ばっさん

《あかがねいろをしたおどろおどろしい雲の一群が北に向けて空を漆塗りにする。太陽は冷却の済んだ光のモニュメントとして同じ子午線に立つ者の視界を眩ませる。理屈を三足跳びに抜けていく無数の瞳は最後の熱を浴びて生々しく溶解し七年後には他の誰とも区別がつかなくなる。
雨模様は魂の潰え去る予兆、高みに昇るそれを背骨で観察するにはうってつけ、L単位で運ばれる死者の呼び声は雨粒を弾き返す。愛し合ったはずの夫婦は以前がそうであったように見ず知らず、太鼓の音に耳を傾けつつも、理学療法士の手に委ねられる他はない。
憧れのカラスになりたいと願ってやまない少女にしても、谷間に落下し二度と日の下に姿を晒すことのない肉塊のように、リボンを頭から外し髪と同じ本数に切り刻み、欠伸をした後でそれを八九階建てマンションの屋上から下にばら撒く作業に没頭、楽しくなってきたところでまた飽いてしまい、リカちゃん人形の解体に次は取り掛かる。温かかったかつての四肢は思い描いた通りの形を示し、ただ傍観するしかない母親は、林間学校の資料を慌てて読み耽る。
あちこちで分解が始まっている。多忙な上下運動は人々を憎悪させる。臨月を迎えた瘦せぎすの妊婦は大勢の酔客の手で十日後には中身だけが取り出される。甘いもの好きの若い言語学者は街角でホモセクシュアルに背中を五度刺される。逞しい声が取り柄の成金社長は朝六時のラジオ体操で全裸になって踊り狂う。リモート・コントロールの通用する時代は終わったのだ。後は原子になって宙を転げ回るしかない。》

      *

「……これで、おしまいですか」
「ええおしまいです。これ以上のものはちょっと書けないですね」
 朝の十時頃から、夕方の今に至るまで、何度か訪問してはその度に帰るしかなかった仕事に忠実な若い男性記者は、作家の投げやりな答えに対し、自家製の梅干しを三つほど口に含ませたような渋面を作る。いよいよ手に入れたというのに、嬉しさの欠片もない、たった二枚の原稿用紙を、卓袱台の上で整理したり、夫の無粋さに妻がしてみせるようなため息をついたりして、露骨な抗弁を試みる。けれども向うが篭絡されるはずがなく、六畳間に悠々と素足を伸ばすばかり。頭を後ろに引き、寛いでいるようでもあるが、口元にはしてやったりと云うのでもなし、何とも言い難いものが浮かんでいる。その顔はだらしない恰好とは対照的で、角度によってはきりりと締まった男前だった。
 作家の自宅である。四十五になる彼は庭に面した和室が好きで、曾祖父の代から受け継ぐこの家を、三十二の歳に大改築しようという時だって、何が何でもここだけはと譲らなかった。他はみんな洋風にしてしまい、年下の妻や三人の子供は当然そちらを好んでおり、和室にはほとんど踏み入ることがなく、それというのもこの男、独りそこを聖域の如く死守しているからで、障子の下の埃除け、敷布団の干し出し、畳の張り替えなど、およそこの室に関することは全て彼一人の仕事だった。他所ではスーツだったりラフな格好だったりと柔軟なくせに、和室で過ごす際は必ず、地元で買った安物の浴衣或いは丹前を、その細身に巻き付け、煙草をすぱすぱするなり、執筆するなり、鼾をかくなりしていた。テレビもラジオもない空間は、子供たちにとっては不気味ですらあり、作家はある意味恐れられる存在だった。父子の血統からして、年間行事ではその存在を無視できないわけだが、それ以外の日常茶飯事は何もかも、父のない母子家庭といった態で生活している向きがあった。彼の父母がいた頃と今とでは、呪いといっても差し支えのない人格の変化だった。家族全員、それで生活の満足が得られていること自体、歪んだ関係と言えた。記者は事前にそのことを、先輩上司から多く耳にしていたから、物覚えの良い若者の常として、作家の評価は彼の中で既に確定していた。仕事が失敗するなど疑いもしなかった。それは、こうすればああなる、ということが、利害上明らかだったからで、実際の対人関係よりも、そういう観念上の上下関係を結ぶことを優先する性質に起因していた。だから今回も、目的に適ったものを予定通り手に入れるまで、絶対にこの男を逃がさない積もりだったし、逃れられるはずもないと確信していた。何しろ遺財は、十年も前なのだから……。
「ですがせめて、もう少し長くして頂きませんと。でないととても、これを小説として掲載するのは難しいかと。何より今回は、共通のテーマで作家陣が物語を寄せる、という企画でして、是非とも震災経験者として、ドラマチックで迫真的な長編を、こちらとしては第一に望んでいるのですが。始めはかれこれ十日ほど前になりますね、その時にも申しましたが、小説では必ず、地震による被害で夫を亡くした女なり、両親を奪われた子どもなり、不幸な境遇の者を語り手に選んで頂いて、結末は必ず、彼らを幸福へ導く終わりにして下さいますようお頼みしてあります。ですので例えば、詩はこのままで宜しいですので、これが実は、震災で亡くなった老人が最後まで手離さなかった原稿だということにして、これの秘められた謎を解き明かすべく、彼の息子が奮闘し、最後には老人の、残された家族に向けての感動的なメッセージが浮き彫りになり、彼らの生きる糧となる、という仕立てなど、面白いと思うのですが」
 思いつくままに続ける。読者は大抵、そんな内容で満足するものだ。奇怪な真似はせず、凡庸に終わらせてくれと、そういう毒も混ぜた積もりだった。
 その間、作家には一切の変化が見られなかった。ただ、自分より二十歳以上も下の学生の声を最後まで聞く、厳格な教授を演じるのみだった。言い終え、沈黙が室を支配するようになるとしかし、作家の異様な雰囲気に、聡明な記者の気づかないはずがなかった。かの男の姿勢は巫抜けた以前のものから、寺で過酷な修練を積んだ坊さんの如き正坐に変化していた。その全存在が、若者の腰を砕くに充分の威力を具えていた。けれども記者は、自分に間違いはないと確信しているので、そして勤め先の叱責の方がなお恐ろしかったので、頑張って作家の顔を睨めつけていた。
 威圧が已んだ。記者の浮かせていた腰が、どっと摺り落ちた。息が整うまで時間がかかるも、しばらくして、あたかもその回復を待ち受けていたかのようなタイミングで、作家は口を開く。その顔は、照れ臭そうに綻んでいる。
「やはり引き受けるべきでなかったですね、アッハッハ」
 笑い声は優しく響いた。だがその後に続くはずのもう一言が欠けている。記者はどう反応すべきか、纏まらない頭で考えた。しかし、どう仕様もないところまで行き着いてしまったことは火を見るよりも明らかだったので、黙って立ち上がり、後ろ向きに室を出ていくしかなかったのだ。
 障子を締め切り、正面の庭を眺め遣る。ちょっといい眺めだ。記者は縁側に腰を下ろして脚をプラプラさせる。何も考えられず、思い出すものと云えば、作家の虚ろに響く笑い声だけだった。
 そのまま庭の、山茶花の綺麗な花びらなどに目を奪われるうち、ますます陽は沈む。十月の半ばだったから、油断していたが、もうそろそろ冷え込む時期だった。夏物のスーツは風通しが良く、記者の身体を底から冷え込ませる。
 と、横の方から、「ただいまあ」と子どもの声がする。すぐ後で、「こんな時間までどこほっつき歩いてたの」と母親らしき声も聞こえる。どたどたという足音が近づいてくる。気がつくと、傍らには小学校低学年ほどの娘が、記者と同じく脚をプラプラさせていた。
「こんばんは」
「こんばんは」
 娘があんまり率直に話しかけてくるものだから、記者も油断して、同じ言葉しか返せない。しばらくして母親が登場し、「どうもすみません」と声を掛けてくる。「誰?」という質問に、母親は「お父さんの、お仕事関係の人」と簡単に答えていた。
「お父さん」
 娘の顔は、すぐ後ろの、締め切られた障子に向けられる。しばらくして、いきなり、ととと、と走り去ってしまう。母親は慌てて追い、「こら、走らない」と言いつつも、首はしょっちゅう横向きで、視線は憎々しげで……。
 記者は軽く舌打ちして腰を上げる。顔つきは歯を痛めた人にそっくりだ。けれどもふと、いつもの習慣でポッケからスマホを取り出し、玄関まで歩く間、今熱中しているアプリのことを思い出していると、ユニットの編成だとか、最新シナリオの評価だとかに気を取られ、作家と原稿のことは頭から抜け落ちていった。

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