チョコレートの海でバレンタインを叫ぶ
檀敬
「王女様、ようやく見つけました」
「それではジィヤ、計画の通りに」
今朝の社内は微妙に雰囲気が違う。それもそのはずで、今日はバレンタインディだ。そういう話に縁遠い僕だけれども、縁遠いだけにかなり「ゆううつ」になる。
それに加えて、さらに不幸なことがある。うちの会社はそういったことを禁止していない。だから、こんな僕でもいくつかのチョコレートを手にしてしまう。それらはもちろん義理チョコなのだが、そのどれもが僕にとって最低で最悪のチョコレートでしかないのだ。
そろそろ休憩時間だ。紙袋を携えた女性たちがデスクを巡り始めているようすを、僕は横目で確認した。
「はい、課長。どうぞ」
性格が良くて美人で仕事もできる美代子先輩が、豊島課長に大きい包みを差し出していた。これは有名店○○○のショコラケーキだ。漂う香りで分かる。間違いない。
「お、悪いな」
豊島課長の顔がにやけている。不倫のうわさは本当か?
「前田先輩、俺には?」
同期でイケメンの川本紀彦が美代子先輩に声を掛ける。口だけは達者で、ろくに仕事もできない野郎なのに。僕はいつもオマエの尻拭いをしているんだぞ。
「川本君はこれね」
美代子先輩は手のひらほどの包みを川本に渡し、それを受け取った川本はうれしそうに叫んだ。
「サンキュー。美代子先輩の愛が重いよぉ」
オマエの気持ちは美代子先輩にとってはゴミだよ。それに、手にしたチョコレートはスーパーの特設コーナーにあるモノだ。パッケージからもれる臭いで十分に分かる。
美代子先輩は僕のところにやってきた。
「江崎君のはね、えっと……そう、これ!」
そう言って美代子先輩が僕に渡してくれたのは、川本よりも小さい、一口チョコ二つ分ほどの包みをくれた。
「ま、前田先輩、あ、ありがとう、ご、ございます」
お礼を言いながら僕はちょっとガッカリした。川本のそれよりも僕のそれが小さいなんて。さらに、僕を奈落の底に落としたのは、この包みからチョコレートの香りがしなかったからだ。チョコレートではないと? では……いやいや、美代子先輩が忘れないで僕にバレンタインのプレゼントをくれたことを感謝しなければ。僕は顔を上げて引きつった笑顔を美代子先輩に見せた。それでも意味有り気な笑みを浮かべて、美代子先輩は僕に言葉をかけてくれた。
「今日の仕事が終わるまでに中身を確認してね」
僕は美代子先輩の去っていく姿をウットリと見ていた。
「江崎君! あたしからのチョコです」
声に振り向くと、かわいいけど計算高い玲子が僕に包みを差し出していた。包みから漂う、高級チョコレートを使いながらテンパリングに失敗した臭いが僕の鼻に刺さる。
「ありがとう、田沼さん」
「手作りのガトーショコラよ。味わって食べてね」
ほほ笑む玲子に、僕は鼻が曲がった笑いでごまかした。
「和也、大きい包みだな。田沼さんの本命か?」
はやし立てる川本に玲子が反応する。
「ヤダ! 何を言っているのよ、川本君ったら!」
玲子と笑う川本の手には、僕が玲子からもらった包みと同じモノがあった。僕は愛想笑いをしたけれども、心の中では(小学生かよ)と吐き捨てた。
全ては、僕がチョコレートに敏感な体質であることが原因なのだ。幼い頃からチョコレートに異様な執着をみせて母親をとても困らせていた記憶があるけれど、このこと自体をハッキリと自覚したのはつい最近のことだ。ただし、僕にはチョコレートに関する知識はほとんどない。学生時代まではお菓子作りに関わることなく過ごしてきたからだ。自覚するようになってからテンパリングなどの知識を仕入れてみたが、結局は付け焼き刃だった。今でもチョコレートの良し悪しは、自分に備わった感覚での判断がほとんどだったりする。
トイレでハンカチを取り出そうとボケットに手を入れた時、指先が小さな包みに触れた。ハッと思い当たる。それは美代子先輩がくれた一口チョコ二個分の包みだった。ポケットから取り出して包みに触れていたら、美代子先輩の言葉を思い出した。
『今日の仕事が終わるまでに中身を確認してね』
僕はすぐに、美代子先輩がくれた包みを開けた。予感の通り、チョコレートはなかったが、紙切れが入っていた。その紙切れを広げると大きな文字でこう書かれていた。
【あたり!】
便器に座って紙切れをにらんでその意味を考えたが、まったく分からない。ため息をついてから、紙切れをもう一度見返した。すると【あたり!】の下に小さく、数字が書かれていた。それは〇九〇から始まる十一桁の数字だった。しかし、この番号は美代子先輩の携帯電話番号ではない。疑問を感じながら、僕はスマホからコールした。
「前田美代子です」
美代子先輩の声に、僕は反応しようとしたが。
「これは自動応答で一回しか言わないからよく聞いて」
素直に、僕は聞くことに集中した。
「今日は仕事を早く終えて、十九時に駅前の△△△ビルの四階にある□□□というお店に来て。待っているわ」
再度コールしてみたが、もうつながらなかった。
エレベーターもない雑居ビルの四階。暗い通路の奥にその店はあった。素っ気ない鉄の扉に屋号が彫られた木製プレートが貼り付けられていた。中に入ると、ブラウンのアールデコ調で落ち着いた雰囲気のカウンターバーだった。
「時間通りね、江崎和也クン」
ニコリと笑う美代子先輩の手招きで横に座り、バーテンダーにすすめられたブラウンのカクテルをあおった。
「午後はどこに? 会社で見かけなかったのですが」
「やっとターゲットが見つかったので『郷里』に帰ることにしたの。だから、その準備をしていたってわけ」
「それは急な話ですね」
「そうでもないわ。もともと、そういう予定だったの」
「そのことを会社は? 課長や川本、田沼さんは?」
「私の存在自体を消したから記憶も記録も認識もないわ。今だから言っちゃうけど、豊島課長と不倫しているのは田沼玲子よ。その田沼は川本紀彦と付き合っているわ。でも、和也にそんな情報は必要ないわね。だって、既に和也の存在も消してしまったから」
僕はグラスを持ったまま、あ然として話を聞いていた。
「理解できないのは分かるけど、和也は【あたり!】を引いてしまったものね。うふふ」
「引いたって……あれは美代子先輩が!」
「そうよ。だって、和也には『チョコレートに魅入られた才能』があるから!」
「確かに僕はチョコレートに敏感ですけど、でも……」
「それはとても重要なことなの。私が、いえ、私の星『バレンタイン』がそれを求めているのよ!」
「どういうことです?」
「あのね、私の星はチョコレートなの。でも、良いチョコレートと悪いチョコレートがあって、それを見分けないと私の星はチョコレートで崩壊してしまうのよ……」
僕を見る美代子先輩の頬に涙が一筋、流れ落ちた。
「お願い、私の星を助けて!」
悲痛な表情で美代子先輩は僕に抱きついてきた。胸はバクバクと高鳴り、美代子先輩から甘くていい香りがしたこともあって、僕はポロリと口走ってしまった。
「美代子先輩がそこまで言うなら、いい……かも……」
赤らめた僕の顔に突然、美代子先輩の真顔が接近した。
「今の発言は『同意』ね? ジィヤ、時刻を!」
「三〇三七年一三月七八日三二時八五分に同意を認定、空間振動波・立体電磁波・ヒッグス値とも完璧な記録です」
カウンターの向こう側でバーテンダーが冷静に答えた。
「え? なに? どういうこと?」
オロオロする僕の背中を美代子先輩がぐいっと押した。
「大丈夫よ。和也は、良いチョコレートと悪いチョコレートを見分けてくれればいいだけ。さぁ、私の星へ!」
「和也ったら、チョコレートの海で気持ち良さそうね」
「そうとも、王女様。バレンタインはサイコーさ!」
「それではジィヤ、計画の通りに」
今朝の社内は微妙に雰囲気が違う。それもそのはずで、今日はバレンタインディだ。そういう話に縁遠い僕だけれども、縁遠いだけにかなり「ゆううつ」になる。
それに加えて、さらに不幸なことがある。うちの会社はそういったことを禁止していない。だから、こんな僕でもいくつかのチョコレートを手にしてしまう。それらはもちろん義理チョコなのだが、そのどれもが僕にとって最低で最悪のチョコレートでしかないのだ。
そろそろ休憩時間だ。紙袋を携えた女性たちがデスクを巡り始めているようすを、僕は横目で確認した。
「はい、課長。どうぞ」
性格が良くて美人で仕事もできる美代子先輩が、豊島課長に大きい包みを差し出していた。これは有名店○○○のショコラケーキだ。漂う香りで分かる。間違いない。
「お、悪いな」
豊島課長の顔がにやけている。不倫のうわさは本当か?
「前田先輩、俺には?」
同期でイケメンの川本紀彦が美代子先輩に声を掛ける。口だけは達者で、ろくに仕事もできない野郎なのに。僕はいつもオマエの尻拭いをしているんだぞ。
「川本君はこれね」
美代子先輩は手のひらほどの包みを川本に渡し、それを受け取った川本はうれしそうに叫んだ。
「サンキュー。美代子先輩の愛が重いよぉ」
オマエの気持ちは美代子先輩にとってはゴミだよ。それに、手にしたチョコレートはスーパーの特設コーナーにあるモノだ。パッケージからもれる臭いで十分に分かる。
美代子先輩は僕のところにやってきた。
「江崎君のはね、えっと……そう、これ!」
そう言って美代子先輩が僕に渡してくれたのは、川本よりも小さい、一口チョコ二つ分ほどの包みをくれた。
「ま、前田先輩、あ、ありがとう、ご、ございます」
お礼を言いながら僕はちょっとガッカリした。川本のそれよりも僕のそれが小さいなんて。さらに、僕を奈落の底に落としたのは、この包みからチョコレートの香りがしなかったからだ。チョコレートではないと? では……いやいや、美代子先輩が忘れないで僕にバレンタインのプレゼントをくれたことを感謝しなければ。僕は顔を上げて引きつった笑顔を美代子先輩に見せた。それでも意味有り気な笑みを浮かべて、美代子先輩は僕に言葉をかけてくれた。
「今日の仕事が終わるまでに中身を確認してね」
僕は美代子先輩の去っていく姿をウットリと見ていた。
「江崎君! あたしからのチョコです」
声に振り向くと、かわいいけど計算高い玲子が僕に包みを差し出していた。包みから漂う、高級チョコレートを使いながらテンパリングに失敗した臭いが僕の鼻に刺さる。
「ありがとう、田沼さん」
「手作りのガトーショコラよ。味わって食べてね」
ほほ笑む玲子に、僕は鼻が曲がった笑いでごまかした。
「和也、大きい包みだな。田沼さんの本命か?」
はやし立てる川本に玲子が反応する。
「ヤダ! 何を言っているのよ、川本君ったら!」
玲子と笑う川本の手には、僕が玲子からもらった包みと同じモノがあった。僕は愛想笑いをしたけれども、心の中では(小学生かよ)と吐き捨てた。
全ては、僕がチョコレートに敏感な体質であることが原因なのだ。幼い頃からチョコレートに異様な執着をみせて母親をとても困らせていた記憶があるけれど、このこと自体をハッキリと自覚したのはつい最近のことだ。ただし、僕にはチョコレートに関する知識はほとんどない。学生時代まではお菓子作りに関わることなく過ごしてきたからだ。自覚するようになってからテンパリングなどの知識を仕入れてみたが、結局は付け焼き刃だった。今でもチョコレートの良し悪しは、自分に備わった感覚での判断がほとんどだったりする。
トイレでハンカチを取り出そうとボケットに手を入れた時、指先が小さな包みに触れた。ハッと思い当たる。それは美代子先輩がくれた一口チョコ二個分の包みだった。ポケットから取り出して包みに触れていたら、美代子先輩の言葉を思い出した。
『今日の仕事が終わるまでに中身を確認してね』
僕はすぐに、美代子先輩がくれた包みを開けた。予感の通り、チョコレートはなかったが、紙切れが入っていた。その紙切れを広げると大きな文字でこう書かれていた。
【あたり!】
便器に座って紙切れをにらんでその意味を考えたが、まったく分からない。ため息をついてから、紙切れをもう一度見返した。すると【あたり!】の下に小さく、数字が書かれていた。それは〇九〇から始まる十一桁の数字だった。しかし、この番号は美代子先輩の携帯電話番号ではない。疑問を感じながら、僕はスマホからコールした。
「前田美代子です」
美代子先輩の声に、僕は反応しようとしたが。
「これは自動応答で一回しか言わないからよく聞いて」
素直に、僕は聞くことに集中した。
「今日は仕事を早く終えて、十九時に駅前の△△△ビルの四階にある□□□というお店に来て。待っているわ」
再度コールしてみたが、もうつながらなかった。
エレベーターもない雑居ビルの四階。暗い通路の奥にその店はあった。素っ気ない鉄の扉に屋号が彫られた木製プレートが貼り付けられていた。中に入ると、ブラウンのアールデコ調で落ち着いた雰囲気のカウンターバーだった。
「時間通りね、江崎和也クン」
ニコリと笑う美代子先輩の手招きで横に座り、バーテンダーにすすめられたブラウンのカクテルをあおった。
「午後はどこに? 会社で見かけなかったのですが」
「やっとターゲットが見つかったので『郷里』に帰ることにしたの。だから、その準備をしていたってわけ」
「それは急な話ですね」
「そうでもないわ。もともと、そういう予定だったの」
「そのことを会社は? 課長や川本、田沼さんは?」
「私の存在自体を消したから記憶も記録も認識もないわ。今だから言っちゃうけど、豊島課長と不倫しているのは田沼玲子よ。その田沼は川本紀彦と付き合っているわ。でも、和也にそんな情報は必要ないわね。だって、既に和也の存在も消してしまったから」
僕はグラスを持ったまま、あ然として話を聞いていた。
「理解できないのは分かるけど、和也は【あたり!】を引いてしまったものね。うふふ」
「引いたって……あれは美代子先輩が!」
「そうよ。だって、和也には『チョコレートに魅入られた才能』があるから!」
「確かに僕はチョコレートに敏感ですけど、でも……」
「それはとても重要なことなの。私が、いえ、私の星『バレンタイン』がそれを求めているのよ!」
「どういうことです?」
「あのね、私の星はチョコレートなの。でも、良いチョコレートと悪いチョコレートがあって、それを見分けないと私の星はチョコレートで崩壊してしまうのよ……」
僕を見る美代子先輩の頬に涙が一筋、流れ落ちた。
「お願い、私の星を助けて!」
悲痛な表情で美代子先輩は僕に抱きついてきた。胸はバクバクと高鳴り、美代子先輩から甘くていい香りがしたこともあって、僕はポロリと口走ってしまった。
「美代子先輩がそこまで言うなら、いい……かも……」
赤らめた僕の顔に突然、美代子先輩の真顔が接近した。
「今の発言は『同意』ね? ジィヤ、時刻を!」
「三〇三七年一三月七八日三二時八五分に同意を認定、空間振動波・立体電磁波・ヒッグス値とも完璧な記録です」
カウンターの向こう側でバーテンダーが冷静に答えた。
「え? なに? どういうこと?」
オロオロする僕の背中を美代子先輩がぐいっと押した。
「大丈夫よ。和也は、良いチョコレートと悪いチョコレートを見分けてくれればいいだけ。さぁ、私の星へ!」
「和也ったら、チョコレートの海で気持ち良さそうね」
「そうとも、王女様。バレンタインはサイコーさ!」
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