牡蠣のノロい

かみたか さち

 携帯電話の通話を切るなり、吉美はトイレへ駆け込んだ。とはいえ、昨夜から繰り返した上へ下への大騒ぎの後だけに、体に力が入らない。実際には這うようにして、白く輝く陶製の椅子を抱え込んだ。
 喉元へこみ上げたものを吐き出したが、胃はとうに空っぽ。透き通った液体が流れ落ちるばかりだった。
 蓋をしてレバーを引く。上司に電話をするまえに飲んだ経口補水液は、吉美に別れを告げて長い旅に出た。その後を消毒しようと漂白剤のボトルを引き寄せるが、体が重く、狭いトイレの床に座り込んでしまった。壁が冷たい。
 どれくらいの時間が経ったろう。遠慮がちなノックがして、開けるよ、と明人の声がした。気だるく返事をすると、言いつけどおり簡易マスクと使い捨て手袋をつけた明人が顔をのぞかせる。
「生きてる? 冷えるよ」
 うん、と生返事をしながら、視線はぼんやりと漂白剤の辺りをさまよった。
「塩素で、胃腸も消毒できないかなぁ……って」
「うーん。においから想像するに、あまりおいしくなさそうだよね。そもそも、塩素って飲んでもいいもの?」
 だめでしょ、と吉美が浅く笑うと、だよね、と明人も頷きながら、空の500ミリリットルのペットボトルに水とキャップ一杯の漂白剤を入れて蓋をした。
「あと俺がやっとくから、もう布団に入りな」
 うーん、とうなりながら、吉美はゆっくり立ち上がった。
「言えなかったなぁ……て」
「吉美は馬鹿正直だなぁ。いいじゃん、言わなくても」
「けどさぁ。入社面接で『牡蠣は食べません』って宣誓して一週間だよぉ。それで食べちゃうって」
 ネガティブになると、胃が裏返りそうになった。うくっとえずくと、とっさに明人が壁に張り付く。喉の奥から出てくるものはなかったが、補水液の酸味がヒリヒリと粘膜を刺激した。吉美の罪悪感も刺激される。
 舞台俳優を目指す劇団員兼アルバイトの明人と結婚したからには、彼がひと花咲かせるまで、吉美が稼ぐ必要があった。アルバイト生活から足を洗って得た仕事は調理人。
 『食中毒予防のためにも、生肉や牡蠣を喫食しません。守れなかった場合、免職されてもいかなる不服も申し立ていたしません』入社時の書類に誓いのサインをした。
 生肉は、もとから食べないヒトだった。が、牡蠣は。
 年明けから出社すると決まって一週間後。年末年始の里帰りで、吉美を試練が襲った。吉美の郷は広島・地御前。瀬戸内海に浮かぶは牡蠣いかだ。小ぶりな身はフライに丁度よい。前歯が衣をサクッと破ると中から溢れる磯の香りと牡蠣汁。ビールがすすむ。
 が、実母の散々なイヤミの嵐を受けながらも、隣で舌鼓を打つ明人がいても、吉美は耐えた。震える箸先を牡蠣フライに向けそうになりながらも、一粒たりと食べることなく実家を後にした。
 その足で明人の実家へ。そこはハレの国岡山・日生。そして、やはり海に浮かぶは牡蠣いかだ。ここの牡蠣は地御前のものより身が大きく、殻ごと焼いてレモンをキュと絞って熱々をずるりと頬張る。滑らかなのに弾力のある歯ごたえ。日本酒がうまい。
 嫁の立場は、夫の実家において最弱だ。義母から、朝一番に市場へ赴いただの、あそこにいいのがなかったから何軒かはしごしただとか言い並べられると、頑なに断る自分はまるで極悪人。ひとつくらい、と言う義父の言葉が、崖っぷちに立つ吉美の調理人魂の背にとび蹴りを食らわせた。
 ではひとつだけ、と食べたその身が、大当たり。
 翌朝帰路につく車内では久しぶりの乗り物酔いだと信じ込もうとしたが、帰宅した途端に御便器様と切っても切れぬ仲になってしまった。
 上司には、正直に白状しよう。症状がどうにか治まって携帯を手にしたときの決意は、宣誓書の文章を思い出した途端に、ウイルス大に砕けてしまった。
 スピーカー越しの上司のため息が、吉美を惨めにさせた。上司は、この時期はウイルスだらけだからねぇ、と気の毒そうにしながら、専用の検便容器を送ると言った。
『もしノロ反応が陽性なら、検査を繰り返し陰性になるまで出勤停止。最初の一ヶ月はアルバイト扱いだから給料も出せないけど、こらえて』
 思い出すと頭痛がした。来月の生活をどうしよう。月給で家賃を払おうと思っていたのに。寝室へ向かう足取りが重い。
 洗面台から石鹸のポンプを押す音がして、流水音が続いた。健康的な足音が寝室へたどり着かない吉美に追いつき、追い越して冷蔵庫の扉を開く。
「ほら、水分補給して」
 グラスの底に一センチほど注がれた経口補水液が差し出された。喉のひりつきはまだまだ絶好調。飲みたくないが、薬だと思って口に含む。いつもより冷たく感じた。
 半分残した補水液を、もういい、と返す。ちゃんと捨ててるよう念を押しながら、ゾンビ状態で布団へ向かった。
 壁際で首を回してみると、明人が顎の辺りに掲げたグラスを、何食わぬ顔で流しの消毒液へ漬けるのが目に入った。
「明人もさぁ。来週でしょ、オーディション。うつんないでよ」
 はいはい、と肩をすくめる明人に、ハイは一回でいいと言い返す元気もなし。ごそりと布団へもぐりこむと、補水液が無くなりそうだから買いに行こうか、と声がかかった。
「ついでに、稽古場にでも行けば?」
「まだ正月休みだよ」
 2DKの賃貸アパートだから、ウイルスがそこらじゅうに漂っていること間違いなしだ。
「じゃあ、どっかうろついてくるよ」
 上着と鞄を持ち出す様子が聞こえ、鍵が回った後には、硝子越しの遠いざわめきだけが残った。アパートの周辺は時折車のエンジン音が聞こえるだけで、静かだった。
 枕もとの体温計をつかむ。脇の下に差し込むと一瞬痛いほど冷たさが走るが、すぐにぬるくなった。やはり、少し熱がある。ノロだなぁ、と観念して、目を閉じた。

 体の調子が悪いと、夢の調子も良くない。
 球体がつながって人型となった邪悪な魔人が、平べったい硝子の容器、シャーレを手に笑っている。薄い寒天培地に広がるのは、五百円玉大のウィルスの固まり。
 何者だ、と問うまでもなく、魔人の腹に『ノロ博士』と書かれているのが笑えない。ノロ博士は笑いながらウィルスを撒いた。節分の豆よろしく小さな球体が飛び散る。
 地球上の人間が残らず感染してしまう。止めなくてはと思っても体が動かない。
 待てい、と声がするほうを見れば、紅茶ポットの着ぐるみ姿の明人が博士に立ち向かっていた。
『お前の野望は、このテアフラビン星人が許さん』
 定規で引いたような棒読みに苦笑しながらも、星人ってなによと突っ込む。
 トラックの姿をした大家が走り込んできて、家賃滞納ですよと吠える。その声が完全に犬になる。仕事に出られないんですと吉美が頭を下げる相手は、便器だったりする。
吉美の意識は、夢と現の間を忙しく行き来していた。

 はっきりとした鍵の音で、吉美は目を開いた。台所に点いた明かりがまぶしい。
「起きてた? どう、具合は」
 呼びかけに、布団を膨らませて答えると、影が近づいた。
「お袋に電話して、よく言い聞かせておいたから。もう実家の食卓に牡蠣がのる事はないよ」
あとね、と明人がポケットから出した封筒を掲げた。
「補水液買ったら福引があってさ、当たったんだ。旅行」
 またそんなところで運を使って、とこぼれかけた吉美の愚痴は、明人に遮られた。
「新婚旅行、まだ決めてないじゃん。これにしたら吉美が休職する分、補えないかな」
 意に反して吉美の目頭が熱くなる。
「新婚旅行は、別でちゃんと行こうよ」
 弱々しくも笑うと、そうだね、と明人は封筒の口を留めているステープラーをはずす。中から、目録と旅行会社のパンフレットを引き出した。
『三陸ミステリーツアー 豪華温泉と牡蠣づくし御膳』

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