境界線

司馬龍生

 東天紅東天紅と騒がしい。寒波がきて布団から出るのも億劫だというに、いつまでたっても鳴き止まぬ。布団をかぶっても響いてくる。やめだやめだ、と歯を磨く。
 ねぇ、あなた、今日は相撲に行くのでしょう。何時に出かけるの? 私化粧しなくちゃいけないから。
 浮かれて騒ぐ声がこれまた響く。頭蓋骨が持たんぞい。揺れが不快を呼び、不快が倦怠を生む。倦怠は五臓六腑に染みわたり、四肢の先に至る。否、否、朝から暗くあってはかなわない。
 おい、相撲はなしだ。美術展だ、美術展。市の美術館に春草が来てただろう。あれにする。
 なによ、いきなり。昨日あれだけ横綱が連敗して喜んで、直接見に行くんだ、当日券にならぶんだ、っていっていたのに。
 頬を膨らませ、ぷんぷんいいながらも目元は緩んで、化粧をはじめる。そもそも春草好きはあいつが拗らせているのだ。私はちょいとご相伴に与ろうという手合い。一石二鳥であろうよ。
 寒波寒波といいながら、幸いにしてよく晴れた。白い息がよく映える。澄んだ空が突き抜けて高い。身を任せてみたいほどに蒼く高い。公園にいる子供たちは広場を駆け回り、身震いする親の気持ちを知りやしない。凧が舞う、ボールが飛ぶ、靴も飛ぶ。親達も己の体のことなど忘れてしまってニヤニヤと笑みを浮かべているのだが、あれは後で筋肉痛になる手合いだ。もちろん楽しんだ結果ではあるわけだが。
 おとうさんボールー。
 我々の足元に青いボールが転がってくる。それを家内が投げ返してやる。ボールは明後日のほうに飛んでいった。
 まぁ、ごめんなさい、ごめんなさい。
 いえいえ、気にしないで。
 おとうさんボール―。
 父親がボールを追いかけ駆けていく、持ち上げる足が少しずつ鈍重になっていく。やはりな。笑顔がまぶしい。
 人類は外で凍えるのを遠慮しているのか、電車の中は人もまばらだ。おかげ様で電車に頭を揺らされるだけで済む。人が多いと臭いが危ない。よく煮詰まった鍋のように、混沌とした空気が人の心を沈殿させる。これは頭に効く、血流が悪くなる。麻痺に至る。皿を積み重ねた新吉の倦怠が、圧し掛かる。
 そんな道中の都合もあって、近隣の美術館は非常に心地いい。この地は首都と違って絵画を観賞しようという絶対分母が少ない。少ないがゆえに、ゆったりと、そう、ゆったりと歩けるというものだ。臭いも揺れも心配がない。誰に遮られることもなく、対話ができる。妻も展覧会を喜ぶ人種ではあるが、私より歩く速度が速い。気づけば姿が見えん。そして私は、さらにゆっくりと、ゆっくりと歩くことができる。
 『序の舞』である。あぁ、松園が筆の美人が称える柔らかく、しかし挫けぬ芯を抱いた力強さよ。その目から、手から、振る舞いから、ハッ、と息をのませる厳しさがある。音はない。鋭い空気に当てられてくっきりと浮かび上がる橙の色。存在感を讃える帯。寒気が走る。
 外の風に吹かれて冷えた体は、未だ温もりを抱くに至らず。芯が冷えたままである。そうだな、なんとなく芝の浜に迷い込んだみたいだ。周囲を見回してみればだぁれもいやしない。そのうち潮の香、波を音出してくるかもしれないよ。思えば今の私は、あの旦那と重なるところが多すぎる。あの男の運がよかったのは、いい嬶と一緒になったことと、魚屋としての腕が確かだったことだ。生憎後者を私は持ち合わせていない。私は酒を飲みたいよ。
 後ろから声を殺したささやきが聞こえてくる。げんなりだ。私はギリシャ牧野的な白昼夢を打ち消しながら先へ進んだ。
 案の定、妻は一つの絵の前で立ち止まっていた。否、見惚れて動けん、そういう性質なのだ。絵から出た自分の絵を崩されるほど不快なことはあるまいと、私はちょいと後ろから眺めることにする。
 菱田春草『黒き猫』。不思議に曲がった木の幹に黒い猫がちょこんと収まっている。猫はこちらを見据える、ただ見据える。挑みかかるでも、後じさりするでもなく、じっと見つめ、こちらの視線を受け止める。似た眼差しとどこかで向かい合ったことがあったな。あぁ、ルーブルの『モナリザ』か。あの上下で感情が非対称な不気味な絵も、人の視線を両眼に吸い取るような力を宿していた。こういった類は、太陽王の肖像と別の意味で気圧される。しかし……あの女性は形なりにも微笑を浮かべているだけましで、目の前の猫は感情が消されている。輪郭のない虚ろな姿が、ただこちらを吸い尽くそうとしてみえる。人を食らおうとするが如きところに、かえって生命力を感じる。ちょいと恐ろしくなってきたので、深呼吸をする。
 あれ、あんた、いたの? いつの間に。
 ん、随分と前からな。
 なによ、声をかけてくれればいいじゃない。
 なに、いい夢は見るに限る。
 外は相変わらず寒かった。凍てついていた。細かい雪が朧げに舞っていた。空は茜色に輝いていた。沈みゆく最後の力が、雪に乱反射していく。
 珍しい景色ね。
 うむ。
 私は妻を引っ張って歩いた。美術館周辺を当てもなく歩いてみた。葉を落とした木々の間を抜けていく。傘もささず速足で。雪はさらさらと、止むこともなく、頬を撫でる。身に触れた結晶は、瞬く間に溶けてしまう。火照る体を冷ましてくれる。ちらちらと光るものたちが、私を通り抜けていく。アンドレ・ブルトンが見た景色はこういった類だったのだろうか。こういった世界の中で羽の生えたライオンを見たのだろうか。さすれば私の手を握る、この女はさぞ奇妙で滑稽な絵を描いてくれるに違いない。解剖台の上にミシンとこうもり傘をおいてくれるに違いない。それとも、ここは日本で、私は日本人だから、叶わぬことなのだろうか。法皇の兄を捕らえて、
 日本では超現実は流行らぬ。なぜならしょっちゅう大震災に見舞われているからだ。
と啖呵を切ろうとして断念した日本人がいるのを私は知っている。そのとき通訳をしていたのが岡本太郎であるのを私は知っている。私が見ている光景は何だろう。超現実ではないかもしれない。しかし純粋経験であるはずだ。フッサールがいるはずだ。どこまでも、止まらずにいれば……。そう、酒は飲むに限る。雪見酒だ。
 と、腕が引っ張られた。
 あなた、あそこに屋台がありますよ。ちょっと食べていきましょうよ。
 妻がずんずん歩いていく。私は強引に酒を飲まされたことで気分を害しているのだが、一向に気付く気配がない。ただ、ただ、ずんずん、ずんずんと歩いていく。彼女もまた、今純粋経験の真っ盛りなのだ。黒猫の次はお好み焼きとは。何たる可能性であろう。あぁ広島焼の香りが鼻につく。私の腹が音を出す。
 体中にソースの香りをまとわせながら家につく。テレビをつければ大関が負けていた。
 こいつも白昼夢待ちかね。
 私は寒さに耐えきれず布団にもぐった。
 次、どうしても目を覚まさねばならんのなら、せめて汚れた財布でも拾いたい。そう願いながら目をつむった。

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