さな竜を抱きかかえて、少年は闇に沈む青色の綿花を見つめる。
 最初から気づいていたのだ。村人にうっかり青色の綿花について尋ねて他の土地からのスパイだと怪しまれ門前払いをされた時、見せてあげるといつの間にか現れた彼女にそう囁かれた瞬間から、この子は人ではないのだと判っていたのだ。
 理由はたった一つだけで、それは少年の心を郷愁で満たした。
「……元気にしてるかなあ」
 少女に瓜二つな故郷の幼馴染を思い、少年と小さな竜は波打つ綿花の海原と夢見るように淡く光る青色のケセランパラサンたちの踊りをずっと眺めていたのだった。


Fin.

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