独身男とガラス玉

珠烏

 いつ応募したかも覚えていない懸賞に当たったらしく、夏の星空を閉じこめたかのような濃紺のガラス玉が届いた。
 大きさは両手を広げて下半分を包める程度、持った時にほんのりと温かかったのが、見た目と違って驚いた。中に入っている水が日に当たって、少々ぬるくなっていたのかもしれない。水には細かい砂が浮いていて、玉を転がすときらきら輝いた。不思議なのは、放っておいても砂が底に沈まないで、ゆっくりと回り続ける仕組みになっていることだった。気づかないほどゆっくりと。それこそ、星空が動いていく程度の速さだ。
 きれいな置物を手に入れた。本棚にちょうど同じくらいの大きさのすき間があった。付属の台に据えて納めた時の満足感は、最近いだいていない種類のものだった。それは、薄れた記憶の中の、夏休みの宿題をやり遂げた瞬間の満足感に、ほんのわずかだが似ていた。
 仕事に疲れて家に帰って、風呂に入って眠るだけの生活に、一滴の潤いが染みた。電気を消したあと、玉を見ながら眠るのが楽しみになった。カーテンを引いているし、電源はつながっていないのに、玉はなぜだか淡く光る。本物の夜空を映し出しているような美しさがたまらなかった。
 休日は日がな一日、部屋を暗闇にして玉を眺めるようになった。往来を通る車の音がうるさいから、遮音性の高いイヤーマフを買った。そうして、呼吸音と、鼓動音と、ガラス玉の中の砂の動きをひたすらに感じた。空腹すら気にならないまま、いつの間にか寝ては起きてを繰り返す休日を過ごした。
 ガラス玉が届いてひと月が経ったころ、会社の健康診断で体重が落ちたのを知って、さすがに食事は摂ろうと決めた。もっとも、余計な咀嚼音は玉を見るのにふさわしくないから、食事をする時は玉を見るのをあきらめる必要があった。
 眠りに落ちるのではなく、決意して玉から目を離すと、頭の中が妙にすっきりと整理されているのを実感した。久しぶりに自炊をした。食材は大したものがなかったが、それなりに食べられるものを作れた。そういえば、大学に通っていたころは、好んで料理をしていたことを思い出した。会社勤めをするようになって、どうして自炊を止めたのだったか、はっきりとした理由は思い当たらなかった。
 次の休日には、得意料理だったポトフを作りたいと思って、金曜日の帰りにスーパーへ寄った。ベーコンと、それから食べたい野菜を、手当たり次第にかごへ入れていく、その手触りが楽しくて、休日中には食べきれないほどの食材を買ってしまった。中には嫌いなトマトもあった。いつの間に手に取ったのか分からなかったが、せっかく買ったのだし、たまには食べてみようと思った。
 仕上がったポトフは旨かった。トマトは熱を通せば別物になる野菜だとは知っていたが、じっくり煮るとここまで変貌するとは知らなかった。鼻の奥を弾けさせるような独特の匂いはどうしても気になったものの、食べないでいるにはもったいない味だった。
 この年で嫌いな食べ物を克服したというのは、恥ずかしいような誇らしいような、奇妙な気分だった。それでもだれかに伝えたくて、月曜日、仕事場で向かいのデスクに座る女の子に、つい話しかけた。彼女は実に礼儀正しく話を聞いてくれた。そして、料理が趣味だったなんて知りませんでした、と、にこやかに返事をした。調子に乗って食べきれない量の食材を買ってしまったことを話すと、彼女はくすりと笑った。人を笑わせるのは面白かった。
 その日の夜、食材を余らせるのがもったいなかったので、弁当を作ることにした。弁当箱は埃をかぶっていた。水洗いしながら、なにをどう詰めようか考えていると、アイデアがあふれて目がくらみそうになった。水道水の冷たさすらも、思考を研ぎ澄ませる一因のように感じた。
 できるところまで準備を進めると、深夜を回っていた。いつもよりアラームを一時間早くセットして横になった。心なしか、ガラス玉の光が澄んでいたような気がした。
 翌朝はアラームが鳴る前に目が覚めた。寝間着のまま台所に立って、フライパンを振った。ベーコン巻は少し焦がしたものの、そのほかは思ったとおりに仕上がった。弁当箱に入りきらなかった分は朝食にした。朝から満腹をさすっていると、いつの間にか普段家を出る時間を過ぎていた。何年かぶりに遅刻しかけた。睡魔はさっぱり襲ってこなかった。
 昼休みになって弁当を広げると、向かいの女の子が目を丸くして見てきた。片寄らずに詰まっている弁当箱に感心しているようだった。彼女も、手ずから作ったらしい弁当を持参していた。いつもならお弁当はひとりなんですよ、と、嬉しそうに言った。十歳近くも年の若い女の子と、他愛のないことをしゃべるのは難しいことだと思っていたが、彼女とは話が合った。お互いに料理が好きだったおかげかもしれない。
 高野春子というのが彼女の名前だった。いつも高野さんと呼びかけていたが、春子という名はとても良いと思っていた。そのことを伝えると、彼女は控えめに笑いながら、けっこう気に入っているんです、と応えた。
 それから休日以外は毎日昼食を共にした。彼女が食べているものを見て、翌日の弁当の献立を決めることもあった。彼女はそのことにすぐ気づいて、しかもアレンジを加えたことまで見抜いて褒め言葉をよこした。普段なら、年下に褒められるとプライドがいささか傷つくのに、料理について彼女から褒められるのは純粋に嬉しかった。
 休日にも料理の話をしたいと言ったのは彼女の方からだった。一度断ったが、あらためて誘われて、断り続けるわけにもいかなかった。
 仕事場以外で会うのは気恥ずかしかった。彼女はいつも顔を合わせる時よりも華やかな化粧をしていた。ニット素材のカーディガンはよく似合う柔らかな色合いだった。そんな人と話題の料理店を巡って、味付けのコツや調理の手抜きの仕方について、心おきなく話すのは楽しかった。
 別れ際に、今度は一緒にお料理を作ってみたいです、と彼女が言った。胸が高鳴った。約束を交わすと、駅へ向かう背中に見とれた。彼女がちらりと振り向いて、会釈をよこした。恥ずかしさをこらえて小さく手を振ると、顔をほころばせて手を振り返してくれた。
 帰りついた自宅は、彼女を迎えるには殺風景すぎた。散らかってすらいなかった。灰色の家具しかなかった。カーテンもシーツも、くすんだような白だった。本棚に物語は一冊もなかった。ひとつだけの例外は、濃紺のガラス玉だった。
 唯一のインテリアを、本棚からテーブルの真ん中に移した。手に入れてからずっと置きっぱなしだったのに、ほこりひとつかぶっていなかった。それどころか砂は明るさを増していて、楕円型に集まって渦巻いていた。はるか昔に教科書で見た銀河の形とよく似ていた。
 次の休日、彼女は家に上がるとすぐにガラス玉を見つけた。好奇心がひらりと瞳に宿るのを見て、淡く光る様子を見せたくて明かりを落とした。しかし、ガラス玉は、その明るさだけで顔を照らすくらい、強く光るようになっていた。
 どちらからともなく玉に見入った。ついに玉は、眩しくて目を開けていられないくらい輝くようになった。まぶた越しでも、ますます輝きを増していくのが分かる。手を伸ばしてガラス玉に触れる。指先から心臓へと伝わる、震えるほどの幸福感。打ち寄せる波のように幾度にもわたって響く温もり。
 しばらくしてから、触っているのは玉ではなくて、同じように伸ばしていた彼女の手のひらだったと知った。お互いに目を開けると、あらためて手をぎゅっと握った。濃紺のガラス玉は、溶けてしまったか、あるいはすべて光になってしまったかのように消え失せていた。
 夜になっていた。ずいぶんと時間が経ったことに、ふたりともようやく気づいた。
「晩ご飯を作りましょう」
 彼女が眠たげに言う。
「なにを作ろうか」
「なにを作っても美味しいと思いませんか」
「それでは温かいものにしよう」
「ええ」
 一緒に台所に立つとずいぶん手狭だ。冷蔵庫を開ける。野菜の緑や茶色やオレンジが鮮やかに目に映る。カチン、とコンロに火をつける音がする。手鍋一杯の水を沸かし始めた彼女の、問いかけるような目を見る。
 この台所も、すぐに暖かくなる。

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