晦日に月がでる

和七

 寝所の障子が音もなく開く。月灯りの零れる廊下に緋色が浮かび、するりと円を描いた。
「善市さん、善市さんはおりいせんか」
 ささやかな妓楼の静謐を妓の声が乱す。巫山の夢を果たした殿方は、今頃十万億土の夢心地、しばらく目は覚ますまい。さりとて、大引けの拍子木はとうに訊いている。あのまま廊下鳶をさせておくのも忍びなく、善市は不寝番の仕事を中断して声の主、糸吉花魁の許へと赴いた。
「駄目ですよ花魁、客をおっぽって閨を抜け出したりしちゃあ。遣手の婆さんに見つかりでもしたら面倒ですぜ」
「そう思うのなら、呼んだらすぐに来ておくんなんし」
 手燭の灯りで糸吉の姿が艶冶に揺らめく。身に付けているのは、緋縮緬の長襦袢一枚きり。善市は目のやり場に困って俯き、糸吉は、それをなぶるように襦袢の右褄を取る。むき出しになった白い腿が夜目に目映い。後光を模した十二枚の櫛かんざしは、この糸吉花魁には無用のようだ。
「お戯れは止してくだせい。こんな処を楼主に見咎められて真猫と見られた日にゃあ、あっしが折檻されちまいやす」
「止してほしければ何か食べるものを持って来てくださんし。腹が減って眠れやしんせん」
「承知しやした、台所に何か残り物があるかもしれやせん。見繕ってまいりやすから、部屋で待ってておくんなせえ」
 宴で残された台の物は、男衆やお茶挽き女郎の夕餉となり、あらかた食い尽くされていた。残っていたのはめし櫃の冷やめしと、香の物きりだった。
 善市は炉の熾に五徳を据えて鉄瓶を置いた。湯が沸くのを待つ間に、香の物を刻んで醤油を差し、どんぶり鉢によそった白めしに盛り付ける。軽く炙った浅草海苔を千切ってふりかけ、針生姜と三つ葉を添えると、湯も頃合いだ。
 部屋で待つ糸吉の許へ戻ってから、濃い目に淹れた熱々の煎茶をどんぶりめしに注いで仕上げた。
「覚弥の茶漬けでありんすね。うれしおす、わっちはこれが大の好物でございんすのよ」
 さらさらと口に運んでこりこりと食む。気持ちよく茶漬けを平らげると、満足そうに寝所へと戻って往った。
 次の朝、最後の客が後朝の別れを済ませると、妓楼は大騒ぎとなった。糸吉の身請け噺が持ち上がったのだ。
 お相手は神保町の大店、豊島屋の助左衛門。糸吉には他にも深間の馴染が何人もあったが、分限者で才覚もあり何より若い、豊島屋の助様が一番お似合いと、岡目八目で賑わっていた。花魁の向後を憂うなら、花盛りのうちに颯っと根曳かれて、廓から出て往くのは喜ばしいかぎり。なのに、善市の心根は何故かくさくさと気塞ぎに暮れていた。
「善市さん、おいらの姉様が呼んでおりんす」
 禿について部屋に往くと、湯浴みを終えてくつろいだこしらえの糸吉花魁が、欄干に腰掛けて風にあたっていた。
「長命寺餅が食べとうおすなあ」
「なんで今頃そんなものを。雛の節句と花見で散々食べたでしょう。今時分、菓子処に置いてあるかも怪しいですぜ」
 旬の走りを競ってこその江戸の粋。桜の葉を巻いて拵える長命寺餅は、桜餅という呼び名の通り、桜の頃の食べ物。旬の名残はとうに過ぎている。さりとて、たとい野暮天と嗤われようと、花魁の命とあらば無下にもできまい。
 四郎兵衛会所を冷やかしながら大門を通り抜け、衣紋坂を上って山谷掘の土手八丁を往く。桜はとっくのとうに散っていて、浅草田圃には既に水が張られている。水面を撫でる薫風は青い息吹を孕み、照り返しのお天道様が目に眩しい。今戸橋の袂で竹屋の渡し舟に乗り、大川の河岸を変えれば、長命寺のある向島だ。善市は暖簾をくぐり「ごめんよ、長命寺餅はあるかい」と見世の手代に声を掛けた。
 
 糸吉は袂で口許を隠しながら頑是なく咲った。無理もない、憤りを露わにした善市の目の周りは、青痣ができて腫れあがっているのだから。
「菓子を買いに遣ったらあおたん拵えて戻ってくるとは妙ちきりんな人でおざりいす。何がどうなればそうなるのか、その往く立てをわっちにもわかるよう噺してくださんし」
「あっしは見世の若えのに長命寺餅をくれといったきりでさあ。そしたらその若えのが、今頃桜餅なんてと鼻を鳴らしやがった。何事かと奥から出てきた番頭も一緒んなって嗤いやがるもんだから、カッとなってつい――」
「飛びかかったとおっせえすか? それで逆さに打ち負かされたとはしみじみ情けのうおす。その様子じゃあ、肝腎要の長命寺餅も、期待するだけ野暮でありんすなあ」
 糸吉がけんどんに首を振るのを見留めてから、そっと長命寺餅を差し出した。糸吉は目を丸くして驚いている。
「醤油樽に一枚でも桜の葉が残っているならと、嗤った詫びに拵えさせました」
「まさか端からそのつもりで?」
「いっつもてんと澄ましてる花魁の驚く顔を拝めるのなら、殴られるくれえどうってことねえですよ」
「苦界の憂き節に喘ぐ哀れな女郎をからかうだなんて、おまはんはほんに意地悪でありんすねえ。したが、わっちのわがままを訊いてくれた褒美をあげないといけないね。どれ、痣を撫でてあげるからこっちにおいでなんし。わっちのおびんずるさまはよく効くと、評判でござりんすよ」
「おびんずるさんはまたの機会に取っとくとして、かわりに今、教えてほしいことがござんす」
「あい、なんでも」
「根曳かれるって噺は本当ですかい」
「なんだそんなすずろごと。もっと楽しいことを教えてあげても、ようおすのに」
 そういって善市の肩にしなだれかかった。馥郁とした白粉の薫りと、首筋にあたる熱い息づかいに堪らず吐息が零れる。惣籬の御職を張るほどの花魁を向こうにして、色の萌さぬようではそれこそ男が立たぬというもの。なのに、先刻より煩っている心のわだかまり、それが澱となって、血の巡りを塞いでいるようだった。
「つまらない男」
「へえ、詰まってるもんで」
「なにが?」
「いえこっちの噺で……」
 糸吉は興が殺がれたといって、善市を突き放した。
「助様から身請け噺があったのは本当のこと。でもわっちはそれを袖にした。さりとて、女郎の託ち種にいい包められて、手もなく引き下がる助様じゃなし。それなら賭けをしようじゃないかと、賽子を出してきた」廓詞を仕舞った糸吉が発したのは、善市にも馴染みの深い町人言葉だった。糸吉も水道の水で産湯を使った口なのだ。「駒札の代わりにわっちを賭けてひと勝負。人生なんて所詮は双六、出鱈目な賽の出目に己の往く末を委ねるのも、また一興。どうせ女郎風情の身空に、これより堕ちる先なんてないもの」
 だからこそ、助様の身請けの申し出を素直に受けるべきではないのか。でもそれが言葉にならない。
「助様は丁に賭けた。丁半博奕では九半十二丁といって、三つ多い丁が勝ち馬。その定石に乗っかったんだね。でも実のところ丁か半かは五分と五分。だって、賽子の出目は三十六通りあるんだもの。そんなの指折り数えりゃわかりそうなものなのに、そこをまちがえた。人の命運を賭そうかって大一番にその体たらく、賽子の神様にそっぽを向かれるのも無理からぬ噺。結句、四三の半でわっちが勝ったのは、いわば勝つべきして勝ったというものよ」
「するってえと、花魁はここに残るってことですかい」
 糸吉は豊かなまつ毛を揺らして否やを示した。
「じきに前借金も返しきって年季が明ける。その刻まで日延べにしてもらう、それが助様に張らせた駒札よ」
「どうしてそんなまどろっこしいことを……」
「惣籬で御職を張るわっちだって、端から好んで忘八に売られて来たわけじゃなし。ご丁寧に娑婆に戻る筋道まで男に拵えて貰って、お仕着せの人生を歩くなんてもう懲り懲り。出て往く刻くらい、わっちの好きにさせておくれよ」
 苦界に身をやつす女郎とはいえ、女郎には女郎の意気地がある。首尾よく苦界から抜け出そうとも、籠の鳥では立つ瀬がない。どうせ自由になるのなら、大きな空を気ままに翔けたいと願うのは、ささやかながらも切実な欲望だ。
「だから善市さん、向後しばらくは無聊の慰めと諦めて、せいぜいわっちを楽しませてくださんし」
 いつもの口調に戻った糸吉はにこりと咲いかけ、善市の胸を突っついた。そこに残った指先の温もりが、心に栓した澱の嵩を、きれいさっぱり溶かして往くのを感じた。
「せっかくでありんすから、長命寺餅をいただきんしょう」
「番頭が、かわをむいて食べるように、といってましたぜ」
 糸吉は餅を包む桜の葉をつまんで、あたりを見回した。
「大川はどっちの方角でありんしたか?」

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